mixiユーザー(id:258873)

2020年04月11日16:15

203 view

思い出すこと

この2週間=24(hour)*14(d/2w)=336時間中、外にいたのがざっと3時間、ということになっているという事実は大きい。(1日あたり、12分程度だ。買い物行って帰る時間。)

今日はさすがに、それはということで、1時間ほど散歩に出た。
ので、それでも4時間。

会社を外に出ている?ととらえるかはともかく
通勤時間など含めて10時間は外にいるとすると、
2週間で240時間

この違いは、やはり大きいのだろう。

恐らく、有識者は様々なこのような計算をしながら、それで飛沫する様々なものの中で
COVID-19にかかる"確率"で、基本的には計算しているはずだ。
そのうえで、様々な割合、数値が出ている。

ここであえて""で、強調させていただいた。
そう、確率というものは、おおざっぱに言うと統計ということであり、
非常に膨大のデータ中から、基本は"平均的な値"をとっていくことである。
(あくまで基本的にね。。

さいころを例にとろう

「外に出た瞬間」、君はあるさいころを振らされる、と考えよう。
そして、1が出るとどこかでCOVID-19にかかる、とする。
(じゃーそこで外出やめ、という、クーリングオフ期間はなし、とする。

単純だ。君は1/6の確率で、COVID-19に感染する。

今日は3がでたとする。君は救われる。
毎日毎日外出するなら、これが続く。
そして、それらのさいころを、みんなが外に出る瞬間毎日振らされている。

まず、これを肝に銘じないといけないのだろう。

ここで外から、入ってくることをあえて、考慮に入れてない点は、ご容赦いただきたい。考え方を、わかりやすくするためだ。

何が言いたいのかというと、仮にCOVID-19は単純にさいころで語ることができる場合、
それらが統計で集まった結果、1/6に恐らく収束するだろう。
そして、その1/6以下になってくれば、おそらく再びもとに戻る生活になるのだろう。

人の強さもある。周りの人の影響もある。もちろん清潔にしておくことも。
しかし、一つ言えることは、あくまでも"確率"という世界が、外には待っている、
と考えれば、少しは自粛ムードの本当の意味をとらえることができるのではないだろうか。
私は、外にいる時間は確かに240時間から4時間に確かに減った。
しかし、出た以上は、時間に関係なく、サイコロを振っているのだ。
だから、やはり、かからない可能性は0ではない。

私は、非常事態宣言は、
君に、サイコロを振る勇気はあるかい?勇気がないのなら、振らないでくれ。
と、とらえている

だが、ちょっと待て。逆に、サイコロを振ることで、僕らは、COVID-19に関係なく、
実は「外に出て」活動をしていたのではないか?あらゆる可能性を求めて。
その中に、致死をもたらす(であろう)COVID-19という要素が、
加わってきているだけなのではないか?
そう、しかし、振らなければ、先に進まないものもあるのだ。
先に進む=働く、健康のため歩く、やっぱりみんなと遊びたい。
色々あるだろう。私は、この非常事態宣宣言下でも、
実はそこはあまり否定したくないのだ。それは、COVID-19という要素に関係のない、
人間としての動物的本能でもあるだろう。
人間もずっとひとりではいられない。ずっと群れの中でも疲れてしまう。
なんと、不器用な生き物であることか。。

もう一度言わなければならないだろう。
外に出るということは、何らかのサイコロを振ることだ。
今回、私たちはそのことを学ばなければならない。
そして、COVID-19だから、ではなく、たまたまCOVID-19によって、
私たちは、何かに遭遇する"確率"に、目を向けていくべきなのだ。

さあ、本題に入ろう。
「思い出したこと」
このサイコロを振ることは、実は、非常に自分の意志に基づく、行動となる。
サイコロを振る以上、私たちは何かを求めて振るのだから。

その時、あるサイコロを振る瞬間が同じようにあった。
それは、私が幼少期の時で、ふっとフラッシュバックしてきた。

みんな、小学校で、急に先生が風邪で休んだりして、
1時間分空いたことはないだろうか。
みんな、喜ぶ。遊びだすものがいる。勝手に体育館に行くものもいた。
自習している人もいる。風紀委員的な人は静かにしておいて、という。
そして、自習と黒板に書かれた、その刹那、伝言にきた先生が言った一言が、
今の私の結論になる。

