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2016年10月18日00:24

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10月18日の日記

今日の出来事:1561年−第四次川中島の戦い:八幡原の戦い、1570年−志賀の陣:宇佐山城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:畑谷城の戦い、1868年−会津戊辰戦争:堀粂之助自刃、1889年−大隈重信遭難事件、1958年−アメリカでのブームを受け、フラフープが日本で販売開始、1967年−イギリスのモデル・ツイッギーが来日し、ミニスカートブームが起こる

今日は、第四次川中島の戦い:八幡原の戦いです。第四次川中島合戦は「八幡原の戦い」とも言い、第一次から第五次にわたる「川中島の戦い」の中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出しました。北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていました。長尾景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たしました。長尾景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許されました。大義名分を得た長尾景虎は関東へ出陣しました。関東の諸大名の多くが長尾景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がりました。北条氏康は、小田原城に籠城しました。長尾景虎は小田原城を包囲しましたが、守りが堅く攻めあぐねました(小田原城の戦い)。北条氏康は、同盟者の武田信玄に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻しました。川中島に海津城を築き、長尾景虎の背後を脅かしました。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、長尾景虎は小田原城の包囲を解きました。長尾景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げました。関東制圧を目指す上杉政虎にとって、背後の信越国境を固める事が必要でした。武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要がありました。上杉政虎は越後国を発向し、善光寺を経由して妻女山に布陣しました。これに対する武田方は茶臼山で対陣しました。上杉政虎は善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残しました。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡って善光寺平南部の妻女山に陣取りました。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対していました。武田信玄は、海津城の家臣・高坂昌信から上杉政虎が出陣したという知らせを受け、甲府を進発しました。武田信玄は、兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙しました。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となりました。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、川中島の八幡原を横断して海津城に入城しました。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける大規模な別働隊の編成を献策しました。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦でした。これは啄木鳥が嘴で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ている事から、「啄木鳥戦法」と名づけられました。10月17日深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、武田信玄が率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣しました。しかし、上杉政虎は海津城からの炊煙がいつになく多い事から、この動きを察知しました。上杉政虎は一切の物音を立てる事を禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川の対岸に渡りました。上杉政虎は、甘粕景持に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えました。上杉政虎自身はこの間に、八幡原に布陣しました。1561年10月18日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、武田信玄が率いる武田軍本隊は愕然としました。上杉政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、入れ替わり立ち替わり次々攻撃する陣形。いわゆる波状攻撃)で武田軍に襲いかかりました。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟・武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなどし、劣勢となりました。山本勘助は己の献策の失敗にる全軍崩壊の危機に、死を決意して敵中に突入しました。奮戦して13騎を倒しましたが、柿崎景家の手勢に取り囲まれ、坂木磯八、萩田三与兵衛、吉田喜四郎、河田軍兵衛らに八方から槍を撃ち込まれ、落馬したところを坂木磯八に首を取られました。武田信繁は、信玄の弟で「典厩」と呼ばれました。常に副将として兄・信玄を補佐していました。信玄は信繁の死体を抱くと号泣した言われ、上杉謙信らからもその死は惜しまれました。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、信玄の長男・義信が謀反を起こす事はなかったと言われています。真田昌幸は次男に「信繁」と名づけました。これが、後の真田幸村です。諸角豊後守虎定は、武田信繁の幼少期に傳役をつとめた老将でした。武田信繁が討死の報を受け、上杉軍に突入して討死しました。初鹿野源五郎忠次は、「上田原の戦い」で信玄の身代わりとなって討死した初鹿野伝右衛門高利の子です。武田信玄の嫡男・義信が包囲された時、身代わりとなって討死しました。乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に上杉政虎が斬り込みをかけました。愛馬・放生月毛に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げた上杉政虎は床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけました。信玄は軍配でこれを凌ぎましたが、肩先を負傷しました。しかし、武田信玄の供回りが駆けつけたため、惜しくも討ちもらしました。これが、武田信玄と上杉謙信の一騎討ちとして有名な場面となります。上杉政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房が率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行しました。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着しました。予定よりかなり遅れましたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となりました。形勢不利となった上杉政虎は、兵を引いて犀川を渡河して善光寺に退き、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いた事で合戦は終わりました。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げました。この戦いによる死者は、上杉軍が3000、武田軍が4000といわれ、互いに多数の死者を出した激戦となりました。武田信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、上杉政虎も首実検を行った上で越後へ帰還しました。一般にこの戦いは「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされています。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しています。ただ、武田軍は最高幹部級の副将・武田信繁、諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいない(上杉軍では荒川長実・志田義時などが討ち取られている。)ため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もあります。しかし上杉側の被害も甚大であり、直後の関東出兵では後北条勢を相手に思うような戦いが出来ずに苦戦をします。いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではありませんでした。

