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2019年04月03日17:25

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【2000年3月】奈良から車で山陰を走る

車を捨てて6年になりますが、思い起こせば昭和60年の2月に最初の車を手に入れて以来、横浜市青葉区での生活に戻る2001年4月までは車を日常生活の足としていたと言っても過言ではありません。筑波での学生生活、鉄道の通らない茨城県阿見町での会社生活では車を所持しないのは大きなハンディキャップでした。阪神大震災の直後、横浜市青葉区へ転勤したら東京や横浜へ遊びに行くのに車は要りませんが、会社までの4kmの道の通勤は車がベストでした(後に戻ってきてから3kmの道を徒歩で通勤するようになったのは大きな生活スタイルの変化です。)その後、四日市のコンビナートの事業所に転勤し、車が通勤手段であるばかりでなく、離れた工場に宿直という任務が回ってくるので行き帰りだけでなく車で巡回に出るという用事も加わりました。1998年に関西学研都市の研究所に出向、近鉄の最寄り駅から2km、バスの便も少なく、車への依存度も高まりました。

一人旅に目覚めたのは昭和の終わりですが、元々は鉄道好きなので周遊券を思いっきり使うのが私の旅のスタイルでした。休日に車で遠出するようになったのは四日市に引っ越してからでした。つくばや阿見町や横浜市青葉区に住んでいた時も、週末に柏市の実家まで車を飛ばして帰り、日曜の夜に戻っていたので車の運転量も結構なものでしたが、実家を遠く離れて車の運転が本格的に自分の生活の中心となって行きました。事業所の雰囲気になじめずパワハラにも晒された不遇な四日市時代でしたが、休日の気晴らしに大台ケ原からの景色を眺めたり、滋賀県や岐阜県のスキー場に遊びに行ったりして首都圏から遠い地方の土地勘も養ったつもりでした。1997年には四国への10回目の旅行に車で出かけ、車での初めての宿泊を伴う一人旅となりました。

1998年に関西学研都市の研究所に出向した時は、自由な生活を取り戻した解放感から車での外出機会も増えました。京都観光、北海道と東北は鉄道がメインでしたが、九州、北陸、四国と以前何度も鉄道で回った地域を自分の車で走り直すのが楽しみとなりました。20代の前半、旅行と言えば高校のオーケストラ部の先輩、同級生、後輩と夏休みやGWに那須、信州、東北へ出かけた思い出があるのですが、車で「連れていってもらう」旅行で再会した皆さんと一緒に行動するのは楽しいけれど、どこか心に満たされないものがありました。昭和の終わりに一人旅に目覚めて、目的地までのルートもスケジュールも自己責任の本当の旅を堪能できるようになったのですが、20世紀の終わりに近づいて自分の車で旅するようになって目的地までのルートも自走することで更に行動の自由を拡張したつもりになりました。

関西学研都市の研究所に出向しての任務は、環境に優しいエネルギー源の探索、触媒の開発のチームに所属しての反応シミュレーションでした。聞いただけでもワクワクしそうなテーマですが、出向元の先輩の前任者を引き継いで二年経過してアカデミックにはそこそこ面白そうなデータを得たつもりであっても、実用には程遠くテーマは終息に近づきつつありました。研究のブレイクスルーの見込みも薄い中、気晴らしにインターネットのクラシック音楽の掲示板に参加したのが運の尽きで、職場のパソコンの個人的な利用への制限が緩かったのを良いことに、バーチャルなコミュニケーションに現を抜かす日々が始まりました。二年の任期の出向はプロジェクトの清算が近いこともあり一年の延長が決まり、かつて密かに憧れた関西生活がそのままに気ままな日々が続くこととなりました。

仕事はおろかプライベートでもあまり進展がないままでした。懸念されたコンピュータの2000年問題も、ワークステーションで大規模な分子シミュレーションに挑む私の業務に一切混乱をもたらさずに新年を迎えました。新年早々インフルエンザと見られる高熱で寝込みましたが、千葉県柏市の実家に帰省している間だったのが幸いでした。1月下旬には左耳の突発性難聴で奈良の大きな病院に一週間入院、看護婦さんの関西弁を四六時中耳にするのも結構心地よく、それなりのトラブルも関西生活の楽しみを損なうものではありませんでした。