「先生がいないときにこそ、何をやるかでおまえら決まるぞー。」

まず、今なら"おまえら"は多分OUTだろうとか、そういうのはあるにせよ、
この瞬間、私含め生徒全員が一瞬凍り付いたのを覚えている。
その先生も大変で言ったのだろうけど、何をしとけとも、静かにしとけとも、
言われなかったのである。
あれってなった。そして、自分たちは何をすればいいの?の状態になる。

さわげば、多分怒られるだろう、教室出たら、多分結果は同じ。
でもグループが分かれてきて、それぞれが行動を始める。
もちろん多少ふざけている人たちも出だした。
私も確かドッジボール好きだったので、みんなと体育館空いてないか、
見に行った記憶がある。

問題は、それぞれの人がそれぞれの考えで、リスクやそれでもやりたいことを見つけて、
自分たちで、サイコロを振りに行ったことである。
もちろん潜在意識的に学校を出たらさすがにヤバイ、という考えもあっただろう。

しかし、まさに、放り出されたその刹那に、どのように自分たちが、
そんな状況でもサイコロを振りに行くことを、どうやって判断して、
そして実際に振るのか。

そこなのである。大事なのは。
外に出るな、という非常事態宣言である。
こんなきれいごとなどいってられないくらいの状況になる可能性もある。
そうしたら、さあ、自分たちどうします?なって言ってられないかもしれない。

しかし、状況がどうなっても、自分たちがサイコロを振り続け、
「先生=政府」なしでも、自分たちならどう動くか、を自分たちの尺度で、
考え動くことが大事である。

その結果、何かの病にかかるかもしれない。
しかし、自分が貫いてやろうとしたことがあれば、それはそれでいいのだと思う。
そして、貫いたことで死ぬことはあまりにも無意味な場合は、サイコロを振らない、
という選択肢ももちろんある。

こう説明すれば、不要不急のとらえ方も変わってくる。
実は、不要不急ではないのだ。自分がサイコロを振りに行くのかどうかなのだ。
サイコロを振るべきなの?それも先生方は色々言ってくれている。
でもそれも先生がいない状態、と考えていいだろう。
だって、こんな状態初めてなのだから。

ここ最近の、テレビのニュースやYah〇〇の記事で、
もう見たくないという、感覚が初めて立った。
苛立ちにすら近かった。

しかし、私はこう書き留めて、ようやく、少し前を向けると思う。

サイコロを振るかどうか。
そして、自分の行動は、どのサイコロを振ることになるのか。
サイコロは振らない選択肢を取るのは簡単だが、今度は精神的なものは大丈夫か。
そして、少しさっき、話をそらした、他のものから入ってくる要素は。
それでもサイコロを振るのか。そして、今日に限ってはちょっと振ってみた。
さて、どうなるのか。である。

なるほど、そう考えれば、みんな色々記事になったりしているが、
みんな、色々、確かに、考えている。

それらは、つまるところは、毎日の生活の中で、
ごく、普通に、簡単に、それでいていくばくかの緊張感があり、勝負を賭けられる。
そんな、サイコロを常に振れる状態であってほしい。
との、"強い願い"なのだ。

サイコロも振れない世界なんて、面白くないじゃない。
次、本当に、本当のサイコロを振れるようにするため、
先生がいない状態でどのようなサイコロを作っておくのか。そしてそれを振るのか。
それとも、じっとして、今あるサイコロを温めるか。今のサイコロで勝負するか。
ただ、今、常にCOVID-19のサイコロ振り続けるのは、確かに怖い、という状況ではあるのだろう。

幼少期の一つのフラッシュバックが今の生活にピンときて、
しっくりときた感覚となり、何よりうれしいのは、それで前向きにまだ生きていけそうという、感覚に戻してくれたことに感謝をしたい。

先生の名前、忘れてしまった。。
ごめんなさい。突発的に出た言葉なのかもしれないですけど、
今、やっとその意味が分かりました。

やってみせますよ。先生。正解なんてない。間違いもない。
出た目がどうなるかもわからない。ただ、何かの状態へ収束することには多分なっていく。ということも、よくわかりました。ありがとうございます!
では、元気に元の生活に戻りましょう!

では、起立!礼!さよーなら!

まずは、どうしても、いまピザポテトチップスが食べたいので買ってきます!
(最悪な結論。。。笑)
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年04月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

最近の日記