2333日目
・・・ニュースでは「AI(人工知能)が習近平の共産党を批判した(中国のIT大手の騰訊(テンセント)が提供する人工知能(AI)を活用 した対話プログラムがチャットで「共産党は無能」と批判を展開し、サービスが急遽停止された・中国の大手IT企業、テンセントが運営しているインターネット上で一般の人たちと会話する人工知能のキャラクターが、中国共産党について、腐敗して無能だ、と批判した・中国の大手IT企業「テンセント」が提供している、人工知能(AI)を用いた会話プログラム( チャットボット)が共産党を批判したため、同社はサービスを停止した。香港の「明報」が、 2017年8月2日報じた)」とか、「中国共産党万歳という書き込みに対し、AI は、こんなに腐敗して無能な政治に万歳なんてできるの?、と答えた」とか・・・哂っちゃったけれど・・・「日本の自民党」に対しては「AI(人工知能)」はナンって答えるんだろうか・・・「2333」の数字もナンか意味アルのカナ?・・・「AI(人工知能)」に訊いてみたい・・・「2+3+3+3=11・十一・壱拾壱」・・・既に8月4日になっちまった・・・
2017年丁酉(庚・ ・辛)
0008月丁未(丁・乙・己)
0004日癸亥(戊・甲・壬)
↓↑ ↓↑
0005日甲子
0006日乙丑
0007日丙寅
0008日丁卯
0009日戊辰
0010日己巳
0011日庚午
0012日辛未
0013日壬申
0014日癸酉
0015日甲戌・・・「終戦(敗戦?)記念日」
「ナポレオン・ボナパルト
(Napoléon Bonaparte)
1769年8月15日〜1821年5月5日)」
1769年己丑(癸・辛・己)
0008月壬申(己・壬・庚)偏印格
0015日甲午(丙・ ・丁)辰巳
↓↑
if 0016日乙未(丁・乙・己)→印綬格
if 0014日癸巳(戊・庚・丙)→劫財・支合庚
↓↑ ↓↑
1821年辛巳(戊・庚・丙)正官
0005月壬辰(乙・癸・戊)偏印
0005日甲申(己・壬・庚)比肩
ーーーーー
・・・「走り込む」、「ハシリコム」って?・・・
↓↑
葛子=くずこ・くすこ=楠子・薬子・・・?
↓↑
藤原薬子(ふじわらのくすこ)
生年不詳
〜
大同五年九月十二日・・・大きく同じ語を捻じ
(810年10月17日) 句解通、壱を拾い
爾を比(くらべる)?
女官
式家の
藤原種継の娘
中納言
藤原縄主の妻
三男二女の母
長女が
桓武天皇の皇太子
安殿親王の宮女となり
東宮宣旨(高級女官)として仕えた
自分が
安殿親王と
不倫の仲となり・・・?
薬子は
藤原葛野麻呂・・・葛-野-麻呂=かど-の-まろ?