1998年のGWの九州、11月下旬の北陸、1999年のGWの九州、9月下旬の四国に続く車での旅は、左耳の聴力も大方回復した2000年3月の春分の日の連休に山陰を廻る旅でした。8年前に宿泊した兵庫県の浜坂のユースホステルを連休初日に予約。宿泊料込み8000円でカニ尽くしです。その翌日に昭和63年の春にYHに入会した松江YHに宿泊しようと電話したら満室、団体が入ったようです。出雲大社前のゑびす屋YHも満室だそうなので一泊のみの山陰旅行となりそうでした。出発の三日前、ゑびす屋YHに電話し直したら一人なら泊まれるとの返答、18時までに到着するならお食事も「お作り」しますとのこと。電話に出たオバサンが不愛想でなんとなく感じが悪いのです。「相部屋ですけど」とYHなら当然のことを言う。電話番号を聞かれて一瞬詰まると、詰問するように繰り返してきました。嫌な予感は後に当たりました。

旅の前日3月17日(金)は直属の上司、同じチームのメンバー、共同研究者の人、出向元に帰った元メンバーで新大宮(西大寺と奈良の間)の居酒屋で飲みました。私の住まいの近くだったので助かりました。元同僚の大学の指導教官にボロクソに言われた話、京大の大学院に進学した元メンバーが学生結婚した話などを肴に生ビールを3〜4杯お代わりして10時半にお開き。毎週見ていたドラマ「金曜日の恋人たちへ」(藤原紀香、高橋克典、水野真紀)の最終回を見届けるのに間に合いました。

3月18日(土)の出発は7:50でした。半年前に大阪府に入ったところで取り締まりに引っかかり41km/hオーバーで捕まり8万円の罰金となったので、阪奈道路を慎重に走行しましたが、今回は取り締まりを実施していませんでした。中国自動車道が渋滞して西宮名塩SAに着いたのは10時になっていました。広島風お好み焼きを朝食としたら、結構美味しく広島の味を思い出しました。朝食を摂ったので耳鼻科から貰った薬4種を飲むことができました。舞鶴道は空いていました。動物注意の標識に描かれた動物は、イノシシ、シカ、タヌキ、ウサギと変わり、ローテーションが2〜3巡しました。天橋立方面の道も整備されていましたが、道の外に雪が残っていました。

天橋立に到着したのは12時近くでした。松並木を半分くらい歩き、時折砂浜へ降りて行ったりもして引き返しました。それほど凄い景色ではないけれど散策する気分は良く、老夫婦やカップルも歩いていて、おそらく向こう側まで行って戻ってきた人ともすれ違いました。日本海の幸が自慢の店が並んでいるので13時頃、良さげな店を選んで入りました。脂のたっぷり乗ったブリと煮物を美味しく頂きました。天橋立は上から見下ろすため、往復850円のリフトに乗りました。どこで監視しているのか、時折スピーカーから「**番のお客さん、リフトを揺らさないで静かにご乗車ください!」とアナウンスが入ります。頂上から見下ろす天橋立の景色は格別でいくら眺め続けても見飽きません。手前の低い瓦屋根の家々の並びも良い景色で、きれいな写真が撮れました。「股のぞき台」というコンクリートの台が三基も並んでいました。「股のぞき鏡」という名称はある診療科を連想させて語感がよろしくないようです。天橋立では2時間を過ごしてしまいました。

