mixiユーザー(id:48382454)

2017年09月04日00:23

144 view

9月4日の日記

今日の出来事:476年−西ローマ帝国滅亡、1552年−萱津の戦い、1596年−慶長伏見地震、1725年−松本大変、1877年−西南戦争:米倉の戦い、1913年−ワグナー事件、1994年−関西国際空港開港、1994年−武豊騎手が騎乗のスキーパラダイスがフランスのムーラン・ド・ロンシャン賞で優勝、日本人騎手初の国外G1勝利、2001年−東京ディズニーシーグランドオープン

今日は、西ローマ帝国滅亡です。西ローマ帝国は、スティリコの補佐を受けた皇帝・ホノリウスのもとで一時的な安定期を迎えました。408年にスティリコがホノリウスによって自殺させられると、ホノリウスが親政を執り、423年に没するまで帝位に就いていました。しかし、その治世は蛮族の侵入と帝位簒奪者が相次ぎました。410年に、紀元前4世紀のガリア人の侵入以来、初めてローマが掠奪されました。西ローマ帝国で、簒奪者たちによって引き起こされた不安定状態は、蛮族にとって征服の手助けとなり、5世紀になると蛮族が帝位簒奪者に成り果てました。475年には、かつてアッティラの腹心だったオレステスが、ユリウス・ネポス帝をラヴェンナから追放し、わが子ロムルス・アウグストゥルスが皇帝であると宣言しました。 いくつかの孤立地帯で西ローマ帝国の支配が続いたものの、西ローマ全域における帝国の支配権は失われていました。476年にオレステスが、オドアケルが率いるヘルリ連合軍に賠償金を与える事を断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害、ロムルス・アウグストゥルス帝を退位させて帝位のしるしを東ローマ帝国皇帝・ゼノンのところに送り返し、自らはゼノン帝の宗主権下のイタリア王として立ちました。こうして西ローマ帝国は滅亡しました。この西ローマ帝国の滅亡をもって「中世」の始まりとなります。

次に、萱津の戦いです。萱津の戦いは、1552年9月4日に尾張国萱津で行われた戦いです。尾張下四郡を支配する守護代の清洲・織田家(織田大和守家)の重臣で、清洲三奉行の一人・織田信秀は勢力を伸ばして主家の清洲・織田家と対立と和睦を繰り返していました。しかし、織田信秀が死去して子・信長が家督を継ぐと、織田信秀に従っていた鳴海城主の山口教継・教吉父子が駿河の今川義元に寝返り、1552年5月10日に「赤塚の戦い」が勃発しました。清洲・織田家の当主は織田信友でしたが、実権は又代・坂井大膳が握っていました。坂井大膳は坂井甚介、河尻与一、織田三位と謀って1552年9月3日に織田信長方の松葉城と、その並びにある深田城を襲撃すると松葉城主・織田伊賀守と深田城主・織田信次(織田信秀の弟)を人質としました。この報せを聞いた織田信長は、9月4日早朝に那古野城を出陣すると、稲庭地の庄内川畔で守山城から駆けつけて来た織田信光(織田信次の兄)と合流しました。織田信長は、兵を松葉口、三本木口、清洲口に分け、自らは織田信光と一手になって庄内川を越し、萱津へと移動しました。午前8時頃に戦端が切られ、数刻交戦の末に坂井甚介が討死しました。その首は、中条家忠と柴田勝家が二人掛かりで取りました。その他、清洲方の50騎が討死しました。松葉口では惣構えの中へ清洲方を追い入れ、真島の大門崎で午前8時〜正午頃まで交戦が行われました。数刻の矢戦で、清洲方は負傷者多数で本城に退却しました。深田口では、三本木の町に要害がなかったため即座に追い崩し、清洲方の侍30余人が討死しました。これにより、深田、松葉両城に信長方が押し寄せると、清洲方は降参して城を明け渡し、清洲へ退却しました。織田信長は、余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払いました。以後、両者の敵対関係が続く事になります。この戦いが前田犬千代の初陣となり、首級を一つ挙げる功を立てました。その後、元服して前田又左衞門利家と名乗ります。

