大きな声ではいえないが、最近、懐ぐあいがあったかい。
そりゃそうだよ。 だって、それまでは毎週一回はヲタ仲間と映画館にいって反省会をやって、週末は盟友と昼呑みしてで。 それ以外にもなんやかんやで呑み会やってで。
おおむね、週の半分くらいは外呑みしてたのが。。
そういうのをパタッとやめて、はや四ヶ月くらいになる。
こう言っちゃなんだけど、4か月前までは多くのマイミクさんよりもおいらの方が消費と納税の両面で日本に貢献していたと思うよ。 かなりジャンルが偏っていたけど。
一方で、コロナ後もおこづかいは不変のまま。
これについては夫婦間でちょっとした攻防があった。
「使わないんだから減らしても問題ないでしょ」
「冗談じゃない。給料は減らないのに小遣いを減らすなんてまったく論理的じゃない」
で、まあ、こっちの言い分の方が理に適っていたので、敵勢力はシン・ゴジラに多摩川で相対した自衛隊のように潔く撤退してくれたのだった。
なので、ここんところ太っ腹になってる。
例えば、こないだ随分ぶりで夫婦で寿司屋にいったとき。 ずーっとこもりっぱなしじゃ体によくない、浦和だったらまあいいべ、たまには贅沢しようぜ
ということでいつもの回転寿司じゃなくて、PARCOの中にある一丁前の寿司屋にいったときも
いつもは回転寿司でさえ、せこく割り勘にするくせに、いいってことよ、ここはおいらに任せなと鷹揚に手を振ったのだった。
この四連休もこういうのをアマプラで見たりしながら、引きこもっているんだけど
さすがにそれだけでは立つ瀬がない。
ニッポン経済のために、わが身の危険を顧みずに居酒屋やらカラオケやら映画館やらP店やらなんやらへの突撃を敢行している同胞たちに顔向けが出来ない。
ということでおいらも雨模様の間隙を突いて、西口に通じる浦和駅の地下道をくぐった。
地下坑道の先には日本有数の百貨店の食品コーナーの入り口がある。
そこにはすでに消費の戦士たちの行列が出来ていた。
そして、10時半の開店と同時に粛々と入場した。入口でお手々をアルコール消毒した後に各々の作戦行動のために散開する。
おいらの目的も決まっていた。 これだ。
ジャン・ポール・エヴァン。 フランスの誇るパティシエ。 彼の作るスィーツ、わけてもチョコレートは食べる芸術品と称されている。
なんてえらそうに言っても、僕ら夫婦はエヴァンのことをこの4月にNHKのテレビ番組で初めて知ったばっかりなんだけどね。
その4月に日記に書いたので、ちらっとだけ覚えていてくれてる人もいるかもしれない。
まあ、とにかく僕らはその番組を見て、かつそのショップが伊勢丹浦和店に出ていることも知って、「いつかはクラウン」と話し合った。
で、そのクラウンのときが早くも来たわけだ。 お国のためにカネを使わねばとは思うけど、今までみたいに外で飲み食いする度胸は丸出だめ夫。 であるか。 であれば、普通だったらまず使わない内食にゼニを使ったれや
それがエヴァンだったわけだ。こういうの。
なにを大げさなと思う向きもいるかもしれないけど。。ほんの一握りのチョコのためにこの払いだったんだぜ。 普段だったらあり得ない買い物だと思う。
僕がチョイスしたのはジャン・ポール自身がテレビでもチョコの神髄と強調していたトリュフ6個入りのちっさな箱。 あと、見た目が華やかだったマカロン4個の箱。
で、まあ、マカロンの方はこんなもんかなだったけど。トリュフはさすがのお味だったよ。
なにしろ、一口で食べきれちゃうちっさなトリュフ6個で税抜き2170円。
ひと粒300円台。ヤオコーのシュークリームを3個買っておつりが出る。
まさにひと粒300メートル。
昔はチョコレートというものには子供にも手が届く値段が設定されていた。
例えば、20円だ。
君はチョコベーを見たか (1972年)
https://www.youtube.com/watch?v=Ms02bFmJLe0
あるいは、50円とはいいことだ
と高らかに斉唱されたりしていた。
森永 エールチョコレート (1968年)
https://www.youtube.com/watch?v=Aubpbn0nXvA
それが日本だけで独自に発展した奇習が社会に定着した頃から変質していったのではないかと思う。
CM 明治製菓「バレンタイン」篇30秒ver
https://www.youtube.com/watch?v=G2XwFY9Im8E
僕自身がその耶蘇の本場では見られない儀式に惑わされ始めた時代のどこかだったと思うんだけど。