丹後半島を一周して浜坂に向かいました。狭い道路もあって予想以上に時間を費やしました。山道を走っているといきなり大きな毛並みの良い日本猿が姿を現しました。車を見てすぐに道路脇の林の中へ逃げ込んだので写真を撮ることは出来ませんでした。伊根の舟屋を見学したいと思っていましたが、海から眺める漁村の風景を鑑賞しに行く時間的な余裕はありません。岬の存在を感じ取ることもなく半島を通り抜けてしまいました。余部鉄橋に到着したのは17時30分で、奈良の自宅からの走行距離はちょうど350kmでした。8年ぶりの見学です。まだ十分に明るくて、ちょうど普通列車が橋をゆっくり渡るところをカメラに収めることに成功しました。8年の間に一度塗り替えて赤い色が少し鮮やかでした。前回は雪の中の鉄橋を眺めたのですが、今回は春を待つ田舎の風景で雰囲気もかなり違います。駅周辺の風景にはそれほど変化は無くて、若者のグループや中年の夫婦が小さな駐車場に車を停めて撮影に立ち寄る他は、人の姿をほとんど見かけません。

浜坂ユースホステルの宿泊は8年ぶり二度目ですが、雪の中を歩いて向かった道を忘れていたので20分くらい浜坂駅周辺を無駄に走りました。トンネルを越えて先へ進んだら分かりやすい案内板があったので18時20分にたどり着きました。YHの宿泊者は家族連れ、女性5人組、三十代男の一人旅などで賑わい、ペアレントさんの他、男性のヘルパー、大柄な若い女性のヘルパーなどスタッフも親切でした。

早速の夕食は、この季節の名物のカニ尽くし、8年前はホステラー同士数人でカニ鍋を囲んだのですが、今回はいきなり一人一杯、大きなカニが皿に乗って供されました。テーブルに着くのも互い違いに座らないと、食材を載せ切れないのです。まずカニの胴体を力づくで割って味噌を食べました。カニの足にも厚い身がギッシリ詰まっていました。これだけでも満足な所に、しばらくするとカニの足を焼いたものが出てきて胴体も付いていました。その後に鍋が付いてカニを半杯くらいさらに食べることになりました。鍋には白菜も入れましたが、御飯を食べる余裕はありません。その代わりに缶ビール一本の後、地酒を頼み、お代わりもしました。食事が二時間も続いたのはYH宿泊で初めての経験でした。ヘルパーの女の子によると、カニ尽くしを二日間食べたら、もうカニは見たくもなくなるそうです。

この日の夜はカニ尽くしの食事だけで終わったようなものでした。同じテーブルの一人旅の男三人で色々な話題で盛りあがりました。カニを食べるのに夢中になると会話が弾まないとよく言われますが、ここまで豪快なカニ尽くしは盛り上がりに貢献したようです。一人は1965年生まれの既婚で広島から青春18きっぷの旅、奥さんは旅関連の人ではないけれど、互いに一人旅をするのを認め合っているそうです。もう一人は奈良に住んでいたこともある人で埼玉から「ムーンライトながら」でやってきたそうです。三十代の男三人で広島のお好み焼きの話、一人旅の楽しみの話、またヨーロッパやアジアなど海外旅行の話にも熱中しました。私は半年前に学会発表&聴講のためイギリス湖水地方とローマへの海外出張に行かせてもらったのが唯一の海外体験でしたが、次の海外旅行への意欲を掻き立てられてGWにパリへ一人旅に発つこととなります。広島の人はYH会員の更新手続きは宮島口YHで行い、その度にペアレントのオジサンの雑談に付き合わされるそうです。

翌3月19日(日)はYHのマイクロバスで9時から始まる漁港の市を見物しに出かけました。カニの他、ゴワゴワした体で真っ赤で怖い顔をした小さな魚が一杯、またブリも大量に並び、その他、数kgありそうな大きな魚もイケスの中で泳いでいました。60〜70代と見られるオジサン・オバサンの姿も多く、盛んに指を出して競り落としています。競り落とされた瞬間に売り手のオジサンが肩を怒らせながら「アウッ!!」と甲高い声を上げるのも印象的でした。

