mixiユーザー(id:61719825)

2016年01月14日00:07

376 view

遠吠え

夕方から降り出した雨は、夜になっても止む気配がなかった。私は若の宮町の神社へ向かうゆるやかな坂をぼんやりと下りていったが、雨は時折村雨となって舗道の路面に激しく打ちつけるように降ったり、かと思うと、にわかにその勢いを尻すぼみにし、細かい霧雨のようになって、終息の気配を見せるかに思われたが、まるで雨に意思があるかのように、また怒ったふうに突風を伴って荒ぶる気配を見せたりした。
傘があってもまるで役に立ちそうもないから、通りがかりのタクシーに乗ることにして、しばらくそこに立っていたら、タクシーがやってきたので合図を送って呼びとめた。
今日の私は変だった。怒っているのか、苛立っているのか、楽しいのか自分でもわけが判らなかった。私は運転手に話しかけたが、運転手は前を向いたまま、こちらを一瞥もしないどころか、一切の受け答えをしなかった。私は非常に腹が立ってきて、運転手に文句を言おうとしていたことは確かだった。そこまでは憶えている。
気がつくと私は行きつけの居酒屋のカウンター席の左隅に腰かけていた。どこでどのようにタクシーを降り、それからどう歩いて店の暖簾をくぐり、店のママとどんな挨拶を交わしたか、まるで覚えていない。六脚の背もたれ椅子があるカウンター席はまだ誰も来客がなかった。気分を直すため、ママに生ビールを頼んだ。
別段人恋しさに襲われたわけではなかったのだが、今日はなぜか人の顔を見たくて居ても立っても居られない気持ちがした。顔であれば誰でもよかった。顔というものを猫の毛を撫でるように撫でてみたかったし、言うことを聞かなければ力を込めてぶってみたかった。顔というものに人格が存在しないのであれば、そうしてみたかった。
奥座敷にはすでに七、八名の客が来ているようだったが、そちらの方からは何の音も声も聞こえてこない。ママに尋ねてみると何かの組合の集まりらしく、この季節なのに忘年会ではなさそうだった。
外の雨は静かになったようだが、私は落ちつかなかった。寒くもないのに肩がふるえて仕方がなかった。すると奥座敷の方から唸り声のような、そうでないような、物々しい声とも泣き声ともつかない声が聞こえはじめた。気のせいかとも思ったのだが、そのただならぬ様子が店のママも気になるらしく、注文を取りに行きがてら、向こう座敷の様子を探りに行った。すると座敷の方が急に静かになったなと思っていると、ママが戻ってきた。
「藷焼酎ボトル三本追加、だって」
そう言ってママは笑っている。早速藷焼酎を持っていった。それはいいのだが、座敷の様子がどうも妙に思われてきた。ママが戻ってきて厨房に入ると、奥座敷からすぐさま女のくすくす笑う声がした。さっきの声と相まって不思議に感じられたのでママに訊いてみた。
「あっちの座敷のお客は女性客?」
これに対してママはこう言った。
「外れ。全員男」
「え、だって今女の声が聞こえたよ」
「気のせいじゃない? 空耳かも知れないし」
「そうかなあ」
くすくすという笑い声はまだ聞こえつづけている。ママには聞こえないのだろうか。彼女にそれを確認してみると、換気扇の音で厨房の中ではまったくわからないと言う。私はトイレへ行くふりをして、その帰りに座敷の様子を覗いてみた。障子は閉めきっていないから、トイレへ往き来する通路からは座敷が丸見えである。
私がさりげなく覗くと、驚いたことがあった。私の方から見ると背を向けて座敷で談笑しているらしい七、八名の客が、私が覗くのとほぼ同時に、突然一斉にこちらへ向き直ったのである。しかも今の今まで笑っていたのにみな真顔で私を見た。睨みつけるような視線であった。確かにママの言うとおり、男であったが、皆一様に明治期の政治家のように口髭をたくわえており、その髭の色は何故か濃い褐色であった。
