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2016年08月10日00:20

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8月10日の日記

今日の出来事:1554年−安食の戦い、1902年−伊豆諸島の鳥島の火山が大爆発、島民125人全員が死亡、1904年−日露戦争:黄海海戦、1944年−グアムの戦い:日本軍守備隊が玉砕し、グアムの戦いが終結、1945年−第二次世界大戦:一関空襲、花巻空襲、熊本空襲、2003年−沖縄都市モノレール線(ゆいレール)那覇空港駅−首里駅間が開業、沖縄県で戦後初の鉄道

今日は、安食の戦いです。安食の戦いは、1554年8月10日に尾張国安食で行われた戦いです。尾張下四郡の守護代である清洲・織田家(織田大和守家)の重臣・清洲三奉行の一人の織田信秀が勢力を伸ばしました。織田信秀が死去して子・信長が跡を継ぐと、守護代・織田信友の下で実権を握っていた又代・坂井大膳が、同輩の坂井甚助、河尻与一、織田三位らと謀って織田信長に敵対を始めました。しかし、1552年9月4日の「萱津の戦い」で敗北し、坂井甚介が討死しました。守護代・織田信友の居城・清洲城では、尾張守護・斯波義統が織田信友や坂井大膳らの傀儡となっていました。織田信友は、信長暗殺計画を企てました。しかし、斯波義統の近臣・梁田弥次右衛門と那古野弥五郎が織田信長に内通しました。これを受けて織田信長は、兵を清洲に差し向けると町を焼き払って裸城にしました。織田信長は自ら出馬しましたが、城の守りが固かったため引き上げました。1553年8月4日、斯波義統の子・義銀が近臣を引き連れて川狩りに出かけた隙を突き、坂井大膳、河尻与一、織田三位、川原兵助は斯波義統を襲撃しました。森政武・掃部助兄弟や丹羽祐稙、同朋衆・善阿弥などの奮戦もあり、織田信友方に多数の損害を与えました。しかし、衆寡敵せずに次々と討たれていき、防ぎきれぬと悟った斯波義統は城に火を懸けると弟・統雅や従叔父・義虎(斯波義雄の子)ら一族30余名と共に自害しました。この報せを受けた嫡男・斯波義銀は、川狩りを切り上げて湯帷子姿のまま那古野城へ逃げて織田信長に保護されました。8月10日、織田信長は守護・斯波義統の敵討ちという大義を以って、清洲へ攻め入りました。柴田勝家は、三王口で開戦しました。清洲城から迎撃してきた織田信友方は安食村で打ち破られ、後退して誓願寺前で応戦しましたが町口大堀の中まで追い入れられました。河尻与一や織田三位らは奮戦しましたが、以下30騎が討死しました。織田三位の首を取ったのは、斯波義統の直臣・由宇喜一でした。この後、坂井大膳は再起を期して織田信光を調略しようとしましたが、逆に織田信光の謀略にかかって主君・織田信友が切腹させられ、清洲城を奪われました。坂井大膳は駿河の今川氏の下に逃亡しました。

次に、伊豆諸島の鳥島の火山が大爆発、島民125人全員が死亡です。鳥島は伊豆諸島の一つで、全島が国の天然記念物(天然保護区域)に指定されています。特別天然記念物「アホウドリ」の生息地としても有名です。江戸時代には多くの船が鳥島に漂着しており、土佐の漁師・長平(野村長平)はアホウドリを食いつないで12年間生活し、後から漂着した者達と一緒に船を造って青ヶ島に脱出しました。またジョン万次郎ら5人が漂着したのも鳥島ですが、彼らは3ヶ月でアメリカの捕鯨船に救助されました。この島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上あります。1902年の大噴火では、「アホウドリ」捕獲のために移住した島民125人全員が死亡しました。それ以来、無人島になっています。