次に、志賀の陣:宇佐山城の戦いです。1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、征夷大将軍に就ける事に成功しました。これにより、室町幕府は一時的に再興される事になりました。将軍の後見人となった織田信長は、朝倉義景との対立を深め、1570年に越前へ侵攻しました。しかし、義弟・浅井長政が朝倉方に付いた事により撤退しました「金ヶ崎の退き口」。この2ヶ月後に「姉川の戦い」で、浅井・朝倉連合軍に打撃を与える事に成功しました。一方、足利義昭と敵対していた三好三人衆は、摂津の野田城、福島城に拠って挙兵しました。織田信長は天王寺に出陣し、付け城を築くと共に香西佳清と三好政勝を寝返らせて有利に戦いを進めました。しかし、石山本願寺法主・顕如が蜂起した事により、戦況は予断を許さなくなり、信長は摂津戦線に釘付けにされる事になりました「野田城・福島城の戦い」。こうして摂津戦線で信長が釘付けとなっている事で、浅井長政と朝倉義景が手薄な琵琶湖西岸を南下した事により、「志賀の陣」は始まりました。琵琶湖西岸方面で織田方の重要拠点は坂本の南にある宇佐山城で、森可成ら1000人余りが守っていました。森可成は浅井・朝倉勢接近の報を聞き、500の兵を率いて宇佐山城の北、坂本口に出陣して周辺の街道を封鎖し、志賀や穴太に伏兵を配して小競り合いを行って勝利を収めました。その後、信長の弟・信治、近江国衆の青地茂綱など2000の兵が救援として駆けつけました。しかし、18日に顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も攻め手に加わり、西の僧兵と北の浅井・朝倉軍ら総勢30000の兵から挟み撃ちを受けた森可成、織田信治、青地茂綱の3将は奮戦しました。先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘しましたが、浅井対馬・玄蕃の2000に側面から攻撃を仕掛けられ、朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加えて浅井長政の本隊もこれに加わったため、ついに崩れて3将は討死しました。主将を失った宇佐山城は連合軍の攻撃を受けましたが森可成の家臣・各務元正、肥田直勝などが中心となって抗戦し、落城は免れました。代わりに大津の馬場、松本を放火し、山科まで焼き払いました。近江の情勢を知った織田信長は、浅井・朝倉連合軍との対決を優先し、摂津から織田軍主力を撤退させます。その間、宇佐山城は坂本で連合軍の猛攻を受けていましたが、森可成の家老・各務元正らが城兵を指揮して頑強に抵抗し、浅井・朝倉連合軍に死者1000名以上が出ました。織田信長が宇佐山城に入城すると、浅井・朝倉連合軍は壺笠山城や比叡山などに封じ込まれました。その後、信長は延暦寺の僧を呼び寄せ、山門領の返還を条件に懐柔を試みましたが、これを受け入れませんでした。これが「比叡山焼き討ち」を起こす原因になります。