凝視されるのが何よりも苦手な私の背筋を、冷たい汗が伝うのがわかった。くすくすと色っぽい女の声の正体も、声の出どころもはっきり突き止められなかった。彼らの凝視はなおも続いた。しばらく動けずにいたが、私はすっかり怖くなったので、すごすごと無言のまま元の席に戻った。
二時間くらい経過したろうか。座敷の客はまだ帰らなかった。ママは時々座敷の注文を聞きに行き、戻ってきたが、この客たちが頼むのはいつも臭い藷焼酎のボトルと、オンザロック用の氷ばかりであって、摘まみ、肴の類をまったく頼まなかった。そしてしばらくするとまたくすくすという女たちの忍び笑いが聞こえ出した。
私の方もその頃になると、酒に酔ってきたので、だんだん眠気が募ってきた。うとうとしていると、奥座敷の客がお勘定と言って座敷から店の玄関の方、つまり私のカウンター席のすぐ後ろへ来たけれど、やはり物音と声の正体はわからなかった。私は睨みつけられるのが厭だから後ろを見ないようにしていたけれど、件の客たちはママの見送りを断わって、元の暖簾をくぐり、外へ出ていった。
そのすぐ後でママが言った。
「さっきのお客、詐欺師仲間の会合だったみたい。聞こえちゃった」
その途端、私はぎくっと身体を硬直させ、目を覚ました。いつの間にか眠っていたようであった。いまのママの言葉やそれより前のこともみんな夢だったようだ。背中や腕や肩のふしぶしが痛んで仕方なかった。
「びっくりした。あんまりすやすや寝てるから、起こすに起こせなかったよ。なんか寝言を言いながら、夢にうなされているみたいだったけれど、大丈夫?」
「あまり大丈夫じゃない」、変な姿勢で寝ていたせいで、肩や肘の痛みがまだとれない。
ところで奥座敷の客の話をしようとしたら、ママはきょとんとした顔で私を見ている。店にはもう私のほかに誰ひとり客がいなかった。
「そう言えば、奥の人は帰ったっけ?」
「奥の人? きょうは奥座敷にはお客は誰も来ていないよ?」
「嘘だ。だってさっき確かに」
その瞬間外で物凄い気配を感じたので、私は思わずぎょっとした。おもての路を複数の何かが過った。車などではない。大きな生きもののようだった。ママもぎょっとした様子だった。何故なら西の方角から繰り返し遠吠えがしたからだ。狼? そんな馬鹿な。そうは思ったが、いつかTVで聞いた狼の声にあまりにも酷似していた。もちろん日本の狼は絶滅したはずだし、町に動物園はない。だから狼であるはずはないのだが、犬の遠吠えには思えない。それなら普段から聞きなれているから聞き違えるはずはない。それとも今のは空耳だったのだろうか。そうでないとしたら実際何の声だろう。ともかく勘定を済ませておもてに出ると、先刻は時雨空だったのにもかかわらず、すっかり晴れて月が空の天辺に出ていた。蒼ざめた月であって、そのぐるりを墨のような雲がとりまいてゆくのを、私は何かしら不安に感じた。
すると、また一つの遠吠えに応える遠吠えが、次々起こりはじめた。狼だとしたら、彼らは群をなしていることが容易に想像された。若の宮神社の向こうを物々しいけもののようなものが過る気配が感じられた。さっき聞こえた声も静かに移動しているらしかった。タクシーをつかまえたかったが、路上のかたわらにいつまで待っていても車の往き来はまったくなく、タクシーは来る様子が感じられなかったし、タクシー会社に電話をかけても、留守電につながったり話し中だったりで、車を呼ぶことは出来なかった。
遠吠えは徐々に私のいる方へ、群をなして近づいてくるように思われた。だんだん声の大きさが物々しい迫力のあるものになってきており、私はすっかり恐ろしくなって引き返し、件の居酒屋の暖簾を再びくぐろうとした。が、さっき戸口を出たばかりだというのに、入口にはすでに鍵がかけられており、いつの間にか明りも消えていたし、入ることは出来なかった。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する