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2019年08月16日00:18

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8月16日の日記

今日の出来事:1281年−元寇:弘安の役、激しい雨風により元軍が壊滅(神風)、1544年−布野崩れ、1868年−磐城戊辰戦争:第一次磐城平攻防戦、1945年−スターリンが北海道北部をソ連が占領する事を提案するが、トルーマン米大統領が拒否する。「日本は分割統治せず」声明、2007年−埼玉県熊谷市・岐阜県多治見市で最高気温40.9℃を観測し、74年ぶりに日本最高記録を更新

今日は、元寇:弘安の役、激しい雨風により元軍が壊滅「神風吹く」です。文永の役で日本侵攻に失敗したモンゴル帝国(元)の第5代皇帝:フビライ・ハーンは、再び礼部侍郎・杜世忠を正使とする使者を日本に送りました。執権・北条時宗は鎌倉の龍ノ口刑場で杜世忠以下5名を斬首に処しました。元は江南軍司令官である南宋の旧臣・范文虎の進言により、使者が殺された事を知らないまま、周福を正使とする使者を再び送りましたが、大宰府にて全員斬首に処されました。使者が死者になった事を知ったフビライ・ハーンは、日本への再遠征を計画しました。元・高麗軍を主力とした東路軍約5万・軍船900艘と、旧南宋軍を主力とした江南軍約10万・軍船3500艘、合計で約15万・軍船4400艘の軍が日本に向けて出発しました。
対馬侵攻:東路軍は対馬沖に到着し、世界村大明浦に上陸しました。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
壱岐侵攻:東路軍は壱岐に上陸しました。東路軍は壱岐の忽魯勿塔に向かう途中で暴風雨に遭遇し、兵士113人、水夫36人の行方不明者を出しました。
長門襲来:東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来しました。
博多湾進入:東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得ました。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接フビライに伺いを立てて、軍事の事は東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得ました。こうして、東路軍単独で大宰府西方面からの上陸を開始する事に決定しました。対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとしました。しかし、日本側は既に防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念しました。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃とうとする者もいました。後に河野通有は「河野の後築地」と呼ばれ称賛されました。
志賀島の戦い:博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領しました。志賀島周辺を軍船の停泊地としました。日本軍は軍勢を二手に分け、海と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して総攻撃を敢行しました。海の中道を通って陸から東路軍に攻めいった日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦しました。志賀島の東路軍は日本軍に300ほどの損害を与えましたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走しました。東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬に乗って敗走しましたが、日本軍の追撃を受けて危うく討ち死にする寸前まで追い込まれました。しかし、王万戸の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛けたため、洪茶丘は僅かに逃れる事ができました。海上から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は蒙古兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って敵船に斬り込み、敵将を生け捕るという手柄を立てました。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長や肥前御家人の福田兼重・福田兼光父子らも参加して活躍しました。この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つ事にしました。出航した江南軍は、東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指しました。東路軍に向けて平戸島沖での合流を促す先遣隊を派遣し、壱岐島で先遣隊が東路軍と合流しました。慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島近海に到着しました。平戸島に上陸した張禧が率いる4000の軍勢は塁を築いて陣地を構築し、日本軍の襲来に備えると共に艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させました。
壱岐島の戦い:日本軍は壱岐の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始しました。この戦闘で薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、肥前松浦党の御家人・山代栄らが奮戦して活躍しました。肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始しました。瀬戸浦で東路軍と激戦が展開されました。この瀬戸浦での戦いで龍造寺家清が活躍しました。壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接した事により壱岐島を放棄して、江南軍に合流するため平戸島に向けて移動しました。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、鎮西奉行・少弐経資、少弐資能が負傷し(後に死去)、経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上で戦死するなどの損害を出しました。平戸島に向けて移動した東路軍は江南軍と合流し、平戸島に上陸しました。
鷹島沖海戦:鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となりました。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間行われ、夜明けとともに日本軍は引き揚げました。一方、日本軍は六波羅探題から派遣された引付衆・宇都宮貞綱が率いる6万余騎の大軍が北九州の戦場目指して進軍中でした。この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合いませんでした。
神風:そして、台風が襲来しました。海上は5日間荒れ、元軍の軍船は多くが沈没、損壊するなどして大損害を被りました。元軍の軍船は、台風により艦船同士で衝突して砕け、4000余隻の軍船のうち残存艦船は200隻でした。元軍は撤退する事になります。
御厨海上合戦 :日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始しました。肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け、筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船三艘の内、大船一艘を追い掛けると乗り移って元兵の首を挙げました。また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎で元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦しました。日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾から一掃しました。
鷹島掃蕩戦:御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指しました。一方、台風の後、鷹島には元軍の兵士10万が籠っていましたが、諸将が逃亡していた為、張百戸なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退する事にしました。日本軍は鷹島への総攻撃を開始しました。「文永の役」でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入ると奮戦しました。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を2人を生け捕るなどしました。また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦して活躍しました。一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払いました。これらの竹崎季長、福田兼重・都甲惟親ら日本軍による鷹島攻撃で10万の元軍は壊滅し、日本軍は2、3万の元の兵士を捕虜としました。戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、「弘安の役」は日本軍の勝利で幕を閉じました。元軍で帰還できた兵士は、後に解放された捕虜を含めて全体の1割でした。日本軍はモンゴル人と高麗人、漢人の捕虜は殺害しましたが、交流のあった南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としました。博多の唐人町は南宋人の街であるとも言われています。命を助けられた捕虜は、工匠や農事に知識のある者でした。この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も相当数が破損しました。