その次に、慶長伏見地震です。「慶長伏見地震」は、1596年9月5日の子の刻に京都・伏見付近で発生した大地震です。有馬−高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源として発生したマグニチュード7.5程度と推定される内陸地殻内地震です。この地震により、京都や堺で1000人以上の死者を出し、完成したばかりの伏見城天守が倒壊して城内で600人が圧死しました。京都では東寺、天龍寺、二尊院、大覚寺等が倒壊し、被害は京阪神・淡路島の広い地域に及び、大坂・堺・神戸では家々が倒壊しました。木津川河床遺跡、内里八丁遺跡等では液状化跡が見つかり、玉津田中遺跡や田能高田遺跡等で液状化現象が発生した痕跡があります。また、今城塚古墳と西求女塚古墳における墳丘の地滑りは、この地震によるものです。徳島県鳴門市の撫養地区で生じた隆起は、塩田開発の契機となりました。この地震で、加賀爪政尚が伏見城の城門の下敷きとなり死亡、横浜一庵も圧死しています。

その次の次に、松本大変です。信濃・松本藩主の水野忠恒は、江戸・日本橋浜町邸で生まれました。幼名・為千代、嫡男では無かったため、日頃から酒色に耽って、みだりに弓矢を射ったり、鉄砲を撃つなどの奇行が見られました。1723年に兄・水野忠幹が没したため、遺言によって松本藩主に就任しました。藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣に任せていました。1725年、大垣藩主・戸田氏長の養女を娶りました。その祝言を行なった翌日の9月4日に、将軍・徳川吉宗に婚儀の報告をするために江戸城に登城しました。その後、松の廊下ですれ違った長府藩世子・毛利師就に対して斬り付けました。不意を付かれた毛利師就は負傷しましたが、鞘刀で応戦して水野忠恒の脇差を落としました。そこへ通りかかった大垣藩主・戸田氏房が水野忠恒の腰刀を奪って鎮定しました。水野忠恒は、不行跡が多くて家臣に人気が無いので、自分の領地が取り上げられて毛利師就に与えられる事になると思ったので切りつけたと供述しました。しかし、実際にはそのような事実は無いため、乱心したとされて水野忠恒は改易となりました。毛利師就は、正当防衛によりお咎めなしとなりました。

そのまた次に、西南戦争:米倉の戦いです。9月1日、可愛岳を突破した薩摩軍は、鹿児島に入ると城山を占拠しました。薩摩軍は鹿児島城下の大半を制しましたが、米倉を制する事が出来ませんでした。9月3日には上陸展開した政府軍が、城下の大半を制しました。薩摩軍は米倉襲撃を計画しましたが、指揮官が決まっていませんでした。3日夜の軍議で、貴島清が指揮官に志願しました。翌4日午前3時に貴島清は、北郷万兵衛・増田宋太郎ら6、70名を率いて密かに米倉を守る塁に肉薄し、刀を揮って斬り込みました。伊東祐麿少将指揮の海兵、新選旅団、警視隊は圧倒されましたが、やがて反撃し、三好重臣少将が率いる第2旅団に阻まれ、貴貴島清は背後からの銃撃で戦死しました。

