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2016年10月09日01:04

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書評「ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点」  PART5

関東軍の7月再攻勢。

関東軍は何故敗北したのか?
地形の制約が大きく、しかも兵站支援が適切ではなかったことがその一因である。しかし主要な敗因は、5月28日の戦闘の場合と同様、やはり軍事情報取集の失敗に求められる。今回もまた敵の戦力を著しく過小視したのである。
日本軍から見たボリシェビキ思想とは人間性を欠く低級な物質主義的哲学であり、精神的な力の欠落した唾棄すべきものであった。ゆえに赤軍の士気は非常に低く、戦闘効率は極めて悪いと信じられていた。(※これ日本軍そのものであることに、自らは気が付かないのだな!)
しかしノモンハンで苦杯を舐めさせられたことにより、関東軍はこうした見方を根底から覆された。

ジューコフの第一軍集団司令部が下した評価はこれほど悩ましいものではなかったが、7月3日朝に小松原の部隊に装甲車両を無秩序に投入した彼の手法は一見稚拙なように思われた。
だが、このとき日本軍は河の合流点あるいはソ連軍側から僅か数時間の行軍距離の地点に居たのである。
迫りくる小松原の部隊に対して無制限に戦車を差し向け、しかも歩兵の支援を付けなかったことで、ミハイル・ヤコブレフ第11戦車旅団長とA・Lレゾヴォイ第7機械化旅団長は目もくらむような規模の損傷を受けた。しかし兎も角も小松原部隊の南下を阻止して防御に転じしめ、攻撃の勢いを徹底的に砕くことが出来た。
120両もの戦車・装甲車を失ったことをジューコフは認めているが、これは敗北を回避するために払わなければならない高価な代償だった。
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また明らかになったことはある。ノモンハン事件は単純な国境紛争などではないとジューコフは当初から考えており、関東軍の7月攻勢はこの判断を裏付ける結果となった。
日本側がさらなる侵攻の意図を秘めていることは明白であると、ソ連側は考えた。
ソ連の最高指導部もジューコフの判断に同意した。同時にソ連政府は、増援兵力を送ることを決めた。何万もの人員と機械が、多くは欧州・ロシアからモンゴルに送られた。

ハルハ河東岸にはまだ小松原の第23軍師団長と将校が居た。
彼らは敗北を受け入れるつもりなぞなかった。
彼らは日本軍歩兵の得意とする夜間戦術が解決のカギになるだろうとの結論に達した。
夜間ならばソ連軍の装甲車両や火砲の効力も最小に抑えられ、日本の歩兵が肉薄攻撃を仕掛けて優位を獲得できると考えたのである。

7月7日午後9時30分、日本軍の砲兵が30分に渡り弾幕を張り、小松原の第64及び72連隊による薄暮攻撃がそれに続いた。
ソ連軍歩兵第147連隊とモンゴル軍騎兵連隊は不意を突かれハルハ河の方向へ後退、反撃に備えて再集結した。両軍とも増援兵力を投入し、激烈な白兵戦を演じた。
日本軍が後退する場面もあったが、最終的には前進できた。
この戦闘でソ連軍第147連隊長I・Mレミゾフ少佐が戦死している。レミゾフは勇敢に闘った功績を称えられソ連邦英雄に列せられ、その指揮所はレミゾフ高地と名付けられた。

日本軍は7月7日から12日まで夜襲を続行、ソ連軍陣地の各地点に攻撃を加えた
他方ソ連軍は攻撃を看破し、抵抗を強めていった。
戦闘の規模は小さいが激しさはすさまじく、何れの側も死傷者が増すばかりだった。
暗がりでは日本軍の大胆な行動と銃剣が効果を発揮し優勢を占めることが出来たが、夜が明けると、日本軍の前進陣地、取り分け前夜にソ連軍から奪取した陣地は、たいていの場合、激烈な砲撃の餌食となった。
このように「一歩前進、二歩後退」の戦いが繰り返されたのだが、日本は夥しい犠牲を払いながらもジリジリと前進していった。だが最大の問題はソ連の圧倒的な火砲に対抗する火砲支援がないことだった。
ソ連の砲兵や戦車兵が見下ろすことのできる位置に陣地を置いてそこに留まれば、日中に殺害されてしまう、したがって日本軍歩兵隊長は、昼間はハルハ河から離れた高地まで兵を後退させ、夜まで潜伏せねばならなかった。
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関東軍はソ連とモンゴル軍の「侵略者」を撃退すべく軍事行動を起こしたのだが、7月11日と12日の戦闘で峠を越えたと言えよう。
小松原は夜襲の中止を決定。夜襲は歩兵部隊に大打撃を与えた。例えば第64連隊はこの日の夜だけで80〜90名の戦死者を出し、負傷者はその3倍に達している。

関東軍は7月9日にようやく強力な砲兵部隊を新たに投入することを小松原に伝えた。
砲兵の集中砲撃により、ソ連軍の重砲と装甲車両を無力化し、ハルハ河まで歩兵を進め、侵略者を駆逐して戦いを勝利に導くというものである。

7月第3週までに日本軍はノモンハン地区に86門の重砲を集中させた。
100mm加農砲と120mm及び150mm重砲、120mm、150mm榴弾砲である。
この砲兵団は関東軍砲兵司令官の内山英太郎少将が指揮することになっていた。