その次に、日露戦争:黄海海戦です。ロシア太平洋艦隊司令長官・ステパン・マカロフ中将が、日本海軍連合艦隊との戦闘により戦死しました。その後任として司令長官職を代行する事となったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は、防備の堅い旅順港に閉じこもり、連合艦隊との衝突を避けて艦隊を温存するという行動を見せていましたが、極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは旅順艦隊に対し、ウラジオストクへの回航を命令しました。これを受けて旅順艦隊は出航しましたが、連合艦隊に遭遇するとすぐに港内へ引き返しました。しかし、日本陸軍第三軍による陸上からの「旅順要塞攻撃」が開始され、第三軍と行動を共にしていた日本海軍陸戦重砲隊が大孤山の観測所から照準を行い、旅順港の艦船を砲撃しました。命中弾により戦艦「レトヴィザン」が水線部に、戦艦「ツェサレーヴィチ」は艦橋に損傷を受け、ヴィトゲフト自身も負傷するなどの損害を受けました。ヴィトゲフトは旅順港に艦隊を置く事が危険になってきたと判断し、艦隊の大部分を旅順港からウラジオストクへ回航する事を決定しました。一方、連合艦隊側は、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を壊滅させておく事で、艦隊数による日本側の不利な状態を改善する事と、日本海の制海権を確保しておく必要がある事から、旅順艦隊が港から出てくるのを待っていました。連合艦隊は12時30分に、旅順の西南23カイリ付近で南下してきた旅順艦隊を確認、攻撃を開始しました。しかし、旅順艦隊は海戦に及ぼうとせず、終始ウラジオストク方面に逃げの姿勢に徹しました。日本艦隊は旅順艦隊との距離7000メートルで丁字戦法を実行するために艦隊行動を行いましたが、旅順艦隊に後方から逃げられて引き離されてしまいました。15時20分から追撃を始めましたが、追いついて砲撃を再開できたのは17時30分でした。18時40分、旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に2発の砲弾が直撃し、ヴィトゲフトと操舵手が戦死し、イワノフ艦長などが昏倒しました。操舵手が舵輪を左に巻き込んで倒れた上、舵機に故障を起こしたため「ツェサレーヴィチ」が左に急旋回して自艦隊の列に突っ込んだ結果、全艦船は四散しました。連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃し、夜間に水雷攻撃を行いました。多くの艦艇は「ペレスヴェート」座乗の次席指揮官ウフトムスキー少将の指揮下で沈没艦を出さずに何とか旅順に帰還しました。戦艦「ツェサレーヴィチ」と駆逐艦3隻がドイツ領の膠州湾租借地、防護巡洋艦「アスコリド」と駆逐艦1隻が上海、防護巡洋艦「ディアーナ」がフランス領インドシナのサイゴンで抑留され、防護巡洋艦「ノヴィーク」は日本列島を迂回して太平洋を北上、樺太のコルサコフにまで到達した所で追撃してきた防護巡洋艦「千歳」と「対馬」によって撃破されました(コルサコフ海戦)。また、駆逐艦一隻が座礁、自沈した他、駆逐艦「レシテリヌイ」が芝罘に入港しましたが日本軍に鹵獲され、「暁」として編入されました。旅順では各艦の損害を修復する事が出来ず、旅順艦隊は以後、大がかりな作戦が出来なくなりました。出撃の報告は芝罘にいたロシア領事の手によってウラジオストクにも伝達され、ウラジオストク巡洋艦隊が旅順艦隊を援護するため出撃しました。出撃30分後には「レシテリヌイ」からの報告により出撃中止命令が出されましたが艦隊には届かず、ウラジオストク巡洋艦隊は上村彦之丞中将が率いる第二艦隊に蔚山沖で捕捉されて撃破されました(蔚山沖海戦)。丁字作戦が事実上失敗(敵艦との距離が離れすぎていた)した事や、敵艦を沈める事が出来なかったことが大きな課題として残りました。この海戦での教訓が、後の「日本海海戦」での大勝利に生かされる事となります。

