グリフィンの飛翔〜聖獣からみた文化交流〜と言う本を、タイトルに惹かれて手にすることにしたのニャ。
グリフィンの周辺には、どうもユダヤとかイスラエルの匂いを感じていたからニャ。
本書にはその手掛かりが期待できそうに、感じ取れたのニャ。
予感は的中したニャ。
グリフィンと聖書のケルブとの関係が考察されていたのニャ。
ケルブとはケルビムの単数形ニャ。
ケルビムって何と言う人には、神輿に乗っている鳳凰みたいなものと言えば、あたらずといえども遠からずというところニャろね。
実際、神輿を見て聖書に出てくるアークを連想するユダヤ人は多いそうニャ。
二本の棒で担がれる金色の箱に羽根の付いた金色の造形物が載っていると言えば、ユダヤ人にとってはアーク以外にあり得ないと思ってたものの、イメージ通りのものが日本にあるわけですから、驚くのも無理はないニャね。
ケルブは、聖書ではたいてい複数のケルビムとして登場するニャ。
筆者がケルビムとグリフィンの関係を疑ったのは、ケルブ、ケルビムをスフィンクスと同一視する説が一般的となりつつあるからだと、指摘してるニャ。
実は、聖樹との結びつきはグリフィンもまたスフィンクスに負けず劣らず深いものがあると言うのです。
ケルビムは、大事なものを一対で守ると言う役割があるニャ。
そしてケルビムには、大きな翼があるニャ。
聖書に出てくる神殿の記述では、ケルビムとナツメヤシと開いた花が一つの組となって現れるのニャ。
前7〜8世紀のフェニキアの象牙細工には、グリフィンとナツメヤシと開いた花と一つの組となってしばしばみられるが、スフィンクスとナツメヤシと開いた花と一つの組もよくあるそうニャ。
つまり、グリフィンとスフィンクスは同じ役割や機能を持ち、交代可能な存在だったと言うのニャ。
そう言えば、グリフィンとスフィンクスの境目は、獅子頭のグリフィンによって結構あいまいになっているのニャよ。
グリフィンには、基本的には鷲頭と獅子頭の二つのパターンがあるニャ。
実際には蛇頭も入れて三つと言うべきかもしれないけど、蛇頭はなぜか廃れ、鷲頭と獅子頭の二つが残ったのニャ。
ここで注目したいことは、グリフィンに魔人的な描像があり、スフィンクスにも人頭のパターンがあることニャ。
グリフィンの描像に出てくるキャラクターは、鷲と獅子と人と蛇の四つ、ここに注目してニャ。
一方でケルビムの描像に出てくるキャラクターも四つ、鷲と獅子と人と牛ニャ。
蛇と牛が入れ替わっているほかは、ほとんど同じなのね。
グリフィンもまた、大事なものを守る大きな翼をもった存在ニャ。
確かによく似ていますよね。
さらにグリフィンは車をひく役割があったりするニャ。
ケルビムも車輪と深い係わりが聖書に記されているニャ。
筆者はケルブの役割は、神の下僕であると同時に神を乗せる乗り物であったと推察しているニャ。
面白いことに、ローマ時代になるとシリアやパレスチナ周辺でグリフィンと一つの車輪という図像が突然現れると言うのニャ。
これらのことから、ケルビムの正体とはグリフィンであったのではないかとして、考察を締めくくっていくのニャ。
詳しい説明は本書を読んでいただくとして、私の気になった箇所は実は別の所ニャ。
グリフィンもケルビムも、神を乗せる役の神の下僕である、どちらも四つのキャラクターで表現されうる、ここでピンとくる方もおられるかもしれないニャね。
そう、神の玉座にして戦車であるメルカバーなのニャ。
筆者がカッバーラを知っているわけがないので、この点を指摘してくるとは最初から期待はなかったニャ。
だが、この重大な類似に気付き、指摘してくださっていることには大いに感謝だニャ。
ケルビムとグリフィンとスフィンクスは、メルカバーであったのではないかと示唆してくれたわけニャからね。
本書の言及している地域に詳しい方、これらの地域のユダヤ人の足跡を探ってみないかニャ。
興味深いことがわかってくるかもしれないニャ。
なお、本書にはまだまだ興味ひかれる記述があるけど、気になる方は御自身で手に取ることをお勧めだニャ。
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