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2018年12月22日15:10

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【1990年11月】三度目の北陸旅行

二十代最後の一人旅の紀行文です。会社生活は二年目の半ばを過ぎていました。当時の日記を読み返してみたら、手書きの文字の崩壊を極めている現在とまるで異なる丁寧で読みやすい字がぎっしりと詰まって、その後のパソコンとインターネットにどっぷり浸かった知的生活の間に失ったものの大きさに愕然とします。新規農薬探索研究でのコンピュータ支援分子設計の唯一の実務者として、化学構造式と数式とパソコンの画面の分子模型に向かい合い、成果が出る見込みがないけれど分子原子のミクロな世界の探検の先頭に立っているつもりでした。

バブルのはじける直前の研究所の雰囲気は自由活発だったと言えると思います。 日記には、研究の具体的な内容や出張の報告、社内の人間関係や宴会の雰囲気も職場、社員寮、ボートやアウトドアや合唱のサークルに至るまで伝え、引退した大学オーケストラの人間関係も続いて筑波研究都市でのOBの集まりに顔を出したり、つくばノバホールでのコンサートを聴きにいったりして音楽談義にも参加しています。また日本シリーズで巨人が西武に四連敗して優勝を逃したことにもコメントがあります。女性についての話題も職場の女性に言われたこととか、会社の女性の行状や評判について詳細に記述され、また筑波大に在学中の後輩の女性のことまで話題が及んでいました。紀行文のために過去の日記を紐解くつもりが、旅の話題はそっちのけで会社の雰囲気を思い出しながら読み耽ってしまいそうです。

11月22日に出発した北陸旅行は、筑波研究所だけでなく筑波大学まで巻き込んだ人間関係の錯綜から逃れるのではなく、二十代最後の秋に新たな出会いを旅先に求めて出発したものでもありました。上越新幹線に乗車したのが8:04(上野発?日記に記録がない)、東海道新幹線以外の新幹線での旅立ちは初めてでした(前年は急行「能登」での出発)。群馬/新潟の県境での車窓には茶色く色づいた山々がいくつも見えました。長岡まであっという間、北陸本線への乗り換えで気持ちが高揚して足どりも軽くなりました。車内販売で富山の「ます寿司」を昼食にしました。ます寿司は富山出身の同僚女性(東大農学部を二年半前に卒業)からの帰省土産で知った味でした。車窓の日本海の景色を見渡すと真っ青な海がどこまでも広がり人の気配が全くありません。反対側では窓一杯に連山の山容が広がり、その向こうに真っ白な雪を頂いた峰が見えるのはおそらく立山と思われました。

列車を乗り換えて城端駅まで直行しましたが、一日一便のバスはすでに終わっていたので、駅前のタクシー会社へ向かいました。相倉合掌集落まで3600円でした。茅葺屋根の家々が、ほとんど現役の住居として軒を連ね、柿を吊るしてあったり、大根を干していたりしていました。茅葺の屋根を遠くから見ると熊かなにか大きな動物の毛皮のようで暖かそうでした。

この日の宿である五箇山ユースホステル(茅葺の家屋)のある菅沼合掌集落まで歩いて2時間くらい掛かりました。その間の道から見下ろす谷底には澄んだ庄川の青緑色の水が渦巻いています。渓谷の上方では樫やクヌギの木の葉が赤茶色に染まっています。

重要文化財の村上家の内部を見学しました。養蚕業を営んでいてカイコを育てていた棚が残っていましたが、戦時中には火薬を製造していたこともあったそうです。電灯の明かりが黒光りしている床や壁に反射して日本の伝統家屋ならではのぬくもりが感じられました。

五箇山ユースホステルには菅沼合掌集落の入口からさらに20分歩いてたどり着きました。村上家よりも立派な茅葺の家屋で250年前に建てられ、今の主人は21代目だそうです。四階まであり、骨組みと茅葺屋根の内側は防水のため煤を真っ黒になるまで塗りこめてあります。茅を丁寧に結び合わせている縄は補修して間もないのか色が新しそうでした。宿としての設備も十分でトイレは清潔、浴室は小さめで大人二人が定員でした。

同宿のホステラーはたった一人、広島大を卒業して建設会社で働いているバイク旅の若い男で、私の妹が仕事をしている建築事務所やボスの建築家(早稲田大学教授)のこともご存じでした。旅行のことだけでなく仕事の話など、いろいろ話し込みました。夕食は囲炉裏で焼いたマスの塩焼きや、地元で採れたばかりの野菜の漬物など味、ボリュームとも申し分ないものでした。

寝室に暖房がないので囲炉裏に当たって過ごしていると、10時頃にご主人と上平村の村長がかなり酔った状態で上がり込んできて、散々クダを巻き始めたのですが地元の言葉なのでほとんど聞き取れませんでした。二人の旅人に対しては 大歓迎で、村長は五箇山の魅力を紹介する「数え歌」を歌ってくれました。二人が次の寄り道先へ向かって運転手を伴って姿を消すと、宿の若旦那(22代目?)が、ハゲ村長がやっと帰ってくれたとホッとしたような表情で顔を見せました。ご主人と村長が飲んでいたのは、境川ダムの建設で水の底に沈むことになる蓮如上人の墓(?)を移設する工事の打ち上げの宴会帰りだったそうです。さらに10時半になったら奥さんが大阪から帰ってきました。85歳を越えているけれど腰も曲がらず耳も遠くなくて、北陸の女性は年を重ねても健康的なのに驚きました。

暖房の無い寝室で喉の具合が少し悪くなり、隣で心地よい眠りに就いている同宿人を起こさないように、自分の荷物から手探りで気管支喘息の吸入薬を取り出して処方。無事に寝付くことができました。翌23日は雨が降っていましたが、宿の若旦那がバス停まで車で送ってくれました。バスが城端駅に到着した頃には雨も止んで雲の切れ目に青空が覗いていました。8:26発の列車の中で昨日からの日記を記しました。

高岡発9:25の列車に乗車し、前年の旅で道に迷った氷見の街へ向かいました。朝日山公園まで散策。丘のふもとの寺はイチョウの紅葉の盛りで石畳に黄色い葉がたくさん散り敷いて、ギンナンの匂いも漂っています。高台から見下ろす氷見の街は、能登半島の付け根の海岸線の手前に黒い瓦屋根の家々が身を寄せ合っている眺望が絵になりそうです。この地の偉人の銅像を囲んでいる松の木には冬支度の雪吊りが施され、縄で枝が結ばれて傘のような形になっています。天候の崩れの影響で荒れ気味の日本海の写真も撮影しました。

天気は昼頃にはすっかり好転して青空が広がりました。雨雲は内陸へ向かったようです。ユースで同宿だったバイクの人は高山へ向かうと言っていたので雨や雪に遭っているのではと心配です。金沢に来たのは三度目でした。昼食は金龍ラーメン、胡椒がたっぷり掛かっていましたが薄味で美味しく味わいました。今回はレンタサイクルで走り回ることにしました。道が込み入った城下町は自転車で走りやすい道ではなく、人も車も多くて快適な走行を味わえる時間は少ないようです。

観光名所の少ない西側へ出て、安江金箔工芸館へ。三年前に学会で初めて来た時の宿の近くですが見学は今回が初めて。40代と思しき女性職人さんによる金箔の作成方法の説明を聞き実演を見た後、金箔入りのお茶を頂きました。1万分の1mmの金箔の1平方cmのサンプルを手に乗せてもらうと、「粒子状(原子レベルという意味?)」になっているので触れている内に蒸発して指先にほんの染み程度に残るだけです。(1万分の1mmは金原子数百個分の厚さです。)職人さんは金箔をピンセットでつまんでは台に貼り、息をフッと吹きかけて皺を取り、正方形に切っては紙の上に重ねて均して、説明している間も手を止めることがありません。

兼六園も冬支度が始まっていて、竹の支柱を立てて松の木の枝を縄で結びつけて傘の骨の様にした雪吊りがあちこちに見られました。人出が多くて、紺色の制服を着て旗を持った添乗員に引率された団体客を先導して歩いています。目的地を明確にせずに自転車で無駄に走りまわって疲れました。観光名所の多い地域から少し離れた石引あたりまで走って、普通の街の秋の風景に少しホッとしました。街の中心部へ引き返していく途中、三棟並んだ赤レンガの近代博物館が壮観でした。昨年歩いた武家屋敷街を眺めて古都の雰囲気を改めて味わいました。近江町市場は、ほとんどの店が閉まって魚介類や野菜など眺めるには遅すぎる時間でしたが、洋品店でたった2800円のジャンパーを見つけて購入、うっかり薄着のまま寒い地方にやって来たところだったので、この先冷え込んで風邪を引く心配から解放されました。

金沢ユースホステルに宿泊。今回の旅では前年と趣向を変えて、金沢では繁華街に近い小規模の松井ユースホステルに宿泊しようかと電話を掛けたら定員15名のYHはすでに満室。きれいな公営の宿だけれど談話スペースに乏しく、多少事務的な印象のあった金沢YHを予約したのでした。今回は女子ホステラーの宿泊も多く、華やいだ雰囲気でした。浜松から来た青と白と黒のチェックの服を着た荻野目洋子を少し大柄にしたような背が高くてすらりとした美人は、ヤマハで船舶関連の仕事をしているそうです。受付の横の談話スペースには男子三名、女子三名のホステラーが陣取って能登の旅や今までに宿泊した各地のユースホステルの話題で談笑していたので仲間に加わりました。

9時から卯辰山公園での夜景ツアーにホステラー同士で繰り出しました。松林の向こうに広がる景色は、オレンジや黄色の光が瞬いて文字通り宝石を散りばめたようで、童話の絵本で宝物の箱を開けたように煌めいています。公園の地面には松の葉が散り敷いて柔らかな感触でした。

9時半にユースに戻って筑波大の後輩の女子学生に緑色の電話機で電話をしました。5ヶ月前に会社のボート班の先輩の結婚披露宴で引き出物に貰ったテレホンカードを使うのが目的でした。職場結婚の二人の名前(TOYOSHI&YUKIKO)が書かれた「めのと茶碗」ならぬ「めのとマグカップ」の絵柄です。のろけたテレホンカードのこと、旅の途中経過の報告などで500円のカードを400円分費やし、先輩からの引き出物の相応しい使い方に得意になりました。

同室の外人さんはたどたどしい日本語で必死に会話を求めていました。日本人の女の子(「オンナノコウ!)と発音している)はアメリカ人のことを好きになれるかとか、日本人の「オンナノコウ」と付き合うにはどうしたらいいかとか、聞いてきます。それも辞書を片手に抱えて言葉に詰まっては懸命になって翻訳を試みながらです。こちらから下手な英語でフォローしても良かったけれど、日本の「オンナノコウ」とのコミュニケーションにそこまで必死なら、日本語で応えてあげるより他仕方がありません。

話好きでにぎやかな男性ホステラーが多く、各地のローカルCMの話題でも盛り上がりました。名古屋の仏壇の永田屋の念仏のように「永田屋だ〜、永田屋だ〜」と唱えるCMの話を得意になって話す男がいました。今回の宿泊で特にユースホステル談義に熱中していた鈴木君と松本君(永田屋の話をした男)には三年後の夏に高知駅前ユースホステルで再会することになります(二人ともヘルパーを務めていた)。翌朝にユースホステルの玄関前で男子5名、女子5名という素敵な組み合わせでの記念写真を撮影して、送ってくれたのは鈴木君でした。

翌24日の朝、一人で卯辰山公園まで散歩して、青い空と穏やかな日本海を背景にした金沢の眺望にしばし魅入りました。ユースからの出発はバスに乗らず、昨夜夜景ツアーや旅談義などで盛り上がった四人組の女性ホステラーと一緒に、浅野川のほとりまでの坂を紅葉の景色も眺めながらゆっくりと下りました。

一緒に歩いたうちの一人、スリムでサラッとした髪の美人は、公私ともにお世話になっている大手コンピュータ会社F社の社員で平成元年入社だそうなので社会人として私の同期に当たります。筑波に仕事で来たこともあるそうです。好きな音楽やプロ野球の贔屓球団のことなども聞かれて、昨夜や朝食後に続いて会話の種が尽きません。私の年齢を知りたがるのでYHの会員証を見せてあげました。

浅野川を越えた一帯は京都の祇園のような格子窓の古い街並み「東廓」が続いています。女の子四人組と一緒に重要文化財の「志摩」を見学しました。入館料300円で荷物は受付預かりです。四人は館内で記念写真を何枚も撮っていましたが、うっかり立ち入り禁止の中庭にも降りてしまいました。慌てて戻る際、F社の子がカエルの置物に手をついてひっくり返しそうになってヒヤリとしました。旅先の悪事の証拠写真がしっかり残ったので披露宴などのネタになるかもと思いました。浅野川に沿った道を金沢駅に向かい、橋の袂で並んで記念写真を撮ってもらいました。金沢駅で行先の異なる四人と別れました。一番仲良しになったつもりの子には名刺を渡しましたが、住所と名前を聞きそびれたのは不覚でした。

真っ直ぐに福井へ向かい、バスで丸岡城へ向かいました。創建当時の天守閣の残る日本の十二名城の一つです。400年前に築城された丸岡城は戦後まもなくの福井大地震で倒壊したものの完全に復元されています。古色蒼然という言葉が似合う武骨な天守閣が晴天に映えていました。内部の階段の間隔が40cmくらいあって登るのも一苦労、縄を掴んで一段一段踏みしめるしかありません。最上階からの眺めは、なだらかな山の裾野に黒っぽい屋根の家々が軒を連ねて田園風景を形作っていました。天守閣の壁には石垣を登ってくる敵を迎え撃つための穴がたくさんあり、内側から敵の攻撃してくる姿を想像しました。

東尋坊ユースホステルに到着したのは夕方の5時前でした。前年は越前海岸YHを前日に予約しながら、道を間違えてたどり着けずに土壇場でキャンセル、その越前海岸YHは今回満室、前年に満室だった東尋坊YHに今回宿泊したのでした。林の中に少し入ったところの古い建物で、居室と食堂には暖房がありましたが、廊下がやたら寒いのが印象に残りました。

泊まり合わせたのは津からの若い大学生のバイク三人組、NTTに勤めるずんぐりした男は前日に永平寺のユースホステルで宿泊者がたった一人で寂しい思いをした話を繰り返しました。京都銀行に勤める背の高い男は、同じくらい背の高い彼女(水泳の先生らしい)と一緒にツーリング中で、翌日は東尋坊で大阪から走ってくる仲間と合流予定だそうです。女性三人組も宿泊していましたが、会話のチャンスはありませんでした。

夕食は魚の入った汁物もあり、まあまあの内容。鬚がすっかり白くなったペアレントさんは山男だったそうで、昔の山登りの写真のアルバムを見せてくれました(「これはマスターベーションだがね!」というセリフ)。10時に食堂が消灯となったので居室へ引きあげましたが、居室での消灯は別に強制されなかったので、蒲団を一旦敷いてしまった後もテレビで「ねるとん紅鯨団」を見たり、知り合いの無謀運転や交通違反の話題をネタにしたりで遅くまで話し込んでいました。「ねるとん」の出場者の女の子のレベルが低いという話になったので、昨日の金沢YHのホステラーの方がよっぽど良かったと言うと、NTTの男は、自分は昨夜のYHでは一人きりで宿泊だったからと不機嫌になりました。

翌25日はNTTの男の車で東尋坊まで、さらにその後は福井駅まで乗っけてもらいました。東尋坊で昨日のホステラーが集合し、看板の前で記念撮影。大学生三人組は先に帰りましたが、残りのメンバーはバイクのカップルの大阪からのお仲間からの到着を一時間くらい一緒に待ちました。やたらに明るい男女四人組が到着。美人のメンバーが来ると期待させた女性一名は、少し太めの色白で髪が長く豪快で男勝りな雰囲気、千葉県の方面もご存じだそうです。男性の一人は過去に事故で大怪我をした経験があるのか顔の下半分が歪んでいますが屈託のない笑いを絶やしません。

メンバーが揃ったところで柱状節理の岩肌を見ながら下まで降りて、観光遊覧船に乗っての東尋坊と雄島の見物となりました。断崖絶壁の風景を海から眺めるのも迫力があります。案内人のオジサンは冗談交じりの口調で、今年に入ってから三名、多い年は30名の方がここから飛び降りになりますと話していました。

バイクのメンバーも一緒に船着き場の近くで記念撮影。賑やかな一行が解散した後、NTTの男の車で福井駅まで送ってもらいましたが、先を急いでいたのか荷物をトランクに置いたまま出発しそうになり、バックミラーで気づいてくれて良かったものの危ないところでした。

京福電気鉄道を乗り継いで永平寺に到着したのは午後1時半頃。いきなり近代的なビルが聳えて参拝券は自動販売機にて購入。寺らしい雰囲気に辿り着くまでしばらく廊下を歩かねばなりませんでした。お堂をいくつも越えて庭に向かって視界が開けると、紅葉も見えました。たくさんの若い修行僧が冬支度に追われて、竹のすだれのようなものを建物の外壁に並べています。修行僧の姿の撮影は厳禁なので、遠くから冬支度の風景をカメラに収めることに留めました。

列車の本数が少ないので帰路に就いたのは15時を回っていました。(一昨年に永平寺を訪れたのは26年ぶりでしたが、京福電気鉄道は「えちぜん鉄道」と変わり、永平寺前までの支線が廃線になったことには反対側から歩いてきて参拝した帰りに気づいたのでした。)天気は曇りだして冬の気配も漂ってきました。

連休の最終日で帰りの電車は込み合いました。金沢ユースの帰りに同行した女の子四人組は忍者村へ行くと言っていましたが、帰路で再会する淡い期待が叶うことはありませんでした。米原から乗った東海道新幹線も満席でドアを入ったところに立つしかありませんでしたが、大学のオーケストラの一年下でヴァイオリンを弾いていた色白でグラマーな女性に遭遇して、新横浜までいろいろ話せたのは幸いでした。

石川県羽咋市出身、全国でおそらく一世帯だけの珍しい苗字の彼女は、大学卒業後、故郷へUターンして中学の先生をしていたけれど、最近退職して東京へ出てきて高校の理科の先生になったそうです。大学オケの共通の知人の消息で次々に懐かしい名前を出しあって情報交換となりました。実家への帰省帰りで、石川県には離れがたい思いがあるそうです。私の同期にプロのオーケストラのヴァイオリン奏者になった男がいて(彼の息子は後に大河ドラマのテーマ曲を弾いている!)、ドイツ留学からの帰国記念コンサートがあるという話を伝えたのですが、それを口実に彼女の連絡先を聞き損ねたのは、今回の旅の二度目の不覚でした。

柏市の実家(当時は東葛飾郡沼南町)に着いたのは午後9時、車でその日の内に茨城県阿見町の社員寮に帰宅したと思います。社員寮は研究所のすぐ近くにあり、夜半に火災報知器の誤作動で寮生が会社に駆けつける羽目になりました。職場への土産に「羽二重餅」(福井県の名物)を下げて出勤し、各ラボに配って回った後、疲労と寝不足でパソコンに向かったまま居眠りしかけて同僚の女子社員に心配されました。

半月後の12月7日が誕生日だったので、二十代最後の旅となりました。学部(筑波大では学群)と大学院合わせて9年の長い大学生活は学業(化学)でもサークル活動(オーケストラ)でも目標を失って大成せずに終わり、バブルのおかげで大企業に滑り込んだようなものでした。三十代を迎えた気持ちは、中途半端な成熟のまま分別くさい大人の世界に入らされたようにみじめで、学生時代のような新鮮な出会いや感動とは無縁になるのかと索漠たる思いも心に影を落としました。

年明けに初めてスキー用具一式を購入して、社内のいろいろな仲間とのスキーツアー(ニセコ、尾瀬、石打)に備え、初級者レベルから「成り上がり中級」、「万年中級」とレベルアップしたつもり。体育会系社員の幅を利かす社内の雰囲気にいつしか馴染んで、スキー、ボート、山登りに参加、昼休みのジョギングに筑波学園都市へのプール通いで、気がつけば二十代より健康的で体力のある三十代を迎えて、「青春」とも言える日々が続くこととなりました。

二十代が4分の3を過ぎたところで「ひとり旅」に目覚めたのは、日本中に知らない地域が多すぎるという自覚が音楽の世界(サークル活動)でも自然科学の世界(学業)でも満足に活動できなかった無念を晴らし欲求不満を解消することであり、自分の足で見知らぬ土地を歩きまわることに自分なりの世界制覇の道を見いだして躍起になってエネルギーを放出し続けながら、心の故郷を探し求めているつもりでした。

この年のGWに先祖の地を訪問するという口実で九州を旅した結果、沖縄を除く全46都道府県の制覇を成し遂げましたが、一人旅のマンネリ化も早くも兆していたかもしれません。今回の旅日記は、人との出会いが多くて色々な話題に花が咲きましたが、訪問した地域については合掌集落も東尋坊もあっさりと素っ気ない記述です。出会った人とのコミュニケーションも旅先限りでした。三十代の人生を受け入れるようになるまで半年掛かりました。旅先で一緒に行動した人と写真や手紙をやりとりするようになったのは翌年の夏休みの旅以降、充実した旅人生は、まだこれからでした。

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