雨が降り出した中、10時前にユースを出発。同室で二段ベッドの上の段に寝ていた連泊予定の若い男(前日は素泊まり、カニはこの日の夜に食べるのが楽しみ)を同乗させて鳥取砂丘に向かいました。国道178号はカーブの連続で走りがいがありました。同乗の若者は埼玉から青春18きっぷの旅だそうです。舟屋の面白さについて話を聞かせてもらいました。砂丘に着いたのは11時頃、YHからの走行距離約30km、12年ぶりの再訪です。悪天にも関わらず同乗者は砂丘を見るなり「わあ!」と感嘆の声を上げました。靴を黄色い砂まみれにしながら、砂丘の一番高いところまで登りました。馬に曳かせた箱で観光客を案内している業者もいます。とても車では乗り入れられる場所ではありません。雨の上、風も強くて傘を差すのも大変で、なるほどこの風が大量の砂を運んできたのだと納得します。日本海を眺めた後、しばらく砂丘の成り立ちなどを説明する資料館を見学し、鳥取駅まで同乗者を送ったのは11時半ころでした。

鳥取から松江に向かう道は長く退屈でした。砂丘の手前の山道と違って平坦な田舎道が続くのですが渋滞区間もありました。前日のカニ尽くしで話に熱中して遅くなり入浴しなかったので温泉に寄りたいと思いました。浜村温泉は駅前に小さなホテルが数軒あったけれどなんとなく入りづらい雰囲気でした。羽合温泉に向かい、広い公共施設という印象の「ゆーハイム」という所に入場しました。十分に温まりましたが、風情のある場所ではありません。昼食は「道の駅大栄」で13時20分、日本の道の駅第1号だそうです。1000円のバイキングで焼きそば、エビチリ、山菜で腹を満たしました。この先も畑と防砂林ばかりの退屈な風景で、雨が降っているので大山の姿も全く見えません。山陰に高速道路が伸展しつつあり、松江が近くなったのは幸いでした。松江市内も混雑、松江温泉もホテル宿泊者以外入れてくれなさそうな雰囲気なので通り過ぎました。出雲大社までの道路もあまり面白味がなく、雨では宍道湖の夕日も望むべくもありません。雨も一時強くなりました。1988年3月、1990年8月に続く三度目の山陰の旅は、車で来たのが不正解だったとさえ思いました。宍道湖に沿って走る一畑電鉄にも乗ってみたかったのです。

出雲大社に近いゑびす屋ユースホステルに、まだ明るい17時前に到着しました(奈良からの走行距離約600km)。庭ではペアレントのオバサンが庭の掃き掃除に打ち込んでいました。ユースには駐車場がありませんが、300mくらい離れた道の駅の駐車場に無料で停められました。YHハンドブックには‘92年改装とありましたが、「改築」ではなかったわけで、1989年8月に宿泊した時の暗い印象は変わっていません。その時は陰気な雰囲気にもうYHは卒業しようかとまで悲観したのですが、後からバイクの美人(当時24歳、博多から)がやって来たし、ミーティングではヘルパーさんが出雲大社の正しい参拝法や日御碕灯台についての話で爆笑の連続だったのですが、今回は明るい要素が見当たりません。昭和時代から貼ってあるような張り紙がすっかり黄ばんでいます。風呂にジェットが付いているのが「改装」の中身だったのでしょうか?居室の絨毯には足の臭いが染み付いているようです。トイレには石鹸がなかったので、近所のスーパーへ買いに行ったら、うっかり薬用の400円の高級品を購入してしまいました。

食事はうす暗い食堂でたった一人、電話予約で「18時までに到着するならお作りしておきます」と言われた食事は、一週間前に「お作り」したものをレンジでチンしたものとしか考えられません。スーパーで買ってきたようなハンバーグ、表面がブツブツしていてきれいではない茶碗蒸し、コンニャクと挽き肉を和えた煮物は特に変な臭いがして吐きそうになりました。茶碗蒸しも煮物も半分も食べずに残してしまいました。ペアレントのオバサンと長男一家が炊事場の隣の部屋で食事中でしたが、ホステラーの夕食とは別メニューのようです。家族の夕食の余り物を頂いた方が余程良かったのにと思います。

