自分が少しばかりいただいた時間を生きていくときに、音楽を聴く時間が究極的に自分を救うわけでないことが分かっていても、その一時的な救いに身をあずけたくなる時がある。
そして、それが明日の救いどころか、逆に明日の自分を窮地に追い込んだとしても、
この時に、何かしらの思いを生み出させるために、音楽を聴くときがある。
それが、いつしかそれがその時救いにならなかったとしても救いの一部にはなっていて、と、思いこむ自分を確信することで、それで救われ、結果的にあとで救われればいい、
という、結果、を、求めて、音楽を聴く、という循環に入っていく。
正しさなどない。誤りなどもない。
ただ、この今ある時間の流れの少しの変化を感じることで、自分は、
何かもっと違った価値のある動きができるかもしれない。
思うと思わざるにかかわらず、状況が変わる。
その中で、動きがある中で、なぜか、心は同じ状態を保つために、音楽を聴く。
言っていることが矛盾しているのはわかっている。
違う時間を歩みたいのに、心は保っていたいのだ。
失いたくない。でも、得たい。失いたくないから歩く。得たいから止まる。
歩かなければ得られないのに。
止まれば失うものなどないのに。
それでも、歩いていく。心を保ちながら。
Jean Victor Arthur Guillouさんが2019年初めに、既に亡くなっていました。
久々に調べたら、、、でした。本当に大好きなオルガニストでした。
こんなに奔放にオルガンに一度話しかけてみたい。合掌。
やりたい放題なんだけどね。この演奏も。
でも、彼はやはり得るために、しっかり歩いた。歩けた。
それがすごい。
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