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2015年05月06日23:35

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「恐怖分子」

2日は 「恐怖分子」、

4日は 「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」、

6日は 「皆殺しのバラッド」 を観に行きました。



週3回仕事じゃなくなったので(週2になった)
映画観るのにすごく余裕ができた…と思っていたら、
ゴールデンウィークに観るべき映画があまりなくて
4月の過密スケジュールは何だったの??と思っている思惟太です。
それなのに
感想文書きかけたまま寝てしまって(←ゆうべのことです)
更新できなくてごめんなさい!(汗)



「〜パトレイバー 首都決戦」、

押井守の新作ですね。
これを劇場にかけるために12話+1話を「THE NEXT〜」の名の下に撮ったのよね?
う〜ん…アニメみたいで普通に面白かった…けど、
劇場版アニメ「パトレイバー2」の後日談としての展開や深化を期待すると
違うなぁ…って感じでしょうか。
あの
身じろぎを許されない重苦しさ…みたいなものは皆無なので。
アニメのシーンが再現されてたりするよ(笑)。



「皆殺しのバラッド」、

国境を隔ててテキサス州エルパソと向き合うメキシコ シウダー・フアレス、
麻薬カルテルが支配するこの町の警察官と
ナルコ・コリードなるメキシコ歌謡の人気歌手(アメリカ在住)の2人に取材し
麻薬戦争の実態を明かすドキュメンタリー。
倫理が崩壊した人間たちに吐き気を催します。
それが犯罪者でなく
ギャングをメキシコの文化だとして彼らに憧れ
彼らを讃える歌に熱狂する大衆であるからです。



本日はエドワード・ヤンの86年作品。
思惟太は彼の作品は「ヤンヤン 夏の想い出」しか観ていなくて
01年のノートを引っ張り出して見てみたら
記憶通りに
ヒューマニスティックで素晴らしくよく出来た満足度の高い1本―と書いていました。
だから
これを観てびっくりしました。
作品の印象が全然違っていて
しかもとんでもなく優れた映画だったからです。
もう1 回観たい!!





「恐怖分子」 ’86 (香・台)


監督:楊徳昌(エドワード・ヤン) 脚本:楊徳昌,小野(シャオ・イエー)
脚本顧問:陳国富(チェン・クォフー) 撮影:張展(チャン・ツァン) 録音:杜篤之(ドゥー・ドゥチー)
衣装:頼盟党(ライ・ミンタン) 編集:廖慶松(リャオ・チンソン) 音楽:翁孝良(ウォン・シャオリャン)
m:馬邵君(マー・シャオチュン),李立群(リー・リーチュン),金士傑(チン・シーチェ),顧寶明(クー・パオミン)
f :王安(ワン・アン),繆騫人(コラ・ミャオ),黄嘉晴(ホアン・チアチン)

’86 台湾金馬賞 最優秀作品賞
’87 ロカルノ国際映画祭 銀豹賞
’87 アジア太平洋映画祭 最優秀脚本賞
’88 ペサロ映画祭 最優秀監督賞


86年製作の楊徳昌(エドワード・ヤン)の監督第3作。
日本公開は「牯嶺街少年殺人事件」(’91)の92年に遅れて96年だそうである。
兵役を控えたアマチュアカメラマン,その恋人,不良少女,
スランプの女流作家,医師であるその夫,起業したばかりの作家の元恋人,
医師の友人である刑事…らが80年代台北の“現在”を
その行動や生態や佇まいによって静謐に掬い上げる物語である。
生涯7本(長編)しか作品を残さず59歳で亡くなった楊徳昌に
残念ながら私は間に合っていなくて、
最後の『ヤンヤン 夏の想い出』を観ただけである。
同じく台湾ニューシネマの旗手 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の過去作品は
NHKでかなり追いかけて観ることができたのと違って、
楊徳昌の作品はTV放映がなかったか非常に少なかったのだと思う。
従って私は この二人の作品をTVやビデオで90年代の終わりに
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)や林正盛(リン・チェンシン)らの作品公開と同時期に観たのだが
年齢的には一世代前(10歳前後)の人たちなのだ。
『ヤンヤン 夏の想い出』は非常に清廉で気持ちのいい群像劇で
手塚治虫大好き♡ の楊徳昌のヒューマニズムのありかを想像できて
優れた作家であることは確信できたけれども、
その時も新聞各紙が『牯