その次の次に、グアムの戦い:日本軍守備隊が玉砕し、グアムの戦いが終結です。グアム島はマリアナ諸島の島で、アメリカの統治下にありましたが日本軍の攻撃によって奪われていました。飛行場を有する絶対国防圏内の要所であり、アメリカ軍の侵攻に伴い攻撃目標となる事が予測されたため、陸軍の第29師団及び第48独立混成旅団が派遣されました。アメリカ軍はこれを奪還すべく第77歩兵師団と第3海兵師団を派遣しました。アメリカ軍のサイパン島侵攻時にパラオへ出張中で、サイパン島へ帰れなくなっていた第31軍司令官・小畑英良中将は、グアムで指揮を執っていました。「サイパン島の玉砕」により第31軍司令部が壊滅すると、第31軍司令部はグアムで再編成されて、サイパンで戦死した井桁敬治参謀長の後任として、中部太平洋方面艦隊参謀副長として海軍との調整役に当たっていた田村義冨少将が任命されました。日本軍は2年をかけて強固な防御陣地を構築していました。アメリカ軍は、まず戦艦による艦砲射撃と空母艦載機及び陸上爆撃機(B−29)による爆撃を行いました。高射砲及び巡洋艦から取り外した高角砲によってアメリカ軍機を執拗に攻撃するなど、日本軍側は頑強な抵抗を繰り返しました。「マリアナ沖海戦」などによって計画が大幅に遅延したアメリカ側は、陸軍と海兵隊の上陸を開始しました。日本軍の作戦計画では、サイパンと同様に水際作戦で侵攻を食い止めようとしたため、揚陸中のアメリカ軍に対して重火器等で激しい攻撃を加えました。20両のLVT(水陸両用装軌車)を破壊しましたが、それでも物量に勝るアメリカ軍の侵攻を食い止めることはできませんでした。しかし上陸初日、米軍の進軍はわずか180mでしかありませんでした。激しい白兵戦や日本軍のバンザイ突撃を撃破した末、米軍はかろうじて進撃を続けました。軍用犬も活用され、3年間占領されていた海兵隊兵舎の奪還も、名誉回復という重要な米軍のミッションでした。師団長の高品彪中将が戦死し、師団の指揮は小畑英良・軍司令官が師団長代理として直卒しましたが、組織的抵抗は収束しました。それ以降も日本軍の残存部隊は抵抗を続けたものの、8月10日に日本軍の組織的な抵抗は完全に停止しました。小畑英良・軍司令官と田村義冨・参謀長は自決しました。アメリカ陸軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げました。それでも一部の生き残った兵士はゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行います。グアムの占領を成し遂げたアメリカ軍は、本島の飛行場を直ちに整備し、サイパン島とともに日本本土への戦略爆撃の拠点としました。この戦いで18000人の日本兵が戦死しました。後に太平洋戦争終結後に初の内閣総理大臣となる東久邇宮稔彦王は、この戦いの敗北で日本の敗北を察したといいます。グアムでの戦いが終結した後、横井庄一伍長ら数名の日本兵が終戦を知らずにジャングルに潜伏し続けていました。1人生き残った横井庄一は1972年にグアム島住民に発見され、保護された後に日本へ帰国しました。

そのまた次に、第二次世界大戦:一関空襲、花巻空襲、熊本空襲です。
一関空襲:1945年8月10日午前に岩手県一関市は、米艦載機による空襲を受けました。国鉄・一関駅から駅南部にかけて32発の爆弾が投下され、さらに機銃掃射が加えられました。駅構内の貨物線防空壕に爆弾が直撃し、駅員25名が犠牲となりました。そのうち19名は、14歳から20歳の少年鉄道員でした。一関駅の北西にある山目国民学校では、二発の爆弾が投下されて3名が死亡、その他に駅構内、駅前交番、市街地でも死者が出ました。犠牲者は計34名でした。
花巻空襲:1945年8月10日、北上市後藤野の岩手飛行場や花巻市街に米軍艦載機グラマン15機が飛来しました。靄のかかった状態の中で、午後1時半頃から500ポンド爆弾など20発以上を投下し、市内の各所を機銃掃射しました。花巻駅には、鉄道のレールや駅を破壊するために多くの爆弾が投下され、駅や機関車などを爆破されました。焼失家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名、負者者約150名、市内北部の似内駅には、鉄道の機能を止めるためにロケット弾が投下され、駅に止まっていた電車の3両目にロケット弾が命中しました。また一部のロケット弾が近くの民家を直撃し、多くの死傷者が出ました。この空襲で宮沢賢治の生家が焼失し、高村光太郎は炎の中を逃げ回りました。
熊本空襲:1945年8月10日早朝、市街東方から侵入した「B−29」と小型機の編隊約210機が、熊本一円を襲撃しました。熊本市の被害は、死者45人、負傷者43人、罹災戸数1551戸、罹災人員6308人の被害を出しました。