内山は1週間に渡り毎日1万5千発を発射することでソ連軍を制圧しようとした。
日本軍は第一次大戦での塹壕戦や大規模砲撃戦を経験しておらず、これほどまでの弾量を投入するのは、彼らにとって未曽有の出来事だった。
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他方、ソ連第一軍集団にも増援兵力と補給物資が続々と送られた。新たに2個砲兵連隊が増派されたほか、何千トンもの砲弾が届いた。

7月23日朝、日本軍砲兵隊が轟音とともに制圧射撃を行い、友軍の歩兵から歓呼の声が沸き起こった。
ソ連軍はほどなく応撃を開始、火と剣の嵐がハルハ河を間に挟んで行きつ戻りつを繰り返した。

砲撃戦は激烈の度を増した。
日本とソ連の砲兵はもろ肌を脱ぎ、汗みずくとなっていた。
日本軍はソ連軍の発射速度が全く落ちないどころか、たちまちにして日本砲の発射速度に追いつき、あまつさえこれを凌駕したことに衝撃を受けた。
朝の内は何の動きも無いようにみえていたが、実はハルハ河西岸(ソ連軍陣地)は、東岸(日本軍陣地)より高く(20〜50m高い コマツ台地ともいう)
ソ連の砲兵は日本軍に砲弾を雨あられと浴びせることが出来た。
さらに高所にいることで効果を確認し、より射撃精度を上げることが可能だった。
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日本軍は現代的な戦争において対砲兵射撃を経験したことが無かった。また関東軍第二飛行集団は戦場上空の制空権を失い、地上軍はソ連空軍機の機銃掃射を浴びる羽目になったのである。
尚、23日の砲撃戦について日本砲兵将校によると、日本軍が発射した砲弾が1万だったのに対して、ソ連軍は3万発であったと推定している。
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砲撃は夕刻には下火になったが、翌朝24日には前日よりも激しさを増した。
砲撃戦の2日目にソ連軍の弾薬は払底すると日本軍は見ていたが、期待は裏切られた。
ジューコフは夜間に、火器とおびただしい量の弾薬を後方(タムサクプラグ)から集めていたのである。
この日、ソ連軍の砲撃は発射速度と規模、精度のすべてで日本軍を圧倒した。
日本の砲兵に衝撃が走った。
小松原の歩兵部隊は既に惨苦を舐めてきたが、それまでに経験したことのないほどの激烈な砲撃を、さらに耐え忍ばなければならなかったのである。

砲撃戦3日目の25日にはソ連軍が優位に立っていることが歴然となった。
弾薬が無尽蔵にあるだけでなく、攻撃の精度、とくに対砲兵射撃の精度が向上したように思われた。

白兵戦では闘争心が成否を左右する。しかし砲撃戦では砲の容量と重量が物を言う。
日本側が砲撃戦で成功を収める可能性は、初めからなかったのだ。
第一に弾薬が少なすぎた。このような作戦経験のない日本軍は、いったいどの程度の弾薬が
必要なのかが分からなかった。
関東軍は保有する火砲弾薬の70%をこの作戦に振り向けたが、その三分の二が最初の2日で消費された。
日本側の発射速度が下がったのに対して、ソ連軍は逆に速度を上げて行った。

日本の砲兵は、加農砲については約5500m以上、榴弾砲については約4600m以上先の
目標を射撃する訓練をあまり積んでこなかった。
しかしソ連軍重砲は複数の線に配置され、日本陣地に最も近い砲でも7000mから9000m離れていた。
この線の背後には別の砲が置かれ、なかでも152mm砲は1万2000m〜1万3500m離れた場所から日本軍の放列を攻撃出来たが、日本の砲では狙う事すら出来なかった。
日本の砲兵連隊長の一人は、1万6500m離れた場所からソ連の152mm加農砲の攻撃を受けたという。
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加えてソ連軍砲兵隊指揮官は5月からこの地区での任務に就いているものがおり、彼らはハルハ河東岸を知り尽くしてした。
標定技術も優れていたが、それだけでなく、標的となりうる地点を選んで事前に距離測定をしていた。この地区はまるでソ連軍の広大な試射場のようだと感じた日本の将校もいる。

7月25日、砲撃戦3日目になると、第23師団の歩兵将校の一団が小松原中将に対し、砲撃を中止出来ないか?と恥を忍んで尋ねた。
砲兵が攻撃すると、近くにある歩兵陣地に対し、ソ連軍が間断なく応射を加えてくるからである。
関東軍司令部も同様の結論に達した。
物力では赤軍と互角に渡りあえないことを思い知らされたのである。

7月25日、関東軍は陰鬱な空気の中で砲撃の中止を決め、不名誉な失敗を重ねた。

7月の戦闘の結果を評価した東京の参謀本部と陸軍省は、ノモンハンで軍事的勝利を求める事の労多くして功少なきことを認めざるをえず、外交的解決を模索する方向へと転換した。
しかし関東軍は激しく反発した。
そもそもそのような交渉は日本側の弱さを示すものであると受け止められる可能性があるというのが、その理由である。
関東軍は
「ソ連側の受けた損害も大きく、第二次戦は『引き分け』と強弁して、一歩も引かぬ気構えを見せた」

戦局の見通しと方針において、参謀本部と関東軍の間に相違があることは明白だったが、軍中央がその方針を満州の現地軍に実践させることが出来なかったとうことも、またはっきりしていた。
軍の上層部では、下剋上が関東軍に巣くっており、参謀本部との関係を蝕んでいるとの説が席巻したのである。

以下、関東軍と参謀本部との権力闘争の裏面にて、スターリンとヒトラーの外交駆け引きに翻弄された日本が続きます。


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