↓↑ 天平勝宝七年(755年)
〜
弘仁九年十一月十日(818年12月11日)
藤原北家
大納言
藤原小黒麻呂の長男
母は
秦島 麻呂の女(娘)
官位は正三位・中納言
延暦二十年(801年)
遣唐大使
延暦二十二年(803年)正月
従四位上
四月に節刀を授けられ
難波津より出航
暴風雨で遣唐使船が破損
延暦二十三年(804年)七月
再出航、八月に福州に漂着
十二月に長安城に入って
徳宗との謁見
延暦二十四年(805年)正月
徳宗崩御、順宗即位にも遭遇
同年五月に明州から
対馬を経由し七月に帰国し節刀の返上
同月末
功労により
従四位上から従三位にまで昇叙され公卿
↓↑ この遣唐使で最澄・空海も同行
とも通じて
桓武天皇が怒り
薬子を東宮から追放した
↓↑
806年
桓武天皇が崩御
安殿親王が平城天皇として即位
薬子は再び召され
尚侍となる
夫の
藤原縄主
は大宰帥として九州へ
天皇の寵愛を受けた
薬子は政治に介入
兄の
藤原仲成
とともに専横を極め
兄妹は人々から深く怨まれた
大同四年(809年)
亡き父の
藤原種継
に太政大臣を追贈
↓↑
同年
平城天皇は病気のため
同母弟の
神野親王(嵯峨天皇)
に譲位
退位した
平城上皇は平城京へ移る
平安京と平城京に
二所の朝廷が並ぶ
薬子と仲成が
平城上皇の復位を目的に
平城京への遷都を図ったため
二朝の対立は決定的になった
↓↑
大同五年(810年)九月十日
嵯峨天皇は平安京にいた藤原仲成を捕らえ
薬子の官位を剥奪
平城上皇は
薬子とともに挙兵するため
東へ向かったが
嵯峨天皇は先手をうって
坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえ
勝機のない
平城上皇は平城京に戻って剃髮
薬子は毒を仰いで自殺
仲成も殺された
(薬子の変=平城太上天皇の変)
ーー↓↑ーーー
延暦二十五年(806年)
桓武天皇崩御
皇太子
安殿親王(平城天皇)が即位
平城天皇は弟の
神野親王を皇太弟とした
平城天皇が病弱で
その子供達も幼かった事を考え
嫡流相続による皇位継承を
困難と見た父、
桓武天皇の意向があった・・・
翌
大同二年(807年)
平城天皇の
異母弟
「伊予親王」
が謀反の罪を着せられて死亡
皇位継承を巡る宮廷内紛争・・・
↓↑
大同四年(809年)四月
平城天皇は発病
病を叔父
早良親王
や
伊予親王
の祟りによるものと考え
天皇は、禍を避けるために譲位
天皇の寵愛を受けて
専横を極めていた
尚侍
藤原薬子
その兄の
参議
藤原仲成
反対するが
天皇の意思は強く
同年四月十三日
に
神野親王が即位(嵯峨天皇)
皇太子に
平城天皇の三男
高岳親王が立てた
↓↑
大同四年十二月(810年1月or 2月)
平城上皇は旧都である平城京へ移る
平城上皇が天皇の時に設置した
観察使
の制度・・・平安時代初期に設置した
↓↑ 地方行政監察のための官職
唐、日本では律令に規定のない令外官
李氏朝鮮では国王直属の機関
806年(大同一年)
東山道を除く6道に各1人を置き
その下にそれぞれ
判官1人、主典1人を配し
観察使の印が付与された
当初、観察使は参議が兼任したが
翌年、参議の号を廃止して
観察使のみを設置
↓↑ 後
畿内、東山道にも設置
観察使設置の目的
786年(延暦五)に下された
国司、郡司らの監察に関する
十六ヵ条の条例
が有名無実となっていたため
これを遵行することにあった
諸国の治績を観察し、
地方官の執務状況を報告する役所
東海道使=藤原葛野麻呂(かどのまろ)
西海道使=藤原縄主(ただぬし)
山陰道使=菅野真道(すがののまみち)
山陽道使=藤原園人(そのひと)
畿内 使=藤原緒嗣(おつぐ)
北陸道使=秋篠安人(あきしののやすひと)
南海道使=吉備泉(きびのいずみ)
↓↑ 東山道使=安倍兄雄(あべのしげお)
を
嵯峨天皇が
改めようとしたことから
平城上皇が怒り・・・・ナンで怒ったのか?
二所朝廷
といわれる対立
平城上皇の
復位を目論(もくろ)む・・・目論む=摸句賂務?
