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2017年07月12日00:27

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7月12日の日記

今日の出来事:1441年−嘉吉の乱:赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を謀殺、1635年−江戸幕府が第3次鎖国令を布告、日本人の海外渡航および海外滞在者の帰国が禁止される、1868年−戊辰戦争:飯能戦争、1870年−西南戦争:恒吉・百引・大崎の戦い、1918年−日本海軍の戦艦「河内」が徳山湾で爆発事故により沈没、1943年−第二次世界大戦:コロンバンガラ島沖海戦、1945年−第二次世界大戦:敦賀大空襲(日本海側沿岸の都市としては最初の空襲)、宇都宮大空襲、1993年−北海道南西沖地震

今日は、嘉吉の乱:赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教を謀殺です。赤松氏は播磨の地頭でしたが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられました。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍・足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄でした。赤松満祐が家督を相続した時、4代将軍・足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こりました。義持は激怒して満祐を討とうとしますが、幕府の重臣達はこれに反対しました。そのうち持貞と将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続しています。足利義持は後継者を定めないまま死去しました(嫡男の5代将軍義量は早世していました)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになりました。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して、6代将軍・足利義教となりました。義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれます。義教は、長老格の三宝院満済、山名時熙の死後、指導力を発揮します。将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせました。「永享の乱」では、長年対立していた鎌倉公方・足利持氏を滅ぼしました。比叡山延暦寺と対立し屈服させましたが、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなりました。足利将軍の中では父の3代将軍・足利義満に比肩しうる権力を振るいました。猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられました。些細なことで罰せられ所領を没収された者が多数、遠島にされたり、殺された者もいました。足利義教の政治を世に「万人恐怖」と言われました。幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になり、播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れだします。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまいます。その後、大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺されます(大和永享の乱)。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れると、赤松満祐は隠居しました。出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた弟の大覚寺義昭が島津忠国に殺害されます。その後、足利持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落しました(結城合戦)。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首されます。こうして、足利義教の敵はみな消えたことになりました。その後も義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、弟の泰高が後を継ぎます。そして、赤松満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招きました。この宴に相伴した大名は管領・細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちでした。他に公家の正親町三条実雅(義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行しています。一同が猿楽を観賞していた時、馬が放たれ屋敷の門がいっせいに閉じられて、大きな物音がたちました。足利義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えました。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者・安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまいました。酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑います。山名熙貴は抵抗しますが、その場で斬り殺されました。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去しました。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向いますが、切られて卒倒します。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化しました。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出しました。赤松満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいました。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子がなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去しました。突然独裁者である将軍・足利義教を失った幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していたことから機能停止に陥ってしまいました。翌日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子・千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定しました。義勝を政所執事・伊勢貞国の屋敷から室町殿へ移しました。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は編成されませんでした。これは、強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったためです。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政は確立したはずでした。本拠地の播磨・坂本城に帰った赤松満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫・義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗します。季瓊真蘂が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めると、満祐は快く首を返還しました。そして、真蘂が京都へ首を持ち帰り、等持院で義教の葬儀が行われました。赤松討伐軍が編成されるのは、後になります。

次に、江戸幕府が第3次鎖国令を布告です。江戸幕府が「第3次鎖国令」を布告しました。これにより、中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定されました。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国が禁じられました。