素泊まりの同室のホステラーは、茶髪のチャリダー(自転車旅行)と青春18きっぷでの卒業旅行の男、大学生は隠岐に二日間行っていたそうです。この二人はテントを持参、屋根のあるところに宿泊できただけ今夜は恵まれているそうで、野宿を重ねてきたようです。YHの飯の不味さを報告すると、「モモメシ」(8時間コースと歌って踊るミーティングで人気の礼文島の桃岩荘YHの質素な食事)の方がマシでしたか?と聞かれました。三人でビールを買いに出て戻ってきたら、メンバーが一人増えました。私が4、5年前住んでいた横浜市青葉区の社員寮のすぐ近く(千草台)に住んでいたそうです。

大学生の携帯電話が鳴り、20分くらい同室のメンバーは会話から置いてきぼりです。相手は北海道の旅で出会った女性で現在新潟を旅行中、道の駅で一夜を明かすことにしたそうで、いろいろアドバイスをして気を使っていました。食堂に一人旅の女の子がいるから突撃することにしました。9時頃に恐る恐る行って話しかけたのは小柄で割と可愛らしい女性で、東京都清瀬市から来た人、仕事をいったん辞めて療養士の学校へ通っているそうです。この後は屋久島へ向かうそうです。横浜でご近所だった男と三人で四国の旅のお勧めなど話しました。のっそりと加わってきた男に見覚えがありました。1995年GWに男鹿のYHで会った愛知県のYH宿泊歴400泊の男でした。頬の傷跡に見覚えがあり、5年間に少し太ったようです。なまはげが乱入するアトラクションがあったことなど覚えていました。

せっかく可愛らしい女の子との会話も弾みかけたのに、10時にペアレントのオバサンが消灯を迫りにきました。仕方なく暖房のない寝室に戻って、男子だけで会話を続けていると、オバサンが、また見回りにやってきて再度消灯を迫るのです。最近の大概のYHでは消灯時刻が迫っても、「火の元をよろしく!ごゆっくり!おやすみなさい!」と頼んで自由に任せるか、24時間開放の談話室へ案内するかで、ましてや居室では同室者が許せば消灯のタイミングなどうるさく言わないものです。この日は早寝する必要のあるホステラーなどいません。事務的に過ぎる対応というか、ほとんど宿泊者を家畜同様に扱う態度には嫌気がさします。

翌3月20日(月)はまだ暗い内に起きてトイレへ入りました。前日の浜坂YHのトイレの個室も和式から改造した洋式トイレで狭くて足がつかえましたが、ここのYHはさらに酷くて腰かけるとドアが閉められませんでした。にわか洋式を使用するのは断念して、和式に移動せざるを得ませんでした。持病の具合が悪化して、寒い部屋に戻ってしばらく横になっても好転しません。休んでいる間に同室の三人は出発してしまいました。朝食を摂りに食堂へ行くと昨日ここで会話したメンバーが数人席に着いていました。朝食もやはり美味しくなく変な臭いのする肉団子他を残してしまいました。居室に戻って、持参の薬を処方して体調の回復を待って横になっていると、ペアレントのオバサンが見回りに来て「二度寝したら嫌だよ!」と急き立てるので、8時前にYHを後にしました。

しばらく車の中で休んだ後、出雲大社を参拝。YHでの時間は快適ではなかったけれど、この日は天気が回復して快い一日になる予感がしました。境内を一周歩きながら、10年半前の宿泊の時にバイクの人4人(博多の美女1名)と一緒に散策したことなども懐かしく思い出しました。本殿の1トンの大注連縄と拝殿のそれを上回る6トンの注連縄の写真を撮りました。早朝の境内で神官が神殿や庭の掃き掃除に勤めていました。賽銭の持ち合わせがなかったのが不覚でした。

日御碕まで向かいました。途中に工事で一方通行になった箇所もありましたが、道は空いていて曲がりくねった山道を飛ばすのも快感でした。出雲大社から岬まで10km足らず。10年半前はバスに乗り前夜のYHのミーティングでのヘルパーさんのご指南に従って左の窓側の席に座って日本海を眺めたこと、同宿のライダーさん4人が後から灯台まで走ってきたことなど思い出しました。日御碕灯台には螺旋階段を目が回りそうなくらいクルクルと登っていきました。真っ青な日本海を見下ろす気分は最高です。岩場に打ち寄せる波が砕け散る様子はいくら眺めても飽きません。岩場で釣りや散策をする人の姿も小さく見えます。灯台から降りた後、岩場をしばらく散策。東尋坊と同じ柱状節理は日本海側の共通の地質形成に由来するのかと興味を持ちました。

松江までの50kmの道の走破に1時間以上掛かりました。過去に二度歩いた武家屋敷街の通りに自分の車で乗りいれることなど以前は夢にも思っていませんでした。塩見縄手を500mほど西へ行ったところの駐車場に車を停めました。武家屋敷と松江城その他がセットになって入場券も発売されていましたが、混みあっている八雲記念館は割愛したかったので別々にしました。武家屋敷の庭の梅の枝ぶりが良く丸みを帯びた形に広がって香っていました。一人旅の女性やカップルが梅の写真を撮っています。今年になって梅の花を愛でる機会がまだなかったので松江の街に来て梅の花を鑑賞できたのは収穫でした。松江城の天守閣に登城するのは二度目ですが、てっぺんからの宍道湖や城を取り囲む山々の景色、城下町の佇まいと見所が多く、松江に来てよかったと満足感に浸りました。

松江を出発したのは12時半でした。島根県立美術館でヨーロッパの絵画展を開催しているのが気になりましたが、駐車場が少し離れているし、土産物屋を探す方を優先したのを後で後悔しました。地方都市の立派な美術館は倉敷の大原美術館や久留米の石橋美術館のように空いているので、絵画の世界にどっぷりと浸かって日常を忘れるひと時が過ごせたに違いありません。関西学研都市の職場への土産には、松江の名産の「柚餅子」を買うことを出発前から決めていました。お城の近くの観光物産館の駐車場に辛うじて停められたので、15個入りの箱を3箱買いました。

帰路はそれほど混まずに米子自動車道に入れました。天気が回復して真っ白な頂上を見せた大山の姿が見事でしたが、大山SAでは山がかなり小さくなってしまったのが残念です。代わりに蒜山高原SAから見渡す中国山地(蒜山三座)が雪を被った姿をカメラに収めました。

中国・四国道路地図を眺めて気になった湯郷温泉へ向かうため美作ICで降りました。インターから10分程、立派な施設で駐車場も係員がしっかり管理していて、車が次々に入ってきて賑わいを見せています。新しくきれいな温泉でサウナとジェットバス付きです。弱アルカリ性の泉質、露天風呂は岩風呂風で三段くらい高くなった所に浴槽があったり、噴水のある浴槽があったりと凝った造りです。湯は微かな潮の香りがしました。ラジウムを含む温泉と説明されていましたが、ラジウムが放射性壊変を起こす際にオゾンを発生させているのではないかと考えました。

その先の道は兵庫県内までは順調。夕食は加西SAにてトンカツ、宝塚まで20km渋滞という電光掲示板の情報を見て、吉川ICで降りて神戸へ抜けることにしました。真っ暗な山道を走行、凍結注意の表示がありましたが、特に危険な箇所はありません。今回の旅行の仕上げに神戸の夜景を眺めたいと思ったのですが、新神戸トンネル(7km!)に入ってしまいあっという間に三宮に至ってしまいました。阪神道路の数kmの渋滞区間を抜け、阪奈道路からの大阪の夜景を楽しみながら(カーブが続くので一瞬も気が抜けない)帰るつもりが、東大阪の狭い道で迷走したりして、奈良の自宅に帰り着いたのは21時40分、出雲大社からの走行距離は約450kmでした。

関西生活はこの後一年間、出向元の横浜の研究所に出戻るまで続き、5ヶ月後には四国へのドライブ旅行もありました。山陰の旅に本格的に親しんだのは、本州一周となった歩きつなぎの旅路も終盤に近づいた2014年の秋から2015年の秋までの一年間でした。

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