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2016年09月10日22:09

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左翼壊滅と時を同じくして、党内左翼のドンも死去した

加藤の乱の当時は、まだあまり政治が分かっていなかったので、なんで加藤があんなことをして、かつ失敗したのかよく分からなかった。

その後、政治の知識が深まり、日本における左翼とは実は共産主義者のことではなく、韓国系移民や中国系移民と親しい、彼らの利益代弁者であることが分かった。

反対側の右翼とは、国粋的な保守主義者のことではなく、親北派閥であることも分かった。



自民三大派閥の清和会、経世会、宏池会はそれぞれ支持基盤が異なる。

清和会は保守本流で、古くからの士族・華族や寺社や大地主を基盤としている。地盤や宗教が背景にあるので組織票が手堅い。

経世会は比較的新しい経営者や商売人を基盤としているので、実弾や利権に強く、それに連なる労働者にも顔が利きやすい。

宏池会は官僚方面に強いので、政策通が多く、外交筋にも顔が利く。



加藤の乱が起きる少し前までは、田中角栄・竹下登・金丸信の流れの経世会の後継派閥が自民内の最強派閥で、経世会は商売人の派閥なので、高度経済成長やバブルの頃は大いに羽振りが良かったが、バブル崩壊以降は徐々に弱体化していた。

勢力を失いつつある経世会から、党内の権力を奪いたいと考えていたのが他の派閥のボス達で、その中でニューリーダーと目されていて、YKKと称されていたのが山崎拓と加藤紘一と小泉純一郎だった。

この内、山崎と加藤は盟友で、共に党内左翼と言って良い存在で、自民を離党して民主党になった鳩山由紀夫は、加藤も離党して共に非自民首班指名を目指さないかと期待をかけていた。



加藤がガチ左翼かというとちょっと微妙で、反経世会ではあってもガチ左翼ではなかったので、経世会勢力を倒すために左翼寄りの政党と協議することはあっても、自身ががっつり左翼に入るというわけではなかったように見える。

反経世会なので、角栄最後の弟子とも竹下七奉行とも言われる小沢一郎とは険悪だった。

清和会も打倒経世会を目指しており、森喜朗、石原慎太郎、笹川良一ら右派の大物が打倒角栄を誓った連判状が存在するという伝説がある。

YKKの一角の小泉純一郎は森派の領袖であり、打倒経世会という目的では左派に近い加藤・山崎も、右派に近い小泉も利害が一致しているが、では党を割って左翼と合流してでもなんとしても早急に経世会を潰したいのか? というところまで行くと、加藤・山崎と小泉とでは立場が割れる。

そのため小泉純一郎ら右派の議員や、公明に近い野中広務らが梯子を外したので、加藤の乱は失敗した。

かいつまんで言えば、自民や日本を破壊するためならなんでもやって良いと思っていて革命を起こしたいぐらいの勢いの派閥と、古い大派閥を倒して取って変わりたいとは思っているが自民を破壊するところまではやりたくない派閥とで利害が割れたということ。



加藤の乱の2000年当時は、まだ中国経済はバブルには至っておらず、世界経済や日本国内における中韓派閥の力はそうまで強くはなかった。

あと5、6年待ってから乱を起こしていれば自民旧派閥はあっさり瓦解して、非自民連立政権で首相になるのは、鳩山ではなく加藤だったのではないかと思える。

加藤が首相だったら、鳩山や菅ほどは先鋭的な親中韓政治にはならず、深刻な日中韓対立やそれに起因する構造不況は起きなかったかも知れない。

全ては結果論ではあるが、経世会憎さのあまりに乱を起こす時期を見誤ったという点で、加藤は政治家としての器が足りなかったのだと思う。

小沢と対立し続けて首相になれなかった加藤と、小沢を取り込んで自民を倒して首相になった鳩山。

人としては加藤の方がまともなような気はするが、政治闘争で勝てる能力があることが政治家の器だとするならば、加藤は器量が足りなかったと言える。



■加藤紘一氏死去、77歳=官房長官、自民幹事長を歴任
(時事通信社 - 09月10日 19:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4187043
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