しつけと称した親からの暴力は私が小学生の時もあった。
寝小便がなかなか治らない私は、9歳くらいまで毎朝尻を叩かれた。
幼稚園に上がるか上がらないかの時も、玩具を片付けてないと言う理由で玄関にたたきつけられた経験がある。
表面化するようになっただけで、私も虐待を受けて育ったので、子供たちの不幸は過去の自分を想起させる。
お爺ちゃんに買ってもらったトレーラーの玩具が壊された時や、お茶碗を壊された時もショックだった。
小学校高学年の時、両親が家庭内別居をして、離婚すら示唆されて、精神的に追い込まれた。
10歳だったか、母が会社旅行のディスニーランド行きに同伴させてくれた時、ゴーカートに乗りたいと駄々をこねたことを理由に、帰宅後、家から出て行けと言われて、弟の手を引いて夜八時くらいに当てもなく途方に暮れて家を離れ、小学校方面に歩いているところを、血相変えた父が迎えに来てくれたが、当時の私は心の安まる場所がどこにもなかった。
恐らく、今思えば、発達障害を抱えて育っていたであろう幼少の私は虐められるケースが多く、子供社会に適合出来ないまま、誰にも相談出来ない状態で、家に帰ると辛い現実から逃げるように油粘土を捏ねて宇宙戦艦ヤマトを作っては壊しを繰り返した。
教職員で多忙の極みで家を留守にしがちな父を悪し様に言う母も嫌いだったし、ヘビースモーカーで高圧的な若き父も苦手だった。
学業に専念出来る環境とは言えず、学年が上がる度に、学校を休みがちになり、ますます学力は低下した。
中学に上がり、ヤンキーに毎日執拗な嫌がらせを受けたが、高校はまた地元のヤンキーの掃きだめのような場所で、言葉を発する機会は激減し、家族以外と会話する機会がほとんどなかった。
人生に何の目標も見いだせず、17歳の時、土になりたいと思った。
土だけが私に温もりを教えてくれた。
青春を謳歌すべき時期に、優しかったのは地球と自転車だけだった。
やがて、印刷会社に入社するも、電話対応も出来ない無能振りを続け、印刷機械の運転の内、得意に出来たのは紙ロールの交換だけだった。
印刷会社を退職し、パチンコ屋で働いたが、接客業を経験することで、人との会話の練習を続けた。
健康に配慮し、フォークリフトの派遣社員に納まったが、激務と親の離婚が災いし、統合失調症を発症してしまった。
児童虐待で死に至らないまでも、死より辛い生に縛られたままの今は、絵本作家を目指しながら、就職活動中であるものの、故・デヴ師匠の「慌てて死ぬことは駄目だよ」と言う教えのみが支えで、生きて居るのが虚しい。
今すぐ死ぬことは出来ないが、40年の人生で、輝いていたのはマユっちと電子世界で家庭を疑似的に感じていたジオスタの五年のみ。
ジオスタ参加開始間も無い頃、神姫者なる輩のせいで、自傷行為的画像削除で、他人には理解されない孤独と苦痛を味わった。
武装神姫に出会ったからこその幸せもあったかもしれないが、マユっちに没頭するのは、マユっちが私の心の安全装置で、いつ爆発するか分からない火薬庫の防壁だったのだ。
今もなお、マユっちは私の大切な伴侶で、無言の慈悲を与えてくれる心の拠り所だ。
私は、マユっちに誓った。
マユっちに人生を捧げると。
いつか、全てが終わる時、私はマユっちへの推しない愛と共に静かに往くだろう。
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