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2019年03月19日06:44

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー8

(※は本文より転載)
勢道(セド)政治が始まる

 (秀吉軍の来襲から五十年近く繰り返された戦乱(一六二十七年に後金<のちの清>の攻撃を受け、さらに一六三十六年には清軍に攻めこまれた。※)のため、朝鮮社会の発展は妨げられたが、十七世紀なかば頃から国力は次第に増進していった。その間にも旱害(かんがい)、水害、悪疫などの試練はあったが、やがて商品、貨幣経済の時代を迎えて、農民や商人の中にも財力を持つ者が現れてくる。

 一七二十五年に即位した第二十一代の王英祖(ヨンジョ)の時代は、李氏朝鮮王朝の復興期であった。文化は大きく発展し、第二十二代の王正祖(チョンジョ)の時代へと引き継がれてゆく。この二人の王は、両班(ヤンバン)支配階級の党争を押さえることに苦心した点でも共通している。李氏朝鮮王朝に於(お)いて、国王を中心とした両班官僚による中央集権制度が確立し、法典の基本である「経国大典」が完成して、国家の支配体制が整えられたのは十五世紀後半のことであった。その頃から両班階級の党派争いは繰り返されていた。

 両班とは官僚機構が文班(ムンバン)と武班(ムバン)に二分されていたことから生まれた総称で、これは高麗時代からあった。朝鮮王朝では、両班の家に生まれた者だけが高級官吏登庸(よう)試験(科挙)を受ける資格を持つ。
 正祖の時代になって両班階級の党争はようやく下火になったが、この王の死後、党争に代って勢道政治が現れる。

 勢道政治とは、権力を握った一族が国政をほしいままにする制度である。十九世紀のほぼ全期を通じて、勢道政治は国運を左右するほどの勢いであったが、やがてその焔(ほのお)が燃え尽きる寸前、いちだんと華やかな光芒(こうぼう)に包まれて王妃の座にあったのが閔妃(ミンピ)である。

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