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2017年10月08日10:25

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『けものフレンズ』における 自立と連帯

コミュ「けものフレンズ(アニメ)」のトピック「けものフレンズの第何話が好きですか?」(http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=8&community_id=6299812&bbs_id=84127578)に、好きなキャラクターについてコメントをしていて、初めて気づいたことがありました。

『 アレクセイ
2017年10月07日 01:32

好きな回となると、最高潮に盛り上がる最終回ってことになりますが、やはりキャラクターに愛着があるので、いろんな回も捨てがたい。

サーバルとかばんちゃんは別格として、私が好きなのは、トキ、アルパカスリ、スナネコ、ツチノコ、博士と助手、ギンギツネとキタキツネです。
こう書いてきて、今回初めて気づいたんですが、私はマイペースなキャラが好きみたいですね。

もっとも、フレンズは元々「けもの」ですからマイペースなんですが、マイペースというのは「人の顔色を窺ったりしない」ということなんでしょう。

群生動物なら、そういう傾向はあるのでしょうが、個人の問題としてそれをするのは、やはり人間の特性なんでしょうね。

だとすると、フレンズの世界には「除け者」がいないというのは、フレンズたちの場合、協力することはあっても、もたれ合ったりはせず、個々に自立しているので、除け者は発生しようがない、ということなのかも知れませんね。
群に依存する者どうしの中でしか、除け者という懲罰は発生のしようがありませんから。

分析が好きなフレンズでした。(^^)』

ここで「フレンズの個人としての自立」ということに、疑問を感じる人がいるかも知れません。

「サーバルとかばんちゃん」「博士と助手」「アライさんとフェネック」「オグロプレイリードックとアメリカンビーバー」といった具合に、いつも一緒というペアやグループも少なくないし、最終回では「群の力」が強調されるのは周知のとおり。
にもかかわらず、個々の自立を強調するのは、作品の内実に即していないのではないか、という疑義です。

そこで忘れてならないのは、第1話における、カバさんの、

「ジャパリパークの掟は自分の力で生きること、自分の身は自分で守るんですのよ」

というセリフです。
事実、他でもすでに指摘されているとおり『けものフレンズ』は「かばんちゃんの自立への成長物語(ビルドゥングスロマン)」だと言っても過言ではないでしょう。

最初は、ひ弱そうで自信無げだったかばんちゃんが、サーバルと旅をしていく中で、サーバルに励まされ、その知恵で人助けをし、危機に立ち向かうといった経験を積んでいくことで、最終回では、サーバルと別れてでも自分のルーツを探る旅に、独り決然と旅立ちます。

結果としては、サーバルや他のフレンズたちも追いかけてきて一緒に旅立つことにはなりますが、かばんちゃんの成長と自立は、最終回に明らかに示されていたと思いますし、それは、みゆはんによるエンディングテーマ「ぼくのフレンズ」の歌詞にも明らかだと思います。

『ああ 僕らは立った今
ゴールは別々スタートライン
思い出しまい込んで
踏み出した先は 未来へ

かけがえない
僕と似た君は
1人でも大丈夫
だからただ前を見て
広がる道を走るんだ』

ですから『けものフレンズ』という作品を考える場合、この「自立と連帯」というテーマは外せないのではないでしょうか。

では、この「自立と連帯」を、具体的にどう理解すればいいのでしょうか?

私たち『けものフレンズ』ファンは、先日の「たつき監督降板騒動」において、この問題の難しさを身をもって体験しました。

つまり、巨大な敵に小さな存在が立ち向かうには、是非とも仲間との協力連帯が必要です。
しかし、大義ある闘いへの協力は、得てして義務や強制に傾きがちで、口には出さなくとも「『けもフレ』ファン、たつき監督のファンなら、監督を降板させた者への抗議行動に参加協力するのは当然じゃないか。これに参加しない奴は『けもフレ』ファンじゃないし、もしも、たつき監督が第2期を作ることになっても、そんな奴には視る資格はない。そんなフリーライダーは許さない」なんて思った人も少なくなかったはずです。

しかし、言うまでもなくこれは、個人の判断と意思の自由を無視した「独善的正義」でしかありません。

人が何を思い、どう判断し、どう行動するかしないかは、基本的には、個人に良心に任されており、どんなに正しそうに見えても、有力者の正義や多数派の正義を押しつけていいということにはならない。

自分が誠実に考え、良かれと思って行うことを、他人から頭ごなしに「君は間違っている」「君は裏切り者だ」などと断じられ、仲間はずれにされて、納得のいく人はいないでしょう。
ならば、人に対しても、そんなことをしてはいけない、というのは人間倫理の基本だと言えるはずです。

だから、他者の判断や思想や行動を、可能なかぎり尊重しなくてはならない。

しかし、それでは協力や連帯ということは可能なのか、ということですが、無論、可能です。
むしろ、もともと強制的になされるような力の結集とは、協力や連帯と呼べるものではないんですね。
協力や連帯とは、個々人がその自由な意志に基づいてすることなのですから、それは当然やれることなのです。

では『けものフレンズ』における、協力や連帯とは、どのように描かれているでしょうか。
サーバルとかばんちゃんの事例に即して考えてみましょう。

カバさんが「ジャパリパークの掟は自分の力で生きること、自分の身は自分で守るんですのよ」と言っているにもかかわらず、当初のかばんちゃんは、この掟を守れない、掟からはずれた、自立できない弱い存在でした。
ならば、かばんちゃんの存在は、ジャパリパークでは認められず、仲間はずれ、除け者にされるのでしょうか?

そんなことはなかったですよね。
かばんちゃんが、まだ掟を守れない弱い存在であったればこそ、すでに自立していたサーバルは、かばんちゃんのフォローを始めた。
掟を守れない存在だから排除するのではなく、掟を守れる自立した存在になれるように、サーバルはかばんちゃんに協力したのです。

つまり、フレンドたちにおける「協力」や「連帯」とは、自立できない弱い存在が、ただ寄り集まってもたれ合うようなものなのではなく、お互いの自立をうながし、皆の自立を守るための、協力であり連帯だったのです。

ですから、想像してみて下さい。
博士と助手は、いざという時でも一人では闘えないようなフレンズでしょうか?
アライさんやフェネック、ギンギツネとキタキツネは、一人だと何も出来ないフレンズでしょうか?

そんなことはないと思います。
彼女たちは、仲間を救うためなら、一人でも敵に立ち向かう強さを、それぞれがそれぞれのかたちで持っていたと私は思います。

その意味で、フレンズたちは、カバさんの言うとおり、ジャパリパークの掟を守って生きている、自立した存在であり、サーバルから自立したかばんちゃんだけが、自立していたのではないと思います。

ここで、私の好きな小説の一節を紹介しておきましょう。
ここには「連帯」の、真の姿が示されているからです。

『伊藤辯護士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「〈連帯〉とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。』
(大西巨人『深淵』より)

つまり、『けものフレンズ』において描かれた「連帯」とは、この理想の姿に他なりません。

『けものフレンズ』が描いた「自立と連帯」とは、自己中心的な個人主義としての自立ではないし、連帯は、もたれ合いではない。
「自立と連帯」は、矛盾するものではなく、「自立のための連帯(協力)であり、連帯を支えるものとしての自立」なんだと思います。

これを博士風に言い換えれば、「自立していてこその連帯であり、群なのです」ということになるのではないでしょうか。

私は、今回の「たつき監督降板騒動」で、この「自立と連帯」の問題を身をもって考えさせられました。
以前にご紹介した拙論「『けものフレンズ』論 一一 エデンの東」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961514127&owner_id=65880466)とそのコメント欄で、私は『けものフレンズ』を、単なる癒し系の作品ではないけれど、そのようなものとしての楽しめればそれはそれでいい、というようなことを書きました。
しかし今となっては、やはりそれだけでは勿体ないと思います。

たしかにジャパリパークは楽園ではありますが、フレンズたちはその世界を守るために、連帯して闘っているのも事実ですなのから、そこを見逃してはならない。
フレンズたちは、自分たちの楽園の「自立」を守るために、力を合わせて闘っているのであって、決して人間という他者の作った楽園に依存しきって、何の主体的な努力もせずに生きているわけではないのです。

であれば、私たち『けものフレンズ』ファンが、この作品から「現実逃避的な癒し」だけを引き出す依存的な態度は、やはり、たつき監督と作品の意志に反しているのではないでしょうか。

『けものフレンズ』という一見「癒し系」と見えてしまう作品の奥には、やはり「自立と連帯」を促し励ます意志が込められているのではないでしょうか。

また、そんな作品を作った監督だからこそ、あんな挑戦的なツイートをすることも出来たのではないでしょうか。「ただ、無力を嘆いて終わるような、泣き寝入りはしないぞ」と。
私たちは、その秘められた意志と呼びかけに、共鳴したんだと思います。

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