最後に、沖縄都市モノレール線(ゆいレール)「那覇空港駅−首里駅間」が開業です。沖縄都市モノレール線は、沖縄都市モノレールが運行するモノレールです。全線が軌道法による軌道として建設されています。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球語の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものです。沖縄本島では、大正時代に軽便鉄道や路面電車、馬車鉄道といった数々の鉄道路線が開業しましたが、昭和初期に入ると沖縄電気の路面電車と糸満馬車軌道がバスとの競争に敗れて廃止され、残った沖縄県営鉄道と沖縄軌道も太平洋戦争末期に運行を停止しました。そして、鉄道の施設は空襲や地上戦によって破壊されました。その後、アメリカ合衆国による統治下に置かれた戦後は道路整備が優先されたため、鉄道は復旧される事なくそのまま消滅しました。しかし、1970年代に入って経済活動が活発になってくると、那覇市を含む沖縄本島中南部地域に人口や産業が集中しました。この結果、道路交通の渋滞が慢性化し、その対策として新たな軌道系公共交通機関を求める声が高まっていきました。沖縄が本土復帰を果たした1972年、国は沖縄の振興開発を推進するために「新全国総合開発計画」の一部を改正し、沖縄県に対する特別措置として沖縄振興開発計画を策定しました。これを受けて、国や沖縄開発庁、沖縄県、那覇市などが中心となって導入機種やルートなど具体的な検討を行い、最終的には「都市モノレールの整備の促進に関する法律」(都市モノレール法)に基づき、跨座式モノレールを導入する事で決着しました。ルートは那覇空港から首里城に近い汀良地区までの区間を第一期区間とし、汀良地区から西原入口までの区間を第二期区間、さらに沖縄市方面への延伸も検討課題としました。1982年9月に運営主体となる第三セクター「沖縄都市モノレール株式会社」が設立され、同社は軌道法に基づき軌道事業の特許を申請しましたが、国は採算面に不安な要素がある事や、既存バス会社との調整が進んでいない事などを理由に特許を保留しました。このため、沖縄県と那覇市は都市モノレールの導入空間となる街路の整備事業を先行して進めました。1994年に沖縄県、那覇市、バス会社との間で基本協定や覚書が締結されると、着工に向けての動きが活発化し、沖縄都市モノレールは1995年12月に空港(現在の那覇空港) − 汀良(現在の首里)間の特許申請書を再提出しました。1996年3月に軌道事業を特許、同年11月に軌道本体の工事に着手しました。そして2003年8月11日に「那覇空港駅〜首里駅」間が開業しました。2019年には「首里〜浦西」間が開業する予定です。

今日の誕生日:アンリ・ネスレ、ハーバート・フーヴァー(第31代アメリカ合衆国大統領)、角野卓造、青山孝史(元フォーリーブス)、田口八重子、三波豊和、杏子(元BARBEE BOYS)、梨本謙次郎、筧利夫、キャロライン洋子、高橋ひろ(元チューリップ)、北澤豪、岩井小百合、遊井亮子、升秀夫(BUMP OF CHICKEN)、安倍なつみ(元モーニング娘。)、速水もこみち、鶴竜力三郎、HARUNA(SCANDAL)、門脇麦、中島裕翔(Hey!Say!JUMP)、高月彩良(元bump.y)、齋藤飛鳥(乃木坂46)、スヌーピー

今日の記念日:道の日、宿の日、健康ハートの日、焼き鳥の日、帽子の日、パレットの日、バイトルの日、カロリーコントロールの日、ハイボールの日、はとむぎの日、はっとの日、スヌーピーの日、発炎筒の日、ばねの日

今日の「今日訓」:本日は、1920年8月10日に日本初の道路整備計画が実施された事で「道の日」、スヌーピーの誕生日で「スヌーピーの日」、カロリーコントロールでは1単位=80Kcalとして計算する事から「8」と「10」で「カロリーコントロールの日」、「や(8)ど(10)」の語呂合わせで「宿の日」、「ハー(8)ト(10)」の語呂合わせで「健康ハートの日」、「や(8)きと(10)り」の語呂合わせで「焼き鳥の日」、「ハッ(8)ト(10)」の語呂合わせで「帽子の日」、「パ(8)レット(10)」の語呂合わせで「パレットの日」、「バ(8)イ(1)ト(0)ル」の語呂合わせで「バイトルの日」、「はっ(8)と(10)」の語呂合わせで「はっとの日」、「ハ(8)イ(1)ボール(0)」の語呂合わせで「ハイボールの日」、「は(8)と(10)むぎ」の語呂合わせで「はとむぎの日」、「はつ(8)えんとう(10)」の語呂合わせで「発炎筒の日」、ばねやぜんまいを「発条」と呼ぶ事から「はつ(8)じょう(10)」の語呂合わせで「ばねの日」となりました。

リオデジャネイロオリンピック情報「柔道81kg級:永瀬貴規が銅、200mバタフライで坂井聖人が銀、男子4×200mリレー(萩野公介、江原騎士、小堀勇気、松田丈志 )で銅、カヌー男子スラローム・カナディアンシングルで羽根田卓也が史上初の銅」
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