その次に、戊辰戦争:飯能戦争です。「振武軍」は、天野八郎と合わずに上野の「彰義隊」を離れた渋沢成一郎を首領とする、彰義隊脱退者で結成されました。青梅街道・田無の総持寺を本営としました。ここで渋沢成一郎は、尾高惇忠らと隊士を集めました。しかし、「彰義隊」と新政府軍との間で「上野戦争」が起こりました。その前日に箱根ケ崎(現・東京都西多摩郡瑞穂町)に入っていた「振武軍」も、行動を開始して上野に向いました。しかし、「彰義隊」敗戦の報を受けて田無に戻って「彰義隊」の生き残りを吸収し、1500名に膨れ上がりました。「振武軍」は、飯能の能仁寺に入って陣営を構築しました。上野の彰義隊討伐を終えた大村益次郎は、脱走者と思われる振武軍討伐のため、軍監に福岡藩士・尾江四郎左衛門を任じ、指揮旗を与えました。残党討伐の総督の御所付を川越藩主・松平周防守に渡し、討伐に出兵させる事を命じると共に、久留米藩、筑後藩、大村藩、佐土原藩の各藩に出兵を命じました。福岡久留米藩では、隊長・郡右馬允、司令・大野十太夫、矢野安太夫の率いる一隊を編成しました。軍監・尾江四郎左衛門の率いる部隊は、川越藩・松平周防守の兵と共に、鹿山(現・日高市)方面から攻撃の陣を敷き、一部の部隊は「振武軍」の退路を断つために東吾野(現・飯能市)方面にも出陣しました。一方、郡右馬允などの率いる一隊は、扇町屋(現・入間市)方面に進み、久留米藩・大村藩、佐土原藩の各部隊と合流して作戦会議を開きました。八王子方面の退路を断つ為、筑前兵の一部隊は直竹村(現・飯能市直竹)へ進み、日光街道遮断のために筑前兵をあて、別に筑前筑後の一隊は横撃隊として雙柳(現・飯能市双柳)に進みました。こうして3500名の新政府軍が早朝から攻撃を開始し、わずか数時間で勝敗は決し、能仁寺はほとんど焼失しました。渋沢成一郎は被弾して負傷し、尾高惇忠に抱えられて伊香保に逃れました。参謀・渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子)は変装して顔振峠を越えて敗走、黒山村(現・埼玉県入間郡越生町)で新政府軍に捕捉されて負傷し、割腹して自害しました。渋沢成一郎と尾高惇忠はなおも徹底抗戦の主旨を貫き、密かに江戸に戻ると榎本武揚の艦隊に合流し、箱館まで転戦します。

その次の次に、西南戦争:恒吉・百引・大崎の戦いです。7月7日、「振武隊」大隊長・中島健彦は、国分より恒吉に到着しました。この時、政府軍は百引・市成に進駐していたため、この方面への攻撃を決定しました。「振武隊」は夜に恒吉を出発し、8日に百引に到着しました。ここで三方面から政府軍を、抜刀戦術で襲撃しました。不意を突かれた政府軍は、二川・高隈方面まで敗走しました。この戦いで薩摩軍の死傷者が8名であったのに対し、政府軍の死傷者は95名で大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われました。一方、越山休蔵・別府九郎らが率いる市成口牽制の「奇兵隊」・「振武隊」・「加治木隊」も8日に市成に到着しました。越山休蔵らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、政府軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始されました。戦闘は激しいものとなり、夕方に政府軍は民家に火を放ち、二川に退却しました。薩摩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、「振武十一番隊」を編隊し直して、「奇兵隊一・二番中隊」としました。政府軍が大崎に屯集しているとの情報を得た先発の「奇兵隊」は、7月11日に政府軍を奇襲しましたが二番隊長が戦死するほどの苦戦をしました。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却しました。一方、後発の「振武隊」は進路を誤り、荒佐の政府軍と遭遇し、半日に渡り交戦しましたが結局、大崎付近まで退却しました。7月12日、蓬原・井俣村の「奇兵隊」は大崎に進撃しましたが、荒佐野の政府軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突しました。当初、戦況は薩摩軍にとって不利な方向に傾いていましたが、大崎の「振武隊」と合流して政府軍に快勝しました。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったため、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示しました。