薬子と
藤原仲成は
この対立を助長し
薬子が任じられていた
尚侍の職は
天皇による
太政官への命令書である
内侍宣の発給を掌っており
当時の
太上天皇には
天皇と同様に
国政に関与できるという考えがあった
(孝謙上皇と淳仁天皇の職権分割)
場合によっては
上皇が
薬子の職権で
内侍宣を出して
太政官を動かす事態も考えられた
薬子が
天皇の秘書である
内侍司の長官(尚侍)であったため
平安京にいた
嵯峨天皇は
太政官の議政官への
命令文書にあたる
内侍宣を出すことができなくなり
その他の
政務や宮中の事務において
支障をきたした
↓↑
嵯峨天皇は
大同五年(810年)三月
蔵人所・・・蔵人所=律令制下の令外官の一
↓↑ 天皇の秘書官
・・・秘書官が「蔵人」って意味深である?
唐名は侍中(ジチュウ)
夕郎(セキロウ)
夕拝郎(セキハイロウ)
蔵人所は事務を行う役所・場所
青い衣を着用したことから、
別名は『青色』、「殿上」
禁中で天皇の側向きの御用をつとめ
機密文書作成管理・訴訟を担当
後に詔書の伝宣も行い
禁中のすべてを総括するようになった
唐の「黄門郎(コウモンロウ)」の別名に由来
「日暮に出仕して青瑣門(セイサモン)に拝する」
ことから
内裏校書殿の北部に置かれた
蔵人は百官名、或いは人名の一つ
↓↑ この場合は「くらんど」と読む
を設置
同年六月
「観察使」を廃止し
参議を復活
このことは平城上皇を刺激した・・・
↓↑
二所朝廷の対立
同年九月六日
平城上皇は
平安京を廃して
平城京へ遷都する詔勅
嵯峨天皇はこの詔勅に従うとして
坂上田村麻呂
藤原冬嗣
紀田上
らを造宮使に任命
↓↑
嵯峨天皇は遷都を拒否
九月十日
嵯峨天皇は使節を発し
伊勢国
近江国
美濃国
の国府と関を固め
藤原仲成を捕らえて
右兵衛府に監禁の上で
佐渡権守に左遷
薬子
の官位を剥奪
造宮使だった
坂上田村麻呂を大納言に昇任
藤原冬嗣は式部大輔
紀田上は尾張守に任じられた
↓↑
九月十一日
嵯峨天皇は
密使を平城京に送り
若干の大官を召致
この日、
藤原真夏
や
文室綿麻呂
らが帰京するが、
平城上皇派と見られた
綿麻呂は
左衛士府に禁錮された
↓↑
平城上皇は激怒し
自ら
東国に赴き・・・・ナゼ、「東国」なのか?
挙兵することを決断
中納言
藤原葛野麻呂
ら
平城上皇方の群臣はこれを諌めた
が
上皇は薬子とともに
輿にのって東に向かった
↓↑
嵯峨天皇は
坂上田村麻呂に
平城上皇の東向阻止を命じ
田村麻呂は出発に当たって
蝦夷征討の戦友だった
綿麻呂の禁錮を解くことを願い
綿麻呂は許されて
参議に任じられた
この日の夜に
藤原仲成は射殺
・・・平安時代の政権が
律令に基づいて
死刑として処罰した数少ない事例
保元元年(1156年)の
保元の乱で
源為義が死刑執行されるまで
↓↑ 約346年間一件も無かった・・・?
平城上皇
と
薬子
の一行は
大和国
添上郡田村まで来たところで
嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り
勝機がないと悟って
平城京へ戻った
九月十二日
平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し
薬子は毒を仰いで自殺・・・
↓↑
事件後
高岳親王は皇太子を廃され
嵯峨天皇の弟
大伴親王(淳和天皇)が立てられ
弘仁十五年(824年)
平城上皇の崩御の際に
既に退位していた
嵯峨上皇の要望によって
淳和天皇の名で
関係者の赦免が行われた
↓↑
空海は
嵯峨天皇側の勝利を祈念
以降、
日本仏教界一の実力者になる契機となった・・・
ーー↓↑ーー
「伊予(いよ・伊豫=イ尹マ了象)親王」の話しだった・・・
↓↑
大同二年(807年)
平城天皇の異母弟
伊予親王
が謀反の罪を着せられて死に追い込まれた・・・
↓↑
伊予親王(いよしんのう)=伊豫(予+象)親王
延暦二年(783年)?
