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2016年10月05日00:50

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10月5日の日記

今日の出来事:1567年−休松の戦い、1864年−野根山二十三士の殉難 、1868年−仙台戊辰戦争:第三次駒ヶ嶺攻防戦、1868年−秋田戊辰戦争:扇田の戦い、1943年−関釜連絡船「崑崙丸」が米艦の雷撃を受けて沈没、衆議院議員2人を含む544人が死亡、1980年−山口百恵の引退コンサートが日本武道館で行なわれる

今日は、休松の戦いです。休松の戦いは、九州筑前国で起きた大友氏と秋月氏の合戦です。1559年に秋月氏当主・秋月種実は、毛利氏の支援を得て筑前国秋月・古処山城に復帰しました。秋月種実の父・文種は勢力拡大を続ける大友氏に抵抗したため、大友軍に攻められて「古処山城の戦い」で無念の自害を遂げました。古処山城に戻った秋月種実は、勢力を拡大させると大友氏との対決姿勢を出しました。秋月種実は、高橋鑑種の謀反に同調して反乱を起こしました。1567年、大友宗麟は戸次鑑連(後の立花道雪)、吉弘鑑理、臼杵鑑速らに兵20000を与えて秋月領に侵攻させました。秋月に迫った大友軍は、まずは支城である邑城を攻略しました。その後、更に進軍した大友軍は休松城の攻略を開始しました。休松城は、大友勢の猛攻の前に落城し、守将・坂田諸正は自害しました。休松城周辺に布陣した戸次鑑連は一気に古処山城を落とそうと画策しましたが、古処山の守りが堅く、戦線は膠着状態に陥りました。そこへ、中国地方の毛利氏が九州へ進出するとの急報を受けました。これを聞いた大友氏傘下の豊前・筑前・筑後の国人衆は動揺し、自領に引き上げてしまいました。この状況を憂慮した大友宗麟の指示を受け、大友軍は撤退する事になりました。10月4日午前、大友軍は休松の陣を引き払って撤退を開始しました。復讐の念に燃える秋月種実はこの情報を知ると、全兵力12000を四手に分けて、戸次鑑連軍へ攻撃を行いました。名将・戸次鑑連も反撃を開始、配下の勇将・小野鎮幸、由布惟信、一族の戸次鎮連らとともに猛攻を加えました。秋月勢は十時惟忠を討ち取りましたが、陣を固めていた大友軍の反撃によって蹴散らされ、多くの死者・負傷者を出して撤退しました。しかし、夜半に風雨が強まる中、秋月種実は夜襲を決行しました。2000の兵を率いて、臼杵鑑速、吉弘鑑理、戸次鑑連の陣に突撃しました。予期せぬ秋月勢の夜襲によって大友軍は大混乱に陥り、同士討ちを始めました。しかし、戸次鑑連は冷静にこれに対処し、敗北した臼杵鑑速と吉弘鑑理の軍を収容した後に、撤退を指揮しました。闇夜の奇襲によって大友軍は名だたる部将が討死しました。戸次鑑連の弟・戸次鑑方、一族の戸次鎮比、戸次親繁、戸次親宗、戸次親久、家臣の十時惟忠、小野鑑幸、由布惟清、綿貫吉廉が討死しました。その他、大友軍の溝口鎮生、三池親高、三池親政、三池親邦、田尻鑑永、田尻種廉、田尻種増らが討死し、全体での死者は400名以上となりました。この戸次鑑連の奮戦によって、大友軍は休松の陣からの撤退に成功しました。その後、秋月勢は筑後山隈城まで追撃を続け、大友軍は更に犠牲を強いられます。

次に、野根山二十三士の殉難です。「八月十八日の政変」以後、前藩主・山内容堂により「土佐勤王党の大弾圧」が行われ、武市瑞山(半平太)はじめ土佐勤王党の主要メンバーは投獄されました。勤王派志士らは武市瑞山の救出による体制の立て直しを企図し、各地で指導的立場に立つ者が高知城下に集結して、その方法を協議する事となりました。安芸郡の指導者であった清岡道之助は、同志が一体となって藩庁に武市瑞山の開放を迫り、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張しました。しかし大石弥太郎ら多数派は、清岡道之助の主張は過激すぎ、武市瑞山は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しませんでした。大石弥太郎らは藩庁に対して正面から嘆願書を提出しましたが、要求は受け入れられませんでした。清岡道之助と配下・門弟の併せて23名(野根山二十三士)は野根山街道の岩佐番所に武装して屯集し、武市瑞山の解放と藩政改革を訴えました。岩佐番所は土佐三関の一つに数えられる要害の地であり、かつ番頭・木下嘉久次は同志でした。目的が達せられない場合は国境を越え、海路にて京坂に向かい、「禁門の変」直後の京都で国事に尽力する計画でした。「野根山屯集」の知らせは高知城下を大いに震撼させました。藩庁はこの行動を反乱とみなして強硬策を採る事とし、大監察・小笠原唯八が率いる藩兵を派遣して鎮圧に向かいました。これに対して清岡道之助らは戦火を交える事なく阿波国へ逃れましたが、海路での逃走に失敗して徳島藩によって藩庁に引き渡されました。再び野根山を超えて田野奉行所に収容され、一切の取り調べもなされぬまま、奈半利川河原にて全員が斬首されました。清岡道之助の首は高知へ送られ鏡川河畔で三日間晒されましたが、彼の妻は遺体の首を繋ぎ合わせて葬りました。長州で清岡道之助らの殉難の報に接した中岡慎太郎は、この事件を受けて「涙をかかへて沈黙すべし。外に策なし」と土佐の同志に対して自重を呼びかける手紙を送りました。以下が野根山二十三士です。
野根山二十三士:「清岡治之助、清岡道之進、寺尾権平、柏原禎吉、柏原省三、木下嘉久次、木下慎之助、近藤次郎太郎、田中収吉、吉本培助、安岡哲馬、川島総次、檜垣繁太郎、千屋熊太郎、宮田頼吉、横山英吉、宮地孫市、小川官次、岡松恵之助、新井竹次郎、宮田節斎、豊永斧馬、須賀恒次」