次に、布野崩れです。「布野崩れ」は、1544年に、備後国比叡尾山城に攻め寄せた尼子軍を、大内軍(毛利氏・三吉氏)が迎え撃った戦いです。1543年の「第一次月山富田城」の戦いで、尼子晴久は攻めて来た大内義隆の軍勢を返り討ちにしました。これにより尼子氏は、安芸・備後などで反転攻勢に出ました。備後国人たちへの切り崩し工作により、神辺城の山名理興(杉原理興)を調略しました。尼子氏に寝返った山名理興は、尼子氏の備後攻略の足掛かりとなりました。1544年8月、尼子晴久は尼子国久とその子・誠久を総大将として7000の軍勢を送り込みました。尼子軍は、大内方となっている国人・三吉広隆が守る比叡尾山城を目指して進軍し、城から10キロメートルほど離れた布野に陣を敷きました。比叡尾山城は安芸吉田郡への入口にあたる要衝に位置しており、遠征の狙いは毛利元就の居城・吉田郡山城の再攻撃を企てていました。これに対して毛利元就は、福原貞俊・児玉就忠らに1000余騎を預けて援軍としました。8月16日に濃霧の中で尼子軍に攻めかかりましたが、精強で名を知られた「新宮党」を率いる尼子国久らの前に毛利軍は敗走しました。毛利軍に属していた上山実広などが討ち死にしました。あまりの大敗であったため、この戦いは「布野崩れ」と呼ばれました。しかし、比叡尾山城の三吉広隆が率いる軍500は、翌日に尼子陣営に奇襲をかけました。前日の大勝によって尼子軍は油断しており、総崩れとなって出雲国へ退却しました。こうして、大内軍は尼子軍の侵攻を食い止める事に成功しました。尼子軍が撃退された事で備後国に残る尼子方の有力国人は、山名理興のみとなりました。大内軍と安芸国人衆は、粘り強く抵抗する神辺城を攻めました。ようやく1549年に山名理興を降伏させ、備後から尼子氏の影響力を駆逐する事に成功しました。しかし、備後などを巡る尼子氏との攻防を、大内義隆が家臣任せにしていた事が、大内家の家臣離反「大寧寺の変」の一因へと繋がっていきました。さらに毛利元就は、一連の戦いを通じて確実に勢力を伸張し、最終的に大内氏からの独立に向けて力を蓄えるまでになりました。