そのまた次に、日本海軍の戦艦「河内」が徳山湾で爆発事故により沈没です。「河内」は、第1次世界大戦前に日本海軍が竣工させた弩級戦艦です。戦艦「河内」は、訓練の途中で、前日からの荒天を避けるために、他の艦艇と共に徳山湾に停泊中でした。夕食の準備をしていた午後3時57分、突然、右舷前部主砲塔付近で2回の爆発が起こり、大音響と同時に砲塔周辺部や煙突から大火災が発生、周辺には無数の鉄片が飛散し、火柱と黒煙の渦が天空を覆いました。艦は急速に右舷側に傾斜し、大爆発後4分という速さで転覆し、艦底の一部を海面に現しました。瞬時の出来事で、多数の人が中に閉じ込められ、辺り一面が血の海と化していきました。乗員1020名の将兵のうち、621名が殉死する大惨事となりました。最新鋭軍艦の爆沈原因を探るため、徹底的な調査が行われましたが、原因不明の謎の事故として終わりました。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:コロンバンガラ島沖海戦です。コロンバンガラ島沖海戦は、1943年7月12日にソロモン諸島のコロンバンガラ島沖で発生した海戦です。日本海軍のコロンバンガラ島への輸送部隊とアメリカ海軍が交戦し、日本軍は軽巡洋艦1隻が沈没、アメリカ軍は駆逐艦1隻が沈没し、軽巡洋艦3隻が大破しました。7月12日3時30分、第二水雷戦隊部隊はラバウルを出撃してブカ島北方を経由し、クラ湾に接近しました。輸送隊は18時40分にブインを出撃しました。これら日本艦隊の動きは沿岸監視員によって察知されており、リレー形式でアメリカ軍に通報されました。これを受け、南太平洋部隊(第3艦隊)司令官のウィリアム・ハルゼー大将は阻止を命じました。第二水雷戦隊部隊の陣形は単縦陣で、「三日月」を先頭に立てて「神通」、「雪風」、「浜風」、「清波」、「夕暮」でした。22時44分、水上偵察機が4隻の敵艦が進んでいるのを発見し、「神通」に通報しました。「神通」は22時57分に先の通報を受信し、「雪風」も装備したばかりの逆探で艦船からレーダー波が発せられているのを探知しました。2分後、「ホノルル」のレーダーは二水戦部隊を探知し、23時3分には「ニコラス」が二水戦部隊を発見しました。エインスワース少将は駆逐艦の突撃と軽巡洋艦のレーダー射撃を入れ替え、前衛の駆逐艦による雷撃の後に軽巡洋艦がレーダー射撃を行い、一斉回頭を行ってから後衛の駆逐艦に突撃させるという戦法を採用しました。23時8分、「神通」は旗艦として後続の駆逐艦の雷撃照準を助けるため先頭に立ち、サーチライトによる照射射撃を敢行しました。その5分後、二水戦部隊は「神通」が照射した目標に対して砲撃および雷撃を行いました。しかし、自艦の位置をさらけ出した「神通」は、絶好の目標になりました。レーダー照準にて砲撃を集中させ、集中砲火を一身に受けた「神通」は大破炎上し、伊崎俊二少将以下第二水雷戦隊の幕僚も戦死、舵故障のため列外に飛び出る形となりました。それでも、「神通」は魚雷7本を発射しました。その後、23時22分には缶室に多数の命中弾を受け、二番煙突後方に魚雷が命中して航行不能となりました。さらに23時48分、再度の魚雷命中により「神通」は大爆発を起こして船体が真っ二つになりました。後部はすぐに沈没しましたが、残った前部の1番砲塔は2時間以上も激しい砲撃を続けました。「神通」の戦死者は482名を数え、わずかな生存者は2名がアメリカ海軍の高速輸送艦に、21名が「伊185」に救助されました。23時36分、二水戦部隊は魚雷の次発装填を終えて戦場に戻ってきました。アメリカ軍も「リアンダー」、「ラドフォード」、「ジェンキンス」を分離して陣形を立て直し、北方への追跡を開始しました。しかし、前衛の駆逐艦「ニコラス」、「オバノン」、「テイラー」の所在が不明となっていました。23時56分、「ホノルル」のレーダーは右前方に複数の目標を探知しました。しかし、エインスワース少将は、この目標が前衛の駆逐艦なのか二水戦部隊なのか判断が付きませんでした。二水戦部隊は、7月13日0時5分に2度目の魚雷発射と砲撃を行いました。二水戦部隊の砲撃により、ようやく敵味方の区別がついたエインスワース少将は、右に針路をとって砲撃を開始しました。その時、二水戦部隊からの魚雷が「セントルイス」の艦首に命中して艦首下部をもぎ取り、「ホノルル」の艦首と艦尾にもそれぞれ命中しました。艦尾に命中した魚雷は不発でしたが、艦首に命中した魚雷は爆発して「ホノルル」の艦首は垂れ下がりました。0時14分、「グウィン」に魚雷が命中して大破炎上しました。さらに「ブキャナン」と「ウッドワース」が衝突事故を起こして損傷しました。0時30分、二水戦部隊は戦場を離脱しました。これを見たエインスワース少将は追撃を命じましたが、その命令に従ったのは「ラルフ・タルボット」だけでした。二水戦部隊は5時15分、ブインに帰投しました。大破した「グウィン」は浸水が増大し、士官2名と乗員59名を道連れにして沈没しました。日本海軍の損害は、沈没:「神通」、小破:「雪風」、伊崎俊二少将以下、第二水雷戦隊司令部全滅でした。アメリカ海軍の損害は、沈没:「グウィン」、大破:「ホノルル」、「セントルイス」、「リアンダー」、「ブキャナン」、「ウッドワース」でした。