そのまた次の次に、ワグナー事件です。ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州のミュールハウゼン村で発生した大量殺人事件です。1913年9月4日の朝5:00頃、デガーロッホの自宅で、ワグナーは最初に妻を、それから自分の4人の子供を次々と刺殺しました。その後、自転車でシュトゥットガルト市に向かったワグナーは、午前8:10分発の列車で、そこから12km程北にある都市ルートヴィヒスブルク市に向かいました。自転車は手荷物として預けましたが、銃3丁、実弾500発以上、拳銃2丁、革のベルト、縁なし帽などを旅嚢内に、さらにリボルバー1丁を上着の内側に携行していました。ルートヴィヒスブルクで軽い食事を済ませたワグナーは、午前11:00頃、そこに住む親戚の家を訪れ「これからミュールハウゼン村に行っている子供たちを迎えに行く」と告げました。その後、近くの駅から、午後1:00発の列車でビーティッヒハイム市に到着したワグナーは、夕方7:00頃には自転車でビーティッヒハイムを出発、夜11:00頃ミュールハウゼン村に到着しました。村に到着したワグナーは、村のあちこちで放火、炎から逃げ出して来た人々を無差別に銃撃し、9名を殺害、12名に重傷を負わせました。ワグナーは男性のみを殺害しようと考えていましたが、死者に女性が含まれている事を後に知って非常に後悔しました。また、村の家畜数匹も負傷しました。被害者の大半は心臓を射抜かれていました。ワグナーは、警官2人と怒り狂った村の住人達に打ち倒され、重傷を負って捕らえられました。この時の負傷により後に、ワグナーは左腕の切断手術を受けています。ワグナーはハイルブロン市の未決監に拘留されました。そこでの尋問で、ワグナーがさらに自分の姉とその一家も殺害しようとしていた事、そして最後にルートヴィヒスブルク城で銃により自殺しようとしていた事が明らかになりました。ハイルブロンで行われた審理や、精神科医による精神鑑定により、ワグナーの一連の凶行の動機が明らかになりました。ワグナーの供述によれば、ミュールハウゼン村に教師として赴任した時に、酒に酔って獣姦行為を行いました。ワグナーは自分のその行為が村の住人に知られるようになり、自分が嘲笑され、迫害されていると思い込むようになりました。そこでワグナーは家族を道連れにして自殺する決意を固め、さらに村の住民達へ復讐しようとして企てたのでした。子供達を最初に殺害したのは、自分の死後、彼らが生きてゆくのを不憫に思ったためだといいます。しかし、事件後もワグナーの獣姦行為を証言する者は一人も現れませんでした。ワグナーは獣姦行為が人に知られるのを恐れていたが、それを最初に明らかにしたのは自分自身でした。ワグナーの獣姦行為は、本当にあったのか確認する事は不可能でした。判事は偏執病により責任能力がないことを認め、ワグナーは免訴されました。ワグナーは、ヴィンネンデンの療養所の一人部屋に収監されました。バーデン=ヴュルテンベルク州の司法史上、被告人が責任能力の欠如により免訴されたのはこれが初めてでした。ワグナーは1938年、収監先の療養所で結核により死亡しました。日本では、1938年5月21日、岡山県苫田郡で津山事件が発生した際、この事件と多くの共通点が指摘されました。

最後に、関西国際空港開港です。日本の空港で初めて、旅客・航空貨物の両方の24時間運用を開始しました。24時間運用開始は新千歳空港が先でしたが、こちらは貨物便のみの運用でした。2本のオープンパラレルの並行滑走路を有し、うち1本は成田国際空港と並び日本最長の4000m滑走路です。大阪湾内泉州沖5kmの人工島で、空港所在地名は泉佐野市泉州空港北・泉南郡田尻町泉州空港中・泉南市泉州空港南です。すべてが人工島からなる海上空港は日本初です。日本初の海上空港は長崎空港ですが、こちらは元あった島を拡張・造成したものであり、ゼロから海を埋め立てて空港としたのは関西国際空港が初です。

今日の誕生日:足利氏満、二宮尊徳(金次郎)、藤岡琢也、すまけい、梶原一騎、小林薫、マイケル・フォーチュナティ、山中伸弥、荻野目慶子、宍戸開、マイク・ピアザ、大島康祐(元WANDS)、小倉弘子、デッカチャン、田丸麻紀、宮崎宣子、島谷ひとみ、ビヨンセ(元デスティニーズ・チャイルド)、ジェロ、桝太一、中丸雄一(KAT−TUN)、清水由紀(元美少女クラブ31)、海堀あゆみ、重盛さと美、坂東希(E−girls、Flower)、長濱ねる(欅坂46、けやき坂46)、ピーター・ラビット、野々花みよ子(みよちゃん)、ドンキーコング

今日の記念日:クラシック音楽の日、櫛の日、串の日、鯨の日、急須の日、オークションの日、供養の日

今日の「今日訓」:本日は、「ク(9)ラシ(4)ック」の語呂合わせで「クラシック音楽の日」、「く(9)し(4)」の語呂合わせで「櫛の日」、「串の日」、「く(9)じ(4)ら」の語呂合わせで「鯨の日」、「きゅう(9)す(4)」の語呂合わせで「急須の日」、「オー(0)ク(9)ション(4)」の語呂合わせで「オークションの日」、「供(9)養(4)」の語呂合わせで「供養の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する