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2018年05月17日18:08

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言語運用能力が怪しい生き物が青地みたいなツゴウノイイ物語に染まるとこうなる

■やっぱりオタクはパブリックエネミー。新潟女児殺害事件に「定番」のオタク報道が登場したけれど……
(おたぽる - 05月17日 01:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=178&from=diary&id=5113944


まず、青地イザンベールまみ、って、ジョークみたいな名前してるなあ、って思ったところから始めたんですが、こういう人は中学校で論理でものを考える勉強をしてこなかったか放棄してきたので、変にさとしてもこうしてこじれてしまうようです。

「この騒動には陰惨さが目立った。
冷静になって考えれば、頭のよい大学を卒業した件の女性が、Twitterという手段を用いて「異様」な発言を繰り返すには、いったいどんな理由があったのか疑問が沸くのではないか。
だが、徹底した批判は、件の女性をより頑なにさせて、解決を見ない負のスパイラルへと落とし込んだ。」

http://lite.blogos.com/article/296719/
パブリックエネミーがいっぱい(赤木智弘) - BLOGOS(ブロゴス)


「メディアではあまり漫画やアニメが原因と叩かれなかった座間殺害事件でさえも、うちのせいだと週刊誌に叩かれているので<またか!>という感じではありますが<中高生の頃、一度もアニメやゲームに触れていない者だけが石を投げなさい>でいいのではないでしょうか」

は、あんまりよくないので、オススメはしません
続・キリストの濫用――ファリサイ派とのテクニック―― http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964781463&owner_id=65933753&full=1

エコーチェンバー再録版 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962352765&owner_id=65933753&full=1

青地イサンベールまみ、みたいなヤツって、だいたいこんな感じに陥るんだな、ってのを思い出したので。
いい反面教師です。

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諸説に含められないまちがいは、『諸説あります』とはなりません。
話はここで終わりません。
こういう場合、文献学的かつ論理的に説を否定されると、ヘソを曲げてヘリクツをこねだす人間があらわれます。

みんなが思い込む常識に対して、それウソだよー、じつはね・・・と雑学を披露すると、えー、知らなかった!
とみんな驚いてくれます。自分が雑学知識によって世の中の迷妄を糺し、人々を真実の方向へ導くことへの快感を覚えて酔いしれていたのに、実は自分が誤った道へみんなを誘導していたのだ、と気づかされて、一気に酔いが覚めます。
わざとじゃないから罪はないけど、面目丸潰れ。うわあ、あの人、俗説を信じて他人に広めてたよ。かっこわる〜、なんて後ろ指をさされている気がして恥ずかしいったらありゃしない。
そういうときは、あの説、まちがいだったんだって、ごめん、私もすっかりダマされてた!と正直に認めてしまったほうが、印象がよくなるんです。
だけど、負けず嫌いの人は、プライドが傷つくのに耐えられないので、余計な言い訳やヘリクツをかましてしまいがちです。たとえば、こんな感じ。

「『花子とアン』はフィクションなんだからいいじゃん。ここで史実を出すのは無粋ですうー。」

「先ほどつぶやいた銀ブラの件は、俗説じゃないかという情報があったので、訂正します。まあでも100%確定じゃないし、好きな方に解釈してもいいかな・・・w」

「チョット間違えてるんじゃないか。私はこう思うなぁという程度の私見にすぎないのに、「銀ブラの語源はブラジルコーヒーではない」とギャンギャン喚き立てるのは無粋。」

「白・黒つける必要のないお話だったみたい・・・」

カフェオーレはなんとも罪深いフレーズを作ってしまいました。こういういいわけに共通するのは、事実の探求を無粋だの好きな解釈だのと感情論にすり替えていることです。たとえば、迷惑行為を注意されたやつが、注意した相手の言い方が悪いだのとけちをつけて批判の矛先をかわして自分の失点をカバーしようとするのもこれと同じです。

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ここから発展しない、というのもなんとも成長を感じないのですが、よいこはもう少し論理で生きる生き物になりましょうね。

マスコミは猟奇事件の容疑者をどう報じるか――2005年「奈良幼女誘拐殺人事件」における物語化(松谷創一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20160331-00056058/


都合がよろしくないようですが、それ自体がそもそも有害であるような表現というものはこの世に存在しないのです。

例えば、マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁に、『Mozu』が描かれようとも、『刑事コロンボ』が描かれようとも、栗原正尚先生の様にどれほどアクが強く残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができません。

当たり前だが、「有害」なのはモノではなく、 「有害な行為」をなす人間が「有害」なのであります。

全米ライフル協会は「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と主張していますが、彼らのワーディングを拝借すれば、「有害な表現が有害なのではない、有害な人間が有害なのだ」ということです。

残念ながら、マンガやアニメや小説が自存的に「有害」であるということは(まことに残念ながら)原理的に不可能なのです。

そもそも、「有害」というのは人間を媒介とすることによってしか物質化しないので、「有害表現」は「人間が有害な行為を遂行するように仕向ける表現」以外での定義を受け付けません。

果たしてどのような表現が「人間を有害な行為の遂行に導く」のでしょうか?どのような表現が「ほんとうに有害」なのでしょうか?

今回に限らず採用されがちであるのは、「有害な表現は人間を有害な行為に導く」という命題でありますが、トートロジーです。

「有害な表現」という主語は、そもそもそれが「有害な行為」の主因であるという事が論証されない限り、「有害」という形容詞を引き受けることが出来ません。

確かに「有害な行為」というものは事実として存在するのですが、「まちがいなく有害な表現」というものはこの世には存在しないのです。

その図書なり図画に触れたことが「有害な行為」の一因であったということが公然に証明された後に、遡及的に初めてその有害性を認知される「仮説」としてしか存在しないからです。

この論理力が働かない時点で、私からしてみれば愚鈍性以外のものが彼らに投げ掛ける言葉として見当たらないのですが、いかがでしょう。国語力が彼らは低いから、こんな致命的なミスを犯しているのでしょうか。


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