その次に、仙台戊辰戦争:第三次駒ヶ嶺攻防戦です。仙台藩の駒ヶ嶺への襲撃を退けた新政府軍は、配置替えを行いました。駒ヶ嶺東の海側の今泉には熊本藩に変わって津藩が入り、要の駒ヶ嶺には長州兵、駒ヶ嶺の西には福岡藩、さらにその西方には相馬中村藩兵と東西に広く陣地を形成し、その後方に残りの部隊が補助として入りました。旗巻峠に対しては、麓の初野に鳥取藩が備えとして置かれました。また、津藩176名、四国から大洲藩が加わりました。仙台藩の攻勢は失敗に終わりましたが、再度の攻撃を企図していました。その作戦は先日と同じく3部隊に分かれて駒ヶ嶺を正面左右から圧迫し、さらに旗巻峠からの攻撃も加えて新政府を潰走させようというものでした。雨天の中を仙台藩3部隊が前進を開始しました。仙台藩左翼、海側の部隊は鈴木直記、茂庭三郎に率いられて今泉北の釣師浜を通過、今泉の新政府軍へ向けて攻撃を開始しました。今泉を守っていたのは津藩でしたが、防衛線の広さと後背が沼地になっている地の不利もあって仙台藩兵に対して防戦一方となりました。津藩の孤軍苦闘は続きましたが、午後3時に増援されたばかりの大洲藩が到着、さらに西の駒ヶ嶺方面から長州藩が援軍を回したために一挙に新政府軍が優位となり、仙台藩兵は今泉の攻略を諦めて釣師浜へ向けて退却を始めました。新政府軍は後退する仙台藩兵を追撃しました。海側の仙台藩兵が受けたこの日の被害は、壊滅的なものでした。駒ヶ嶺へと向かった仙台藩の中央部隊は仙台藩兵と旧幕府の「陸軍隊」によって構成されていました。旧幕臣の春日左衛門が率いる「陸軍隊」は単独で前進し、新政府軍の前哨陣地を一蹴すると、追走してきた仙台藩・今井虎太郎の部隊とともに駒ヶ嶺本陣へ向けて攻撃を開始しました。だが、この駒ヶ嶺本陣に籠もっていたのは長州藩で、新政府の戦力でもっとも精強な部隊でした。さらには新政府軍に増援として岩国藩が加わって、その守りは万全となって「陸軍隊」と仙台藩今井隊のみでは攻略が不可能となっていました。しかし、仙台藩の後続の部隊は駒ヶ嶺西側の攻防に参加し、その上防戦一方となっていたために「陸軍隊」と今井隊への増援は見込めず、両隊は駒ヶ嶺の攻略を断念して退却しました。駒ヶ嶺西側の陣地を守備していたのは福岡藩でした。仙台藩の中央部隊の大半が西側陣地攻略に動いており、大軍を相手にする事になりました。福岡藩は奮戦し、かろうじて戦線を維持しながら周囲の部隊へ援軍を要請しました。長州藩の一部と広島藩が来援し、仙台藩兵を撃退しました。仙台藩兵を退けると、長州藩と広島藩の部隊はその陣地に留まる事なく移動を続け、さらに仙台藩兵の横に出て側面への攻勢に移りました。仙台藩は駒ヶ嶺本陣に向かわせる予定だった後発5小隊も西側に回しましたが、新政府軍の攻勢を抑える事はできず、押されるがままに東へと後退を始めました。仙台藩兵は新地まで押し返されると、北方へ退却するしかありませんでした。この際、新政府軍の1部隊が海岸線の部隊の援護に向かい、大戸浜にあらわれて海岸線部隊を壊滅させました。仙台藩の西側の部隊は伊達勝三郎、金須内蔵之丞に率いられ、曹善堂方面に攻勢をしかけました。新政府軍で守りについていたのは、福岡藩と相馬中村藩であり、少数で広範囲に散開して偵察にあたる相馬中村藩の背後には熊本藩が詰めていました。接敵した相馬中村藩は熊本藩への援軍を求め、熊本藩も支援のためにすぐさま相馬中村藩へ援護に向かいました。しかし、仙台藩は相馬中村藩ではなく、福岡藩方面へ兵力を傾けていたために相馬中村藩兵のみで撃退が可能で、その相馬中村藩の要望により福岡藩方面へ熊本藩兵は転進しました。仙台藩の右側面に突き刺さると仙台藩兵の戦意は衰え、午後4時には北東へ逃走しました。熊本藩と相馬中村藩の両藩はさらに中央の駒ヶ嶺への支援のために移動を開始しますが、その頃には駒ヶ嶺の仙台藩兵はすでに敗走中であり、曹善堂方面の新政府軍はこれ以上の戦闘をする事なく引き上げました。旗巻峠の仙台藩守将の鮎貝太郎平は、駒ヶ嶺の部隊から強く要望されたにも関わらず、派遣した部隊は2小隊のみでした。旗巻峠にはアームストロング砲が備わっていましたが、これは仙台藩の洋化部隊である「額兵隊」から無理をいって借り出したものでした。仙台藩は旗巻峠から砲撃しつつ、2小隊を曹善堂方面に進出させましたが、成果はありませんでした。派遣された2小隊は佐藤宮内が率いる部隊が鳥取藩兵を後退させるなど奮戦しましたが、弾薬が尽き果て旗巻峠に引き返しました。こうして、第三次駒ヶ嶺攻防戦は仙台藩の敗北に終わりました。この戦いでの戦死者は新政府軍が12名に対して、仙台藩は98名にもおよびました。