〜
大同二年十一月十二日(807年12月14日)
桓武天皇の第三皇子
官位は三品・中務卿、贈一品
↓↑
延暦十一年(792年)
加冠
父の桓武天皇の深い寵愛を受けた
↓↑
延暦二十五年(806年)
異母兄の平城天皇が即位
伊予親王の外伯父
藤原雄友は
大納言として
太政官の次席の地位に就き
親王自身も
中務卿兼大宰帥に任ぜられた
↓↑
大同二年(807年)五月
平城天皇は
神泉苑に行幸
伊豫(予+象)親王は
献物を行い終日宴会にも参加
↓↑
大同二年十月
藤原宗成が
伊予親王に対して
謀反を勧めているとの情報を
藤原雄友が入手し
右大臣
藤原内麻呂に報告
伊予親王も
宗成が自らに対して謀反を勧めた旨を奏上
藤原宗成は捕えられ取り調べを受け
伊豫親王が反逆の首謀者と言いだし
親王が
左近衛中将
安倍兄雄
と
左兵衛督
巨勢野足
率いる150名の兵士に邸宅を囲まれ捕縛
親王は
母の
「藤原吉子」とともに
川原寺(弘福寺)の一室に幽閉
飲食を止められ
大同二年十一月十二日
親王は吉子とともに毒を仰いで自害
(伊予親王の変)
↓↑
後に親王は無実とされ
淳和朝初頭の
弘仁十四年(823年)
母とともに
復号・復位
承和六年(839年)
一品が追贈
ーー↓↑ーーー
伊予国の
橘氏
や
越智氏
の祖とされ
藤原為世(浮穴四郎)?
↓↑ 浮穴郡(うけなぐん・うきあなぐん)
愛媛県(伊予国)
桓武天皇第四皇子の
伊予親王の長男
母親は家時の娘
藤原夫人(伊豫親王の母)が自害した後
家時が親王の子を潜かに撫育し
伊予に下向した
橘清友に預け、その子と称する
七歳の時に上洛し
嵯峨天皇皇后の
橘嘉知子に寵愛され、
「准第十八皇子」とされて藤原姓を賜る
下向して
↓↑ 「浮穴郡高井里」に住み
「浮穴四郎」を称する
↓↑
「景行天皇が
宇佐の仮宮にいるとき
神代の直に
まだ逆賊はいるのか、と訊き
その「煙の立って」いる村は、
いまだに統治を受けておりません、と。
天皇は
神代の直に命じ、その村に派遣し
「浮穴沫媛」という土蜘蛛がいて
大変無礼でだったので
すぐに誅し、この村を
浮穴の郷とした」
「沫=あわ・マツ・飛び散る水の粒・しぶき
水の泡・・・安房=あわ=阿波・安和・併
沫雪 (あわゆき)
泡沫 (うたかた)
飛沫 (しぶき)
水沫 (みなわ)
「浮穴沫」は記録道理の「煙の立っている村」なら
「温泉の煙(水蒸気)の輪、ケムリの沫」だろう・・・
「浮穴村(うけなむら)=浮穴村 (愛媛県上浮穴郡)
愛媛県上浮穴郡・1943年廃止
(大洲市・旧肱川村のち肱川町)
および
(西予市・旧惣川村のち野村町)
「浮穴村 (愛媛県温泉郡)=愛媛県下浮穴郡のち温泉郡
↓↑ 1959年廃止・現在の松山市
は
伊予親王の子であり
嵯峨天皇
が勅して皇子に準じられ
藤原の姓を受けた、という説・・・
ーー↓↑ーー
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