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2017年11月21日08:46

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心理学者とキリスト教世界観

パーソナリティーとはキリスト教の神から与えられるもので、
その日本語訳は「人格」や「個性」ではなく、
該当する日本語は存在しない。
パーソナリティーとは「神から与えられた存在」という意味であり、
日本人の人格や個性は神から与えられるものではない。
キリスト教の世界観を理解できなければ
パーソナリティーの意味も理解できないのである。

心理学の背景にはキリスト教の世界観がある。
つまり心理学はキリスト教徒によって作られたもので
キリスト教徒にしか適用できないのだ。
キリスト教徒の心理と仏教徒の心理は違う。
つまり日本人に心理学は当てはまらないのである。

エリック・クラプトンが4歳で亡くなった息子に捧げた歌
「ティアーズ・イン・ヘヴン」の歌詞の意味は
キリスト教の世界観を知らなければ理解することはできない。
無論、訳詩も無理だ。
キリスト教の概念における死は「神の元に戻る」ということなのだ。
当然だが、神の元に戻ったら、
生きていた時のパーソナリティではなくなる。
天国で家族に再会したとしても既に家族ではなくなっているのだ。
クラプトンが息子に天国で再会したとしても、
息子は彼を父親だった人とは認識できない。
「ティアーズ・イン・ヘヴン」が切ないのはそこにある。
日本人は「あの世でまた家族に会える」と本気で考えるが
キリスト教徒はそのようには考えない。
天国に行って再会できても、家族ではないのだ。
だからとても残酷な歌だ。
日本人が考えるような生易しい歌ではない。
歌詞の中で「see」ではなく「saw」と言っているのは
再会することはあり得ないからだ。
絶対にあり得ないと分かっているから「saw」を使っているのである。

クラプトンは天国で息子に会い、謝りたいと願っている。
日本人ならそれは可能だが、
キリスト教徒には不可能なのだ。
つまり謝ることさえ許されないのである。
歌詞には「もしお前が私の名前を知っていたら」とあるが、
日本人なら「もしお前が私を覚えているのなら」とするはずだ。
二人の関係は天国では親子ではないのだ。
日本人ならあの世でも親子のままでいられる。
クラプトンは天国で息子に出会えたとしても、
もはや親子の関係はないのだ。
何と残酷な話だろうか?
私はこのような残酷な歌を他に知らない。


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