さらに次に、第二次世界大戦:敦賀大空襲、宇都宮大空襲です。
敦賀大空襲:敦賀は、空襲を受けた都市の中では最小規模でしたが、軍需工場の存在や港湾拠点という理由で空襲を受けました。「B−29」の編隊が市の東部に来襲し、周辺部から中心部へと焼夷弾による波状攻撃を繰り返しました。攻撃は翌日の午前2時頃まで続き、市街中心は焦土と化しました。市街地の85パーセント以上を消失しました。死者109名、負傷者201名を出しました。日本海側では、初の空襲となりました。
宇都宮大空襲:テニアン基地のハゴイ飛行場を飛び立った「B−29」の編隊133機(第21爆撃機軍団第58航空団)は、午後11時頃に鹿島灘から日本本土に侵入し、茨城県水戸市上空を西進して栃木県に進入しました。午後11時19分に宇都宮への空襲が開始されました。攻撃目標は現在の宇都宮市立中央小学校でした。この日は降雨による悪天候であったため、宇都宮駅周辺、栃木県庁周辺、宇都宮市役所周辺、東武鉄道・東武宇都宮駅といった中心市街地一帯、当時の宇都宮市域の約65パーセントが被災しましたが、全滅は免れました。空襲は宇都宮市域だけでなく、近隣町村である雀宮町、城山村、横川村、瑞穂野村、清原村、平石村、姿川村、豊郷村地区(以上は現・宇都宮市)、鹿沼町(現・鹿沼市)、真岡町(現・真岡市)にも及びました。午前1時39分に空襲が終了し、米軍機編隊は東方に飛び去りました。使用された爆弾はE46集束焼夷弾10500発、M47焼夷弾2204発が投下されました。この空襲による被災世帯数は10603世帯、死者628名、負傷者約1150名、焼失戸数9490戸と言われています。

最後に、北海道南西沖地震です。1993年(平成5年)7月12日午後10時17分12秒、北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底で発生した地震です。マグニチュードは7.8、推定震度6(烈震)で、日本海側で発生した地震としては最大規模でした。震源に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者202人、行方不明者28人を出しました(奥尻島地震とも呼ばれる)。さらに、ロシアでも行方不明者が3人でています。震度が推定になっているのは、当時の奥尻島には地震計が置かれていなかったためです。

今日の誕生日:足利義教(室町幕府第6代将軍)、芥川也寸志、京唄子、ジェリー伊藤、木内幸男、中村玉緒、真弓明信、北別府学、森永卓郎、片平なぎさ、渡辺美里、TAIJI(X JAPAN)、イ・ビョンホン、小林麻耶、亘健太郎(フルーツポンチ)、亀田和毅、ハメス・ロドリゲス、石橋杏奈、百田夏菜子(ももいろクローバーZ)、杏野なつ(元私立恵比寿中学)

今日の記念日:ラジオ本放送の日、人間ドックの日、ひかわ銅剣の日、洋食器の日、ローリング・ストーンズ記念日、O157堺市学童集団下痢症を忘れない日、デコレーションケーキの日

今日の「今日訓」:本日は、1925年、東京放送局(現在のNHK放送センター)がラジオの本放送を開始した事を記念して「ラジオ本放送の日」、1954年に国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター病院)で日本初の人間ドックが行われた事を記念して「人間ドックの日」、1984年に斐川町の荒神谷から弥生時代の銅剣358本が発見された事で「ひかわ銅剣の日」、1962年にローリング・ストーンズがロンドン・マーキークラブで初のライブを行った事を記念して「ローリング・ストーンズ記念日」、1996年に腸管出血性大腸菌 O157による食中毒で9523人が罹患、児童3名が死亡した堺市学童集団下痢症を風化させない事を目的に「O157堺市学童集団下痢症を忘れない日」、2013年に「日本ケーキデコレーション協会」が設立された事で「デコレーションケーキの日」、「7(ナ)1(イ)2(フ)」の語呂合わせで「洋食器の日」となりました。
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