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2017年01月08日14:10

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東京の埋立地

 私のジョギングコースの一つが夢の島公園。江戸の初めから埋め立てによって土地が拡張されてきたのが東京の歴史だと言ってしまえばそれまでだが、居住地確保と膨大な家庭ゴミの処理場確保が埋め立ての目的だった。ゴミ捨て場だった埋立地がオリンピックの大半の会場になるというのも不思議なものである。ゴミ捨て場だったことを払拭するためか、埋立地の地名はどれも優雅で明朗。青海(東京湾埋立地13号地)、有明(東京湾埋立地10号地)、夢の島(東京湾埋立地14号地)、そして若洲(東京湾埋立地15号地)。
 これらの中から夢の島を取り上げてみよう。夢の島はゴミを埋め立てた人工島と思われている。だが、初めからゴミ処分場として埋め立てられたのではない。昭和初期に「東京港修築事業計画」が立てられ東京湾の土砂を取り除き、大型船に対応する事業がスタートしたが、取り除いた土砂を使って埋め立て地を造成し、飛行場にしようとした。その名は「東京市飛行場」。昭和13年に正式決定した空港は、総面積は約251ヘクタール。東京ドーム54個分。当時の羽田空港が53ヘクタールだから、当時としては世界最大級。羽田空港の隣接地は工場地帯になると想定されていて、飛行機が大型化する中でより広大な空港が求められていた。昭和14年起工式が行われ、埋め立てが始まるが、日中戦争勃発で物資が不足し始め、工事は滞った。戦後、GHQが羽田空港を拡張・整備する方針を示したことで、新空港計画は完全に消滅。
 空港が予定されていた頃の「夢の島」はまだ「江東区南砂町地先」という仮の名前しかなかった。昭和22年夏、「南砂町地先」に海水浴場がオープン。目指すはハワイのような夢のあるリゾート。この海水浴場の名前が「夢の島海水浴場」。だが、開設からわずか3年で閉鎖。度重なる台風被害と財政難がその理由。東京湾に残っていた最後の本格的海水浴場「夢の島」は、その名前を残したまま姿を消した。
 東京湾へのゴミ捨ては江戸時代から続く長い歴史がある。最初にゴミ処分場となったのは永代島。現在の門前仲町の富岡八幡宮のあたりだという。その後、越中島などの低湿地帯にも広がっていった。大正時代には、現在の小石川や本郷、麻布、赤坂、神田、日本橋などにも処分場があったが、次第に東京湾がゴミの埋め立ての中心地となっていく。
 しばらく放置されていた夢の島は、昭和32年にゴミの処分場になる。それまでは8号埋め立て地(現在の江東区潮見)が処分場だったが、それが満杯になり、新たな場所として選ばれたのが夢の島。その夢の島の名前が一気に有名になったのが昭和40年6月。江東区南部でハエが大発生。その発生源が、夢の島のゴミ。大量の薬剤をまき、重油をかけてゴミを焼いた。その後、東京都のゴミの大半が集まることに対して江東区が反発。都内各地に清掃工場を建設することが決まった。

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(夢の島熱帯植物園)

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(夢の島熱帯植物園)

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(第五福竜丸展示館)

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(夢の島マリーナ)

 14号埋め立て地と呼ばれた夢の島が満杯になると、15号の一部が次の埋め立て地となった。当時は「新夢の島」と呼ばれていたが、今では東京ゲートブリッジのたもとにある若洲海浜公園となっている。現在ゴミの最終処分場となっているのは東京湾にぽっかり浮かぶ中央防波堤埋め立て地で、つい最近まで世間を賑わしていた東京オリンピックのボート・カヌーの会場。この中央防波堤は正式な帰属が定まっておらず、江東区と大田区がそれぞれ帰属権を主張している。

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