その次に、関ヶ原の戦い:畑谷城の戦いです。上杉景勝を討伐するため軍を起こした徳川家康が、石田三成の挙兵により、下野・小山から急遽引き返してしまいました。そのため、上杉領侵攻の米沢口を任されていた最上義光は、孤立無援の状態に陥ってしまいました。これを見た直江兼続を総大将とする2万数千の上杉軍が、六方向から最上領へ侵入してきました。直江兼続が率いる本隊1万8千は、片倉山に本陣を敷くと畑谷城に対峙しました。畑谷城は、城将・江口光清、嫡子・小吉、甥・忠作など500名が守備していました。江口光清は、斯波頼宗の長男として摂津国で生まれ、最上義光に仕官しました。始め道連と名乗っていましたが、戦功により最上義光から一字を賜り、光清と名乗りました。江口光清は、最上義光から山形へ撤退を命ぜられましたが、撤退を拒否しました。そして、戦闘に耐える事の出来ない老若婦女子等は若木方面に避難させ、討死覚悟で籠城を選びました。最上義光は、山形から矢柏直家、飯田播磨守、富並忠右衛門らを、畑谷城へ向かわせました。直江兼続は降伏勧告が拒否されると、上杉の大軍勢を動かしました。上杉軍の方針は、第一に片倉山より本隊が鵜川下流に沿って進軍。第二に遊撃隊が、馬引原より一本木峠を通って簗沢方面を攻略し、これにより畑谷城を包囲殲滅しようとしました。先ず上杉軍本隊は、川の水を堰き止め畑谷盆地一帯を湖水にさせていた鵜川の堰を決壊させる事に成功し、畑谷城へ正面攻撃を仕掛けました。しかし水が引いたとはいえ、ぬかるんだ地面に足を取られた上杉軍は、高所より鉄砲などで撃ちかけられ、多大な被害を出して一旦撤退しました。一方、簗沢方面の遊撃隊は判屋方面から簗沢へ侵入し、民家に火を放ちながら進撃を続けていました。そして簗沢楯の寒河江外記がすでに最上義光の命に従い城を明け逃げしていた為、抵抗無く簗沢楯を占領しました。畑谷城の搦め手で東方に位置する尖り森を確保しました。ここは畑谷城本丸より比高が高く、城全体を見渡せる位置にありました。こうして10月18日、上杉軍による総攻撃が仕掛けられました。18000対500の戦いは、4時間ほどの戦闘で決着しました。江口光清は大手門を開いて敵中へ突入しました。城兵は次々に討ち取られ、「今はこれまでぞ、雑兵の手にかゝるな」と城内に立ち帰り、自刃して果てました。そして嫡子・小吉や甥・忠作ら500名の畑谷城に籠城した者は皆、玉砕したのでした。一方、山形城からの援軍は進軍途中で畑谷城落城の報を聞き、引き返そうとしましたが、矢柏直家、飯田播磨守の2人は落人を助けようとそのまま畑谷城へ向かいました。そして20町進んだ所で、山形目指し逃げてくる城中の男女や近隣の住民と、それを捕らえようと雲霞のごとく追撃してくる上杉軍を発見しました。そのため、飯田播磨守は矢柏直家に落人らを任せると自らは殿を務めるために、ここに踏みとどまり上杉軍を引き受けました。そして2、3町ほど押し返しましたが、大勢で前後から攻められて討たれました。矢柏直家はそれを聞くと、引き返して敵軍へ突撃しました。一族郎党と共に決死の覚悟で周囲の敵を蹴散らすと、奪われた飯田播磨守の首を取り返し、落人らを先に立たせて山形へと引き返しました。この畑谷城落城と江口光清以下全将兵玉砕の報は、山形城の最上方を震撼させ、この直後に始まる「長谷堂城の戦い」での激闘となるのです。

その次の次に、会津戊辰戦争:堀粂之助自刃です。会津藩士・堀粂之助は、会津若松城が包囲された時、吉村寅之進と共に主命で城を脱出して、米沢藩に援軍要請に行きました。しかし、拒絶されて使命を果たせなかった事を恥じて、米沢東町「越後屋」の主人に金子を与えて後事を託すと切腹しました。亨年31歳でした。吉村寅之進は、仙台藩に向かいました。

最後に、大隈重信遭難事件です。大隈重信を襲撃した来島恒喜は、福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれました。中江兆民に仏語を学び、筑前共愛公衆会や、頭山満の率いる玄洋社に参加しました。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介、竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党の金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合いました。その後、大隈重信の条約改正案に反対し、玄洋社を退社しました。1889年10月18日、大隈を暗殺するため、外務省からの帰路にあった大隈重信に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけて右足切断の重傷を負わせました。来島恒喜は爆弾が炸裂すると同時に、その場で短刀で喉を突いて自害しました。享年31歳でした。この事件によって大隈の条約改正案は破棄されました。来島恒喜の死後、後の首相となる広田弘毅の父・徳平により、墓碑が作られました。大隈重信襲撃には月成功太郎(広田弘毅の岳父)も計画に加わっていました。二人で襲撃する予定でしたが、老母・妻子を持つ月成功太郎の身を考え、欺いての来島恒喜の単独襲撃でした。

今日の誕生日:後白河天皇(第77代天皇)、朱子、吉永正人、くろさわ博(ヒロシ&キーボー)、三ツ矢雄二、郷ひろみ、マルチナ・ナブラチロワ、金剛地武志、湯江健幸、安原麗子、柳想鐵、蜷川実花、ジョン・ボルドウィン、金子昇、京野ことみ、川村ひかる、森泉、柴本幸、仲里依紗、能條愛未(乃木坂46)

今日の記念日:世界メノポーズデー、統計の日、冷凍食品の日、木造住宅の日、ドライバーの日

今日の「今日訓」:本日は、1870年10月18日に、現在の「生産統計」の起源となった府県物産表に関する太政官布告が公布された事で「統計の日」、1999年の「国際閉経学会」で21世紀を目前に高齢化社会の到来を受け、今後更年期の健康に関わる情報を全世界へ提供する日として「世界メノポーズデー」、冷凍の凍(10)と、冷凍食品の標準管理温度がマイナス18℃であることから「冷凍食品の日」、住宅の「住」を読み替えると数字の「十」に、漢字の「木」を分解すると数字の「十」と「八」になることから「木造住宅の日」、「ド(10)ライ(1)バー(8)」の語呂合せで「ドライバーの日」となりました。
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