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2019年05月08日16:34

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ガタルカナル島作戦の頃、陸軍参謀本部は損失した徴用輸送船の不足を埋めるべく民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求するが東條はそれを拒否

戦争中、時の総理である東条英機に『馬鹿野郎』と言った陸軍将官が居た・・もっとも彼は、戦争反対の立場で東条を罵倒したのではなく、陸軍の権限拡大のために総理である東条を罵倒したような視野狭窄の屑であった。


東条はヒトラーやムッソリーニと比べられるような独裁者呼ばわりされているが、東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。


癇癪持ちのヒトラーやスターリンなら、自分を『馬鹿野郎』と批判する人物を許しはしなかったであろう。


東条英機は、戦後、A級戦犯に指定されたこともあり、毀誉褒貶が激しい人物ではあるが、けっしてヒトラーやムッソリーニ・スターリンや毛沢東のような気まぐれで我が儘な独裁者ではなかったのである。


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緒戦の日本軍の快進撃も、日本軍が予想を上回るスピードで勝ち進んだ結果、占領地域が東南アジア一帯に伸びたばかりか、戦線が国力を超えるアメリカ本土沿岸からアフリカ沿岸、オーストラリアにまで伸びたことや、ミッドウェイ海戦の敗北によりその勢いは陰りを見せ始める。さらに1943年に入るとヨーロッパ、アフリカ戦線ではドイツ国防軍が完全に劣勢に回り、さらにイタリア王国が連合国に対して降伏するなど、やがて大戦末期には日本は1国でイギリスやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドをはじめとする複数の連合国に対峙することを余儀なくされた。


参謀本部は戦局を打開するため、オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等を考案し、ガダルカナル島を確保するべく海軍はこの付近に大兵力を投入する作戦に出た。陸軍にも応援を要請しておこなわれた過去3度にわたるガ島争奪作戦はいずれも失敗する。多くの海戦がおこなわれ、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦などでは日本側はアメリカ軍やオーストラリア軍の多くの軍艦を撃沈撃破した。しかし日本側も損害も少なくなく、とくに日本側の陸軍輸送船団はガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、作戦どころの話ではなくなってしまった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画する。


参謀本部は民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求するが東條はそれを拒否する。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であった。過去に投入した輸送船団は援護が少ないこともあり輸送作戦の成功の可能性は少なく、また参謀本部の要求を通すと国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためである。


東條の反対に怒った参謀本部作戦部長・田中新一は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する陸軍軍務局長・佐藤賢了と討論の末とうとう殴り合いになった。

さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いて激論を展開、東條ら政府側に向かって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。

東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。しかしガダルカナル作戦はさらに行き詰まり、1943年(昭和18年)2月にはガ島撤退が確定する。


抗日ドラマと違い、現実の日本人は「馬鹿野郎」とはほとんど言わない=中国メディア
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=97&from=diary&id=5609458


好意的な評価
昭和天皇からの信任
『昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。

元来東条と云ふ人物は、話せばよく分かる、それが圧制家のように評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎるために、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[111]

東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[111]

東条は平沼に云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[111]

原剛と秦郁彦は、昭和天皇が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している[111]。

昭和天皇は東条に信頼感を寄せているんです。東条を非常に高く評価しているのは、それまでの大臣とか参謀総長と違って、本当のことをきちんと報告したからでしょう。
— 原剛、[111]
能吏なんですよ。今の世の中でも、能吏は意外に少ないんです。東条はまさに能吏であり、そこが天皇のお気に召したわけです。— [111]

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える。

昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。

『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記されているが(たとえば石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。

国内の好意的な評価
木戸幸一の評
「東條って人は非常に陛下の命というと本当に一生懸命になってやるわけでね、その点はある意味ではまた大変強い。東條って人はよくみんなに言われるような主戦論者でもなければ何でもないんだ。極めて事務的な男で政治家でもないんですよ」と語っている[112]。

重光葵の評
「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」[113]。

徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比-
徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物の欠乏」を挙げて、「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない 」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている[114]。

井上寿一の評
井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している[115]。

来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢-
来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている[116]。

山田風太郎の評
山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている[117]。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。
東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。

西部邁の評
西部邁(評論家)は2017年の著書で「(靖国)神社は「英霊」を祀る場所であり、そして「英(ひい)でた霊」とは「国家に公式的な貢献をなして死んだ者の霊」のことをさす。故東条英機をはじめとするA級戦犯と(占領軍から)烙印を押された我が国の旧指導者たちに英霊の形容を冠するのは、歴史の連続性を保つという点で、是非とも必要なことと思われる」、「A級戦犯と名付けられている(戦勝国によって殺害された)人々の霊(なるもの)が英霊でないはずがない[118]」と述べている。

外国からの好意的な評価

バー・モウの評
ビルマ国(戦後成立したビルマ連邦とは異なる)首相バー・モウは自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はイギリスのクレメント・アトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。

レーリンクの評
東京裁判の判事の一人でオランダのベルト・レーリンクは著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」と東京裁判の有様を批判している。

その他
イギリスのジャーナリストであるヘンリー・スコット・ストークスは、樋口季一郎、安江仙弘らと共に、多くのユダヤ人の人命を救い、ドイツの抗議に「当然な人道上の配慮」と一蹴した東條の功績は大きいと評している[119]。
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