その次の次に、秋田戊辰戦争:扇田の戦いです。楢山佐渡が率いる盛岡藩兵は3000名の兵で秋田へ侵攻してきました。十二所の本道・米代川右岸・山手の3方面から攻勢をかけ、特に本道では楢山佐渡本人が指揮をしていました。秋田側は扇田神明社に陣地を構築していましたが、総撤退となりました。盛岡側は「神明社畷における敗戦は、村人の密告による秋田勢の急襲」と断定し、扇田村に火をつけました。扇田村は寄郷市川を含め400戸のうち、徳栄寺・寂光寺などわずか6戸を残して焼き払われました。盛岡兵は扇田村を占領しました。この戦いでただ1名の女軍夫・山城ミヨが戦死しています。山城ミヨは靖国神社女性第1号の祭神となりました。扇田村の敗戦を受けて、久保田藩は大館城近辺に将兵を集めて部隊の再編を行い、大館城を防衛しようとしました。

最後に、関釜連絡船「崑崙丸」が米艦の雷撃を受けて沈没です。「崑崙丸」は、「太平洋戦争」で最初に犠牲となった鉄道連絡船で、鉄道連絡船の就航以来、最初の大事故でした。1943年10月5日午前2時頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里付近で、アメリカ海軍の潜水艦「ワフー」の魚雷を左舷手荷物室付近に直撃を受け、数分後に沈没しました。深夜で就寝していた人が多い事も重なり、乗員655名中、死者行方不明者583人にのぼりました。関釜航路ではこれ以降、夜間航行が自粛される事になりました。また、日中の航行も海軍の護衛がつくことが多くなりました。

今日の誕生日:箕作阮甫、チェスター・A・アーサー(第20代・21代アメリカ合衆国大統領)、榎本武揚、中山義秀、浦辺粂子、ディック・ミネ、西岡徳馬、やしきたかじん、照屋林賢(りんけんバンド)、辺見マリ、山口祐一郎、渡邉美樹、黒木瞳、橋本聖子、横田めぐみ、酒井雄二(ゴスペラーズ)、ケイト・ウィンスレット、田臥勇太、吉田沙保里、栗原菊乃、重本ことり(Dream5)、黒板五郎

今日の記念日:世界教師デー、レジ袋ゼロデー、時刻表記念日、デコの日、シャツの日、レモンの日

今日の「今日訓」:本日は、1894年10月5日に、日本で初めての時刻表「汽車汽船旅行案内」が庚寅新誌社から出版されました。これは福沢諭吉の勧めにより手塚猛昌が発行したもので、列車の発車時刻や運賃の他、沿線の案内や紀行文なども掲載されていました。これを記念して「時刻表記念日」となりました。1966年に「教師の地位向上に関する勧告」が調印された事で「世界教師デー」、2002年に、ゴミ減量のために買物袋(マイバッグ)の持参を呼びかけるために制定された「レジ袋ゼロデー」、デコレーションの「デ(10)コ(5)」の語呂合わせで「デコの日」、1877年に横浜で国産のシャツが製造されるるようになった事で「シャツの日」、1938年に詩人の高村光太郎の妻・智恵子が亡くなり、亡くなる数時間前にレモンをかじる姿をうたった「そんなにもあなたはレモンを待っていた・・・私の手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」という「智恵子抄」の「レモン哀歌」にちなんで「レモンの日」となりました。
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