グリコが赤い鳥の「翼をください」をBGMにして、若い男女が野原で爽やかにポッキーをかじるCMを流した。
僕は素直にいい唄だと思ってドーナツ盤を買った。
赤い鳥 『翼をください』 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=t9PDg7Rg_Zw
その後、この曲はサッカーの日本代表応援歌になったり、小学生か中学生かどっちだったかの教科書に乗ったりして国民的な唱歌の位置にまで上り詰めたわけだけど。
同じドーナツ盤でカップリングされたもう片方の唄はまったく逆の運命を辿った。
こういうクレームが寄せられたらしい。
赤い鳥 竹田の子守唄
https://www.youtube.com/watch?v=1IeuDyR3ax4
この同和という問題は東だけで暮らしている人には実感できないと思う。
僕自身、学生時代に朝日ジャーナルなんかの特集を見たことはあったけど、まったくピンと来てなかった。
カムイの時代の話だろうと思っていた。
それが社会人になって大阪に赴任して、表面的ではあるけど啓蒙フィルムやなんかを見る機会があって、カルチャーショックを受けた。
この唄が伝承されていたという竹田地方の在する京都に赴任したときも然り。
「赤い鳥」の人たちはそういう事情を知らないで、純粋に佳い唄だと思ったからフォーク風にアレンジしてレコーディングしたそうなので、テレビ局の反応には吃驚だったろうけどね。
まあ、とにかく色んな歴史的な経緯を経つつ、チョコレートの高級化は進められた。
僕が思うにこのチョコメーカーがかなり大きな役割を果たしたのではないか。
今や、翔んで埼玉の首都・浦和でさえもPARCOにも伊勢丹にもショップが出ているほど日本に定着している存在だ。
僕がこのベルギーの菓子屋の存在を知ったのは90年代に前の会社で営業課長をやっていたときだった。
その会社のえらいさんが海外派でね、ゴディバのファンだったんだよ。
で、VIPの接待に出てもらうときに相手へのお土産に用意するのをそれの詰め合わせで決め打ちしてたもんでね。
相手のおっさんらがチョコをもらって喜んだかどうかは定かではないけど。 サラリーマンとしては、こっちのえらいさんの趣味に合わせる方がずんと大事だったんだよ。
そんなことで、僕自身はゴディバなるいつのまにかトルコ企業の傘下になっている有名チョコを今に至るまでいっぺんも口に入れたことはない。
それよりも、おフランスなのだ、ジャン・ポールなのだ。
といっても、その存在を知ったのはわずか3か月前のことなんだけどね。
考えてみると、チョコレートというお菓子を日常的には口にしなくなって久しい。
それは上で述べたバレンタインデーを初めとする歴史的な経緯によるものなわけだけど。
子供の頃は常に側にチョコがあった。この早口CMソングなんかしょっちゅう唄ってた。
マーブルチョコレート (1963年)
https://www.youtube.com/watch?v=VwNxlZfrGE0
遊びにおいても、ジャンケンでチョキを出して勝つと、チ・ヨ・コ・レ・イ・トで石段レースを6段上がることが出来た。
ちなみにパーで勝つと、パ・イ・ナ・ツ・プ・ルでやはり6段だったのは全国共通だったと思うけど。
僕が幼少期を過ごした八王子ではグーはグ・リ・コで三つだけだったのは、この画像のように東京だけの方言だったのだろうか。 江崎グリコは大阪の会社なので、なんかそぐわないような気もするけど。
それにチビ太のおでん、小池さんのラーメン、パーマン2号のバナナ、ハクション大魔王のハンバーグなどに匹敵するチョコを愛好するキャラクターが当時のマンガ世界にはいなかったような気がする。
これは当時の大人たちにギブ・ミー・チョコレートを思い出させるので敢えて回避されたのではないか。 深読みし過ぎかもしれないけど。
それから何年かすると、チョコレートはあまり希少価値のある食べ物ではなくなり。
マレーシアの奥地で虎(ハリマオ)という異名をとっていた野獣を手なずけるための道具になっていた。
僕自身もその頃にはチョコをありがたがることもなくなっていた。
親父の横で日曜洋画劇場を見ながら、アレキサンダーをお相伴するのがせいぜいになっていた。
それが還暦を過ぎた今、フランスの名菓を美味しくいただくようになったのだから、まさにチョコに歴史ありだと思ったわけだ。
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