最後に、磐城戊辰戦争:第一次磐城平攻防戦です。湯長谷を失った列藩同盟軍は撤退の助けとするため湯本に放火、合流した仙台藩兵、磐城平藩兵とともに浜街道の堀坂に陣を敷きました。湯長谷を落とした岡山藩、佐土原藩ら新政府軍は直ちに堀坂に向かいましたが火事で通れず、手間取りながらも東に迂回しました。ようやく延焼する堀坂を回り込んでいくと、ちょうど列藩同盟軍の側面をつく形となりました。列藩同盟軍は虚を突かれて混乱し、被害を出しながら磐城平城付近まで退却しました。こうして時間を費やしながらも、ついに磐城平城を目前にした岡山、佐土原藩でしたが、磐城平城は同盟軍にとって重要な要害であり、磐城平藩と中村藩の頑強な抵抗に手を焼きました。また、列藩同盟軍に到着した米沢藩3小隊が加わり、米沢・仙台・中村兵は稲荷台に砲陣をしいて砲撃を加えました。火縄銃が主体の列藩同盟軍ですが、米沢藩兵は元込銃で武装しており、猛射によって新政府軍の前進を食い止めました。新政府軍は攻めあぐねたまま日没を迎えて、湯長谷に一時退却をしました。この日、海側の薩摩藩と大村藩は小名浜に上陸したばかりの富田小五郎が率いる仙台藩の増援1大隊と富岡で遭遇していました。そのために岡山、佐土原藩の援軍に向かう事ができませんでしたが、仙台藩の1大隊を壊滅させる事に成功しました。
仙台富田隊の壊滅:泉領奪還へと向かう仙台藩・富田小五郎の1大隊でしたが、水田地帯を進軍中に新政府軍に捕捉されてしまいました。薩摩藩の最初の砲撃で多数の負傷者を出しました。その上、間髪を入れずに薩摩藩が突撃を敢行し、大村藩は側面に回りこんでの一斉射撃を仙台藩・富田隊に浴びせかけました。たちまち富田隊は総崩れとなり、輸送艦の停泊する小名浜方面へと撤退を始めました。沖には「太江丸」と「長崎丸」が停泊しており、富田隊は海上での立て直しを図りました。しかし、中ノ作から沖合いの輸送艦までは30人乗り程度の大きさの伝馬船に乗って沖を目指さねばならず、数も足りないために数度の往復が必要となりました。それでも負傷者から搬送させようと奮闘する富田小五郎らの尽力で輸送は進み、薩摩藩が殺到する直前に最後の30人が乗り込みました。後は沖へと漕ぎ出すのみでしたが、すでに潮の流れは干潮となっていました。結果、船は沖へ向かうどころか浜へと近づいていきました。そして、浜には薩摩藩兵らが銃を構えて待ち構えていました。仙台藩兵は為す術もなく、銃撃を浴びる事になりました。この日、仙台藩の戦死者は64人に及び、中には殿を務めた富田小五郎も含まれていました。海上に逃れた仙台兵も怪我人と士気の低下、隊長の戦死により大隊としての機能を喪失しました。

今日の誕生日:フリッツ・フォン・エリック(鉄の爪)、菅原文太、山根青鬼、山根赤鬼、ディック・マードック、吉村大志郎(ネルソン吉村)、ジェームズ・キャメロン、マドンナ、山根康広、金山一彦、前田耕陽(元男闘呼組)、小木博明(おぎやはぎ)、西田ひかる、本田朋子、大沢あかね、ダルビッシュ有、高部あい(元美少女クラブ31)、ざわちん、吉田朱里(NMB48)、MIYUU(Happiness、元E−girls)、エル・シド・ピエール、雨宮ひかり、獅子座のアイオリア

今日の記念日:女子大生の日、電子コミックの日

今日の「今日訓」:本日は、1913年に東北帝國大学(現・東北大学)が女子受験生3人の合格を発表、日本初の女子大生が誕生した事から「女子大生の日」、2004年8月16日に国内最大級の総合電子コミックサイト「コミックシーモア」がサービスを開始した事で「電子コミックの日」となりました。
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