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2019年03月28日16:49

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【1991年3月】摩周湖、網走、旭川、小樽の旅

北海道に初めて行ったのは1989年9月の下旬、初めての泊りがけの出張で北海道大学にて開催された分子構造総合討論会の聴講でした。量子化学を専攻していた学生時代に参加していたメインの学会に、会社での農薬探索の仕事とは関連が薄かったのに新入社員の私が出席できたのもバブルのおかげ、出張旅費の消化のための学会聴講を命じられたようです。札幌のみの宿泊、出張、観光でしたが、サッポロビール園での懇親会もあり、学会を抜け出して藻岩山からの市内展望を楽しんだ時間もありました。人生初の飛行機搭乗でもありました。

二回目の北海道行きは翌1990年の3月上旬、社内のアウトドアサークルのスキーツアー、札幌国際スキー場とテイネハイランドスキー場での本来の目的以外に、札幌の夜の街めぐりを目当てに参加したメンバーもいたようです。三度目の北海道が1991年の1月下旬、アウトドアサークルのニセコへのスキーツアーで、今度はアフタースキーもナイターゲレンデというスキー三昧でした。ツアーの一週間前にスキー用具とスキーバッグを買い揃えたばかりの私は、まだ初心者に近くて上手く滑れずにみじめな思いも経験しましたが、金を掛けてしまったら退路を断ったのも同然、気を取り直して、翌週は健康保険組合主催のスキーツアーで尾瀬岩鞍へ、更に三週間後は独身寮の有志と環境分析センターの女子社員という組み合わせのスキーツアーで石打丸山へと出かけて、すっかり体育会系社員の仲間入りをして、スポーツマンの顔も板につきました。

私の父が網走に開校した東京農業大学のオホーツクキャンパスの教授に単身赴任したのは二年前でした。郊外の交通が不便な土地なので、63歳にして網走市長の応援の下で運転免許を取得、雪国仕様のスタッドレスタイヤを履いた車を購入して通勤に、また北海道観光でも走らせているとのこと。1991年の3月上旬に有給休暇を取得して北海道旅行へ発ったのには、父が安全運転をしているかどうかを確かめに行くという名目も立ちました。またシーズン4度目のスキーを組み込んで、自分なりにスキーの腕の仕上げをしたいという思いもありました。三泊四日の旅行の初日は父のアパートに宿泊、あとの二泊は旭川のユースホステルを予約しました。

出張でもツアーでもない本格的な北海道旅行は初めてです。航空券は出発の11日前に筑波学園都市の西武百貨店の旅行会社にて購入。行きの羽田から女満別までの便は38000円でしたが、帰りの千歳から羽田までの便とで往復扱いにしてもらい割引が効いて47000円で済みました。

会社生活は2年目の終わりに差し掛かっていました。新規農薬探索の合成のラボに属し、化学構造式と生理活性との関係式を見つける定量的構造活性相関解析法のデータベース作成と解析システムの整備が私に託されたテーマでした。パソコンの前で一連の解析作業を進められるシステムが完成したので、合成の研究員対象のデモンストレーションを行ったのですが評価は散々。評価した化合物の番号と活性値と構造情報を入力した後は、何も考えなくてもボタン一つでバカチョンに答えが出ることを期待されていたので、パラメータの意味をきちんと理解してデータの不備も考慮しながら入力ファイルを編集するというコンピュータ担当者なら当たり前の作業を要求したことに不興を買いました。実用とはほど遠い量子化学の研究に学生時代を費やし、学位を取った後に実学の世界に飛び込んだ研究員の当たり前の試練にさらされている最中の旅行でした。

出発の前日の3月7日(木)は一旦千葉県沼南町(現在は柏市の南端)の実家に戻りました。ここ数日の会社の仕事への職場での評価の低さを愚痴るような日記を夜12時半頃にしたためていました。あまりよく眠れず、眠った後は11時まで寝過ごしてしまう夢まで見ましたが、無事に東武野田線の最寄りの駅からの6時10分の電車に間に合いました。女満別行きの日本エアシステム機は小さくて左右二列ずつの座席しかなく、搭乗は尾翼の方からでした。遠くから見ると鉛筆みたいで、近づくとサンダーバード3号を連想しました。子どもの頃、持っていたサンダーバード3号のプラモデルが鉛筆立てとして使えたことも思い出しました。離陸前の緊急時の対応のアナウンスは、テレビモニターがないのでスチュワーデスさんが通路に立って実際に用具を手に持って実演し、スピーカーから音声だけ流れています。

窓際の席を取れましたが、本州はずっと曇りで下界の景色は見えず、青い海に浮かぶ白い島々を眺めているような景色が続きました。仙台の街並みとリアス式海岸は少し覗いていたかも知れません。景色がよく見えないので本を読んで過ごしました。朝食にハムと野菜を挟んだクロワッサン一個と紅茶くらいの濃さのスープが提供されました。北海道に到達してから窓外の景色も良くなり、襟裳岬が見渡せて、はるか下に1mmくらいの大きさに船の姿を認めました。やがて北の大地の山々が次々と姿を現し、雪を被った山頂の景観は圧巻でした。特に富士山のように孤立して聳え立った雌阿寒岳は見事です。飛行機が徐々に高度を下げて畑に積もる雪の深さが感じられるようになり森林が見渡せるようになって間もなく着陸しました。

女満別空港に到着したら父はすでに迎えに来ていました。初めて体験する父の運転は慎重で安全でしたが、空港を出るところで右折の際、左から来る車とぶつかりそうになり向こうが停止したおかげで事なきを得ました。その後は安心して同乗していられました。坂道ではエンジンブレーキが効くようにシフトレバーの下部のボタンを押し、ブレーキはできるだけ踏まないように心がけているそうです。前日には霧で曇り凍結した道路での三重衝突事故があり複数の死亡者が生じたそうで、事故の話にもいろいろ耳を傾けているとのことでした。

国道243号を一路屈斜路湖方面へ向かい、美幌峠から湖を眺めました。中島の周囲は四分の三くらい氷が張り詰めていました。土産物屋には毛皮製品が多く、キタキツネの襟巻を二万円以上の値段で売っています。美幌峠を越える道は筑波山や日光のいろは坂と比べて道幅が広くて勾配もきつくなく、雪による凍結はありますがスタッドレスタイヤと4WDのおかげで一度もスリップを経験せずに済みました。

弟子屈欧羅巴民芸館で昼食。有名な建築家がデザインしたという木造建築で、室内には色々なパーカッションも付いた自動ピアノや古い蓄音器が展示され、アンティークな椅子が多数あっていくつかは腰かけてみても良く、レストランで備えた椅子もヨーロッパから取り寄せたものだそうです。ラベンダーのような爽やかな色のワンピースから健康的な脚を見せたウェイトレスが給仕しています。1700円の洋定食を注文。甘みのあるパンは焼き立てで柔らかく、魚料理だけで満足した後に、ハンバーグの肉料理がやってきて二人前食べた気分でした。高級感のある料理ではないけれど腹一杯で満足して店を出ました。

摩周湖へ行く道は白樺の林が美しく、途中にある摩周湖ユースホステルはきれいで明るく居心地が良さそうでした。天気に恵まれました。透明度が極めて高くて真っ青な摩周湖の湖面が良く見えました。カムイヌプリとカムイ島も一緒に写真を撮り、カメラを水平にずらしながらシャッターを押す手動のパノラマ撮影を行ったのもこの時が初めてです。父も摩周湖の完全な姿を見たのは初めてで運が良かったと繰り返しました。(後にユースホステルで会った人が言うには、初めて摩周湖を見た時に霧がかかっていなかったら婚期が遅れるのだそうです。男性の場合も当てはまるのかどうかは知りません。)湖の周囲には湖面まで降りる道はなく、湖水の美しさは完全に保たれています。雪を被った白樺の林も美しく、人が全く足を踏み入れられないだけでなく川の流れからも隔絶された湖の水面に微かなさざ波が立つだけで静寂に包まれています。

摩周湖の駐車場から運転を代わりました。(私にとって最初で最後の北海道のドライブでした。)エンジンブレーキの利きが弱いオートマ車での坂道の下降はスピードオーバーしがちで、どうしてもブレーキを踏み過ぎる傾向になりました。交差点での信号停止では、普段の習慣でシフトレバーに手が行ってしまいます。北国ではハンドブレーキは凍り付くので使用はご法度でオートマ車ならパーキングにしてからエンジンを止めるそうです。

川湯温泉へ寄って「川湯プリンスホテル」の向かい側のホテルの大浴場に入りました。硫黄臭いだけでなく湯をなめると酸っぱく金物臭い味がしました。直線道路を硫黄山に向かって煙を間近で眺めました。那須岳と同様に湯気の噴出口のところに黄色い硫黄の結晶が析出しています。近づきすぎると硫化水素にやられて危険な場所に違いありません。屈斜路湖の砂湯付近には白鳥が多数やってきていて凍り付いた水面のまわりで盛んに餌をねだっています。灰を被ったようなくすんだ色をしているのは「みにくいアヒルの子」のようです。

網走市郊外の父の宿舎へそのままハンドルを握り続けました。北海道の道路は広く、左右の白樺やダケカンバやエゾマツの林の景色も良くて気分が良いのですが、単調さのあまり気分が緩む人が多そうでそれが事故につながっているのかもしれません。日が暮れてライトをつけると北海道特有の軽い雪が路面で舞い上がる様子が明かりの中に浮かび上がりました。父の宿舎の周りには雪が深く積もってオートマでない車やタイヤのしっかりしていない車は出車に苦労しそうです。朝はまず雪を払いのけるところから始めないといけないそうです。タクシーを呼んで市内へ行き、父の行きつけの「谷やん」という居酒屋へ入り二時間ほど飲みました。メンメという赤くて大きいタイの一種で脂のたっぷり乗った魚を食べました。タコの刺身は柔らかいけれど弾力があり噛み切るのに苦労しました。

父の宿舎は二部屋。折角いいスピーカーを買ったけれど、千葉の留守宅のもの(三重県津市に単身赴任中に購入)よりいい音を出してくれないそうです。海賊盤の一枚900円くらいの安い輸入CDを7〜8枚購入し、ベーム指揮の「フィガロの結婚」抜粋版など音は悪くはないけれどドイッチェグラモフォン特有の奥行きのある音には欠けていたかもしれません。名も知らないチェコのピアニストによる名曲集は録音が悪いのかピアノのせいか多少安っぽい音でした。

翌3月9日(土)は、まず東京農大キャンパスへ向かいました。途中の道は両側の松林がきれいだけれど、長い坂道が続いてエンジンブレーキを効かせないと危険でした。自動車教習所はその途中にあり、大変練習になったとのこと。学生の事故が多いそうです。研究棟は中央のスペースが吹き抜けになり、学生食堂にも余裕がありました。研究室を見学させてもらい、実験台のケースの中には瓶の中にまるで瓶詰みたいにブタの胎児が数十体も浸かっていました。

オホーツク海の流氷がいったん海の向こうへ流れたのが、また風で戻って来たところを見渡すことができました。北浜駅から海岸へ降りていき、海に敷き詰められて平原のようになった氷の中へ足を踏み入れました。(これは危険で禁止行為に当たりますので、事実を記すに留めて氷の上での記念写真は公開しません。)海岸を埋め尽くす氷の塊の中にはオホーツク海の透明な青緑色をそのまま中に封じ込めた美しいものもあります。海を一面に覆った氷もよく見ると微妙な「波」があってゆっくりと盛り上がりながら岸に近づいています。足を踏み入れると時折ズブリと足を取られて沈み込む箇所もあって危険でした。北浜駅は喫茶店を兼業している無人駅で、駅舎内には訪れた旅人が名刺や使用済みの定期券などを壁に貼っていましたので、私も自分の名刺を一枚絆創膏で貼って記念に残しました。

網走刑務所の門の前へ行って記念写真を撮りました。受刑者の姿は見えません。隣接した建物には懲役囚による作品が多数販売されています。タンスには渋くてセンス良さそうなものもあり、高級感はないけれどいい感じの製品が結構あるようです。中には少しいびつな製品も混じっています。網走の監獄博物館は坂を登って行った上にあり、現役の刑務所と同様の門がありました。昔の刑務所の放射状に延びた獄舎をそのまま移築したものだそうです。暖房が効かず寒々としていました。脱走しようとしている囚人の人形が天井に登っていました。汚れて貧相な顔のリアルな囚人の人形により、過酷な道路開拓作業に従事する様子が描かれています。

網走を出発したのは13時55分でした。昼食は駅の近くのホテルの食堂にて天ぷら定食、車海老が5匹もついていて食べ甲斐がありました。特急「オホーツク6号」は暖房が効いて最初は快適でしたが、旭川まで4時間も乗車するには暖房がきつく感じられ、車内の空気も淀んで、息苦しくもなってきました。外の景色も窓ガラスが曇ってよく見えません。雪が降りだして吹雪になっていった模様です。

旭川に到着した時は日も暮れてイルミネーションがきれいでアスファルトに厚く積もった雪の上に映えています。地面の雪は踏み固められたまま凍結して、気を付けないと滑って転倒しそうになり危険でした。旭川ユースホステル方面へのバスは1時間に1本しかないのに「オホーツク6号」との接続が悪くて、ちょうど出発してしまったところだったので仕方なくタクシーを利用しました(980円)。

旭川YHはユースとしては、ぼろい方かもしれません。受付付近は寒くて暗いのですが、居室に行くまでに厚い扉が二つあって、扉の向こうは暖かく、北海道の建物らしく防寒が整い窓も二重のガラス窓でした。大きなホールにはアップライトピアノもありました。トイレが和式の上、水洗でないのはユースでは初めてでした。夕食はバイキング方式とガイドブックにありましたが、セルフサービスだというだけで、量はたっぷりあるけれど質があまり良くなくて、食べ放題のキャベツが古くてちょっと味が変質していました。

スキーの練習を目的にYHに宿泊したのですが、目の前の「伊の沢スキー場」はリフトが一本あるだけの小規模のスキー場で、5分くらいで頂上に登ってしまいました。さほど高くない山ですが、旭川市の夜景も十分に堪能しました。滑っているのは地元の子どもが大半でリフト待ち時間もなく、ナイター券900円の元を取るのもあっという間です。頂上から下まで転ばずに滑走するのも困難ではありません。今シーズンのスキーは、ニセコ、尾瀬岩鞍、石打丸山と段々易しいコースになっていると思いましたが、自分のスキーの上達度も捨てたものではないと自負してもよさそうです。土曜の晩に一緒に滑ったホステラーは4〜5人。一人だけパラレルが少しできるレベルで、後のメンバーは北海道旅行のついでに滑りに来たという感じ。関学のラグビー部の男は初心者でした。

居室に帰ったら同室の卒業旅行組、三名が業界の裏話に熱中していました。ラグビー部の男は全日空で、これから仙台に行くのですが新幹線では旅費が出ないので札幌まで行ってから仙台へ飛ぶというルートを採るそうです。他の一人はNTT、もう一人は中部電力で業界の事情をよく勉強していて、通信の現状や未来について夜中の1時まで議論を続けていました。化学会社の研究員として二年を過ごした私は政治経済がさっぱり分からないこともあり、文系の真面目な学生らしい二人の議論について行けず、求められたサイン帳には「研究ばっかりやっているとバカになります」と書くのが精一杯でした。

翌3月10日(日)は今回初めての晴天でした。午前中一杯滑ることにしました。大阪からの女の子(1969年生まれ)が一人旅で来て練習していましたが、スキーの経験は浅くボーゲンでゆっくりゆっくり降りてくるレベル。清水市出身の色の黒い男に教わって、昼頃には少しは板が平行に近くなるところまで上達した様子です。

伊の沢スキー場は易しいコースがほとんどですが、端の方にコブがいくつかあり、地元の小学生スキーヤー達はそこへ飛び込んではジャンプして見せていましたので、挑戦してみました。最初の大きなコブは三度失敗したので諦めましたが、小さい方のコブは三度目になんとかクリアしました。スキー用具一式を買い揃えて本格的にスキーに身を入れてシーズン四度目となり一応の上達を見ましたが、まだまだ欠点が直りません。腰が後ろに引けてしまう癖は清水市の男にも指摘されました。体を谷側に向けるのも、きちんと身につけなければならず、気を付けた途端に体が軽くなって自由が利くようになった気がしました、このスキー場は小さいので気を付けないと、めちゃめちゃなフォームのまま気が付くと一番下まで滑り降りて来ていたりします。

2000円の一日券は午前中だけで元が取れてしまったので、午後は旭川の街の散策で過ごしました。ガイドブックでお勧めの駅ビルの地下のラーメン屋「蜂屋」に行き、チャーシュー麺を注文。アジの丸干しの魚臭さとラードの効いたこってりした味のスープ、まるでソバのような真っ直ぐの麺が印象的でした。癖のあるスープは一口ごとに不思議な味わいが広がって、とうとう残らず飲み干してしまいました。

旭川は昼になっても気温が零下で空気が冷たい街でした。書店やレコード店は普通にあり、ちょっと歩けばスナック街でキャバレーの呼び込みのお兄さんが声を掛けてきたりしました。駅から1kmほどの常盤公園は、すっかり雪に覆われてそれなりに良さげな散策コースとなっていました。金沢で見かけたような「雪吊り」も見かけました。

YHに戻って、この日の夜は今シーズンの滑り納めとなりました。次に滑る時は、また一つ年を取っているのだと思うと辛い気持ちになります。上達が得られたシーズンではありましたが、来季への課題をいろいろ残しています。女子ホステラーが増えていました。二人組の女子がピアノで連弾、備えてあったブルグミュラーの練習曲を何度も間違えたり、つっかえたりしながら弾いています。

カップルが一組連泊、女子はヘルパーさんに小泉今日子に似ていると言われた美人でしたが、他のホステラーとも普通に会話していて二人の世界に閉じこもることはありません。夜遅くなってYH歴も長そうな男の人が到着。髪が薄いので四十代に見えましたが、1960年1月生まれでした。怪我かなにかで右手の親指以外を失っていますが、バイクで旅をしているそうで、翌日は初めてのスキーに挑戦するそうです。私のYH会員証を見せたら、京都、四国、九州、北陸とスタンプが貯まっているので「全国津々浦々ですね!」と感心していました。今回の北海道旅行最後の晩は、ピアノを連弾していた女の子二人、大阪の女の子も加えた7人で「UNO」で遊んで過ごしました。

翌3月11日(月)も晴天でした。地元の子ども達が学校に行っているので、スキー場も空いて絶好のコンディションですが、すでにスキー用具一式を宅配便で送ってしまっていたので、名残惜しいけれど9時過ぎにYHを後に出発しました。まだ新しい白を基調としたウェアでゲレンデに向かう大阪の女の子から関西アクセントで見送られました。

札幌到着は12時前でした。気温は+1℃ですが、それでも−1℃の旭川よりは暖かく感じられました。ビルの陰は雪が凍結していて歩行時は転倒に対する注意が常時必要です。北大出身の先輩社員のお勧めの「爐」のスペシャルラーメンを食べに、駅前の通りを西へ向かった地下街を目指しました。(1月に会社のアウトドアサークルのスキーツアーの時は、定休日だったので代わりに「味の時計台」の巨大なチャーシューが器を覆う味噌ラーメンを食べたのでした。)ラードを強火で熱して焦がしたため 独特の黒い色でスープの表面が覆われているのですが、ツブ貝やホタテ貝が入って豪華、見かけによらないあっさりした味で、これまでに食べたラーメンの中でのベスト3に数えたいくらいでした。

小樽の街も雪が厚く積もって歩きづらく、有名な運河は水が茶色く濁ってきれいではありません。でも港から見る日本海は列車から見た海と同じく澄んだ青い水が美しく映えました。石造りの日本銀行の建物など歴史的な建造物も多い景観地区ですが、急ぎ気味の散策であまりゆっくり味わっている余裕がありません。運河沿いに東に1kmほど歩いたところの「北一硝子」の店内には赤や緑や青のガラス製品が暗めの明かりに照らされてきれいだったので写真を撮影、カップルの男が席を外したチャンスに一人になった色白の女の子が写り込みました。札幌までの列車からの銭函・朝里の青い海の風景が今回の最後の北海道旅行の写真となりました。

札幌そごうの地下で六花亭の「百歳(ももとせ)」を職場への土産に買いました。これも二ヶ月前のスキーツアーで職場の異なる先輩社員の人がそごうでしか売っていない定番として購入していたものでした。またベビーチョコレートを4箱買ったのはホワイトデーのお返し用で3箱は同じ職場、1箱はシステム室の同期の女性(21歳)のためでした。ホワイトデー用のプレゼントのコーナーにはショーツのセットまでありました。当時はセクハラという言葉はすでにあったけれど、相手が嫌がらなければ性的な言動も咎められない大らかさがありました。

千歳空港には離陸の19:40の1時間以上前に到着、待ち時間に空港内の寿司屋で夕食。カニやトロなどそれなりに北海道らしい良いネタです。バストの大きな色白の可愛い子がウェイトレスをやっていました。帰りのJAS機はジャンボジェットで赤、緑、青と色とりどりのシートが明るくて良いのですが、窓側の座席を取ったものの翼の所だったので景色は千歳と苫小牧の明かりを見たきりでした。機内の密閉された空間は気圧が下がるためか耳がおかしくなり、着陸時に唾を飲み込んだ瞬間、耳管に急激に空気が入ってビリビリと音を立てて痛みを生じました。一旦、千葉県の実家に帰って風呂に入ったので、茨城県阿見町の独身寮に車で帰り着いた時は午前1時半になっていました。

ちょうど28年前の旅行について書き綴りながら、失ったものの多さに感慨を新たにしています。父の網走での単身赴任はその後5年続き、さらに専門学校の講師を務め、80歳で微生物に関する入門書を出版しましたが、現在は認知症で柏市の老人ホームに入所しています。100歳を過ぎても現役だった医師、93歳で亡くなるまでオーケストラを振り続けた指揮者、80代の寿司職人、80代で高峰から滑走するスキーヤーのように生涯現役を続けることは困難なことなのでしょうか?車の運転は柏の留守宅に戻ってベンツを購入したものの10年ほどで運転に見切りを付けて免許更新もやめたのは今の状態を考えると賢明すぎる選択でした。

化学会社の駆け出しの研究員だった私は、その後、農薬から高分子、触媒、医薬と異なる研究分野を渡り歩いたのですが、東日本大震災の半年後に研究生活を卒業させられて事務職となり、三年前に定年まで5年を残して会社生活にピリオドを打ちました。医療情報に関わる在宅勤務の仕事をやりながら、旅行と音楽と自然科学への関心を失わず、なんとか「生涯現役」を貫いているつもりです。車を廃車にしたのは6年前、免許を取った父の年齢より10歳若くしてペーパードライバーに戻りました。最後のスキーから12年前、最後のユースホステル宿泊から11年の月日が経過しています。北海道を最後に旅したのは2006年の夏ですが、デジカメの購入が2007年春なので北海道のデジタル写真は一枚もありません。

今回の思い出の旅の記録の後、山陰のドライブ、京都散策、九州や四国の旅、東北の景色とまだまだ語り綴ることがたくさん残っています。平成最後の日には到底間に合いませんが、過ぎ行く平成時代への挽歌を奏で続ける予定です。

旭川のラーメン店「蜂屋」はその後、大雪山登山や美瑛の探索などの旅の途中で立ち寄る定番となりました。旭川ユースホステルはペアレントが代替わりした後、改装してきれいになったものの閉館しました。ユースの目の前の「伊の沢スキー場」は、リフトを廃止して「ロープトゥ」一本だけの市民スキー場となったのは、今回の日記を綴る際の検索で初めて知ったのでした。

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