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2017年11月10日19:55

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日蝕

少し臨時収入が入ったので、何か旨いものでも食べようと出かけた。ちょうどお昼時で空はカラッと晴れており、日本晴れと言っていい好天だったが、いつもより裏町は静かに感じた。小学校からも賑やかそうな声はしなかったし、往来を誰かとすれ違うこともなかった。ただ肌を刺すような、鋭いというのか、この季節にしては冷たい風が吹いていた。それにしても腹が減ったので、早くどこかで何か食べたかった。
この界隈には不思議と飲食店はないので、この路地を折れて大通りへ出、その辺りの定食屋に入るつもりであった。
太陽が少し翳り出した。なんだか雲の影に入ったにしては妙に暗いな、と思っていると、日差しは眩しくて正視はできないが、太陽が欠けはじめたように思えてきた。今日は日蝕だったのか。だんだん裏町全体が暗くなってきたので、何だか嫌な気になった。不審に思っていたけれど、確かニュースでも今日は日蝕だとは言っていなかったと、朝のことを思い出していた。
暗くなり始めるのとほぼ同時に、裏通りのこの近辺から、静かな、包丁を研ぐような音が聞こえ出した。この辺りには食べ物屋はないし、今時砥石で包丁を研ぐ家なんてあるのだろうか。と、変に思っていたけれど、その後は人を鬱然とした気分にさせずにはおかない、聞いていてもただごとではない音のような気がした。そして、すぐそこの雑貨店から電話への受け答えのような声が聞こえてきた。
「えーそうなんです。亡くなったんです」
「いや、そうではなく、事故死だそうです」
「ええ、そうなんですよ。まだ、5歳でした」
「通夜なんですが、母親が刃物を振り回して」
「ええ、それでお一方、お気の毒に」
後は聞こえなくなった。包丁を研ぐ音がそこでぴたりと止んだ。
しばらく裏町には何の音も聞こえなかった。ひどく電話の話が気になった。刃物を振り回した母親がどうなったのか。お一方気の毒にどうなったのか。そんなことが気になって仕方なかった。
日蝕と思われる太陽は、まだかけたままだった。一陣の風が裏通りにひとしきり吹いて、道端のポケットティッシュの包みらしきものが、飛ばされて行くのが見えた。雑貨店の自動販売機の脇にある、溢れかえった空き缶入れから、珈琲の缶が一つ転がり落ちた。転がりだすと、この長いなだらかな坂をどこまでもからからと高い音を立てて転がっていった。私は片付かない思いのままそれを呆然と眺めていたが、さっきまで空腹で仕方なかったのに、今はもう何も食べたくなくなっていた。路地に若い女が現れたのはその時だった。三十前ぐらいのちょっと見た目の美しい女であった。その女は髪を振り乱し、腕をぶらんと垂らしたまま、私の方を向いた。そして気味の悪い笑いを浮かべた。
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