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2019年12月01日02:00

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12月01日の日記

今日の出来事:1925年−京都学連事件、1934年−ロシア共産党中央委員会書記のセルゲイ・キーロフが暗殺、1949年−初のお年玉年賀はがきを発売

今日は、京都学連事件です。京都学連事件は、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた検挙です。最初の「治安維持法適用事件」となりました。1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する「学生社会科学連合会(学連)」が発足しました。学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、1925年7月には第2回全国大会を京都帝国大学で開催、代議員80名が参加しました。1925年12月、京都府警察部特高課は、全市の警察署高等係を動員して京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索などで学生33名を検挙しました。しかし、京大寄宿舎で立会人なしの捜索を行うなどした事から、大学当局の抗議にあいました。このため、府知事は陳謝して全員が釈放されました。しかしその後、司法省を中心に本格的検挙に向けて態勢が立て直され、翌1926年1月15日に東京検事局の平田勲らが指揮をとり、記事報道を差し止めた上で各府県警察部特高課を動員し、以後4ヶ月にわたって全国的な社研会員の検挙が行われました。同時に社研に関係があると見なされた京大の河上肇、同大の山本宣治・河野密、関学の河上丈太郎・新明正道ら教員に対しても家宅捜索が行われました(このうち山本宣治は捜索を理由に同大を免職となる)。検挙された学生のうち38名が「治安維持法」および「出版法」違反・「不敬罪」により起訴されました。京都地裁による1927年5月の第1審判決では、「出版法」違反および「不敬罪」については特赦となりましたが、「治安維持法違反」については是枝恭二(東大文)ら4名の禁固1年を筆頭に37名が有罪となりました。弁護人と検察は共に控訴、その後の「三・一五事件」の影響で公判は紆余曲折の経緯をたどりました。1929年12月の大阪控訴院判決では18名に対し、懲役7年以下とより厳しい量刑となりました。そして1930年5月、大審院による上告棄却で有罪が確定しました。1926年6月29日、岡田良平文部大臣はこの事件を受けて学生・生徒による社会科学研究の禁止を通達、1928年4月17日には東京帝大が新人会に解散命令を出しました。以降、各帝大社研に解散命令が下されました。東大新人会は1929年11月7日に解散を声明しました。

次に、ロシア共産党中央委員会書記のセルゲイ・キーロフが暗殺です。セルゲイ・キーロフは、1920年から1922年までザカフカース各地で革命政権を樹立し、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国をソ連に編入する事に関与しました。1923年、ロシア共産党中央委員に選出されました。スターリンに接近し、スターリンの懐刀とみなされるようになりました。1926年、グリゴリー・ジノヴィエフの拠点であったレニングラードに第一書記として着任し、ジノヴィエフ色を一掃しました。1930年代の農業集団化ではクラーク弾圧に力を奮い、スターリンと並ぶ有力な対抗馬と見なされました。しかし、1934年12月1日、スモーリヌイ学院のオフィスで党員のレオニード・ニコラエフに暗殺されました。キーロフは当時ニコラエフの妻と不倫をしており、両者の関係は悪化していたため公式にはそれが殺害動機とされました。暗殺直後、ニコラエフは現行犯で警備兵に逮捕され、12月29日に銃殺刑に処されました。彼の家族もほとんどが逮捕・処刑されました。「キーロフ暗殺事件」は、「大粛清」の契機となりました。スターリン以下共産党指導部は、キーロフ暗殺の背後に大規模な「陰謀」の存在を主張し、反対派に対する弾圧を強化していきました。こうした弾圧・粛清は秘密警察の指導者ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフにより実施されました。事件直後、レニングラードの共産党関係者が一斉に検挙され、ジノヴィエフ、レフ・カーメネフらの反スターリン派は事件関与の嫌疑で逮捕、処刑されます。

最後に、初のお年玉年賀はがきを発売です。お年玉付郵便はがきは、「お年玉付郵便葉書等に関する法律」に基づき、日本郵便株式会社が発行する郵便はがきの一つです。発売初年度は1949年12月1日でした。年賀はがき、年賀切手にはお年玉くじが付いており、毎年1月に抽選があります。「お年玉付郵便葉書等に関する法律」により、賞品の金額は郵便料金の5000倍(25万円)が上限と決められています。当たりくじの時効は同法により、6か月となっています。お年玉くじの付いた年賀専用はがきのアイデアは民間人が考案したもので、当時の郵政大臣などに何度も直談判して採用してもらったものです。1949年、当時京都在住で大阪にて洋品雑貨の会社を営む林正治が、「終戦直後で通信手段が十分でなかったこの時代にせめて年賀状が復活すれば、差出人・受取人ともに消息が分かり合えるであろう」と考えついたのがきっかけです。この年賀状にお年玉くじを付ければ皆が買ってくれる、更に寄付金も付ければ社会福祉にも役立つと考え、大阪の郵便局で郵政大臣への紹介状を書いてもらい、上京して郵政大臣などと面会しました。林正治は自前で見本となる、はがきや宣伝用ポスターを作成し、更には具体的に景品まで考えてプレゼンを行いました。だが前例のないものであり、戦後の混乱期でもあったので「時期尚早」とあっさり却下されました。それでも林正治は諦めず粘り強く交渉を続けた結果、同年暮れに正式に採用されました。この頃の賞品は特等・ミシン、1等・純毛洋服地、2等・学童用グラブでした。この「お年玉付郵便はがき」は現在まで続く大ロングセラーとなった事で大いに感謝された林正治は、その後「郵政審議会」の専門委員を務めました。この成功を受けて、夏のおたより郵便葉書(暑中・残暑見舞いハガキ「かもめ〜る」)が登場しました。更に「さくらめーる」(春)、「もみじめーる」(秋)が登場しました。しかし、「さくらめーる」、「もみじめーる」は現在では、販売を終了しています。2014年の年賀はがきの商品は「お年玉」です。 1等は「現金1万円」が当たるようになりました。2016年の1等は「現金10万円」となりました。2020年の1等は「現金30万円又は電子マネー31万円分」に加え、東京五輪の開会式または閉会式のペアチケットや競技観戦ペアチケットが特別の賞品となりました。

今日の誕生日:武田信玄、島津斉興、小林多喜二、奈良岡朋子、藤子・F・不二雄、松島みのり、八木沢荘六、梨元勝、富司純子、根津甚八、岩久茂(元青い三角定規)、ハビエル・アギーレ、林家正蔵 (9代目)、サルヴァトーレ・スキラッチ、池田政典、池谷直樹、長谷川理恵、和田唱(TRICERATOPS)、一十三十一、中島優美(ユウ)(元GO!GO!7188)、山上暁之進(山上兄弟)、宮本佳林(Juice=Juice)、太田夢莉(NMB48)、敬宮愛子内親王、聖闘士星矢、地デジカ

今日の記念日:師走、世界エイズデー、映画の日、鉄の記念日、いのちの日、デジタル放送の日、カイロの日、データセンターの日、着信メロディの日、カレー南蛮の日、下仁田葱の日、手帳の日、明治ヨーグルトR−1の日

今日の「今日訓」:本日より12月「師走」です。「師走」とは、「師趨月:一年の終わりで忙しく、師匠もまた趨走する月」、「師馳月:年の瀬の読経のため、あちこちに呼ばれ、法師も馳走る月」が語源です。世界保健機関(WHO)が1988年に、エイズ問題への人々の意識を高める事を目的として制定された「世界エイズデー」、1896年11月25日に神戸の神港倶楽部で、日本ではじめて映画が一般公開された事を記念し、それに近いきりの良い日を「映画の日」、安政4年(旧暦12月1日)に南部藩士・大島高任が日本で初めて高炉による製鉄に成功した事を記念して「鉄の記念日」、厚生労働省が2001年に自殺予防活動の一環として制定した「いのちの日」、1991年、カイロの需要が高くなる12月の最初の日を「カイロの日」、Data Centerの頭文字「DC」が英語の12月(December)に似ている事から12月「安全第一」で1日を「データセンターの日」、地上デジタルテレビジョン放送が、2006年に全国の都道府県庁所在地で受信可能となった事を記念して「デジタル放送の日」、株式会社フェイスが、株式会社エクシングと共同で世界で初めて「着信メロディ」を配信した事から「着信メロディの日」、カレー南蛮を世に知らしめた東京目黒の蕎麦屋「朝松庵」2代目店主、角田酉之介氏の誕生日で「カレー南蛮の日」、「下仁田ファーム」の下仁田葱の出荷解禁が12月1日である事から「下仁田葱の日」、「師走」に入り、手帳を活用して1年を振り返り、新しい手帳を準備する時期である事から「手帳の日」、2009年12月1日に「明治ヨーグルトR−1」が発売された事から「明治ヨーグルトR−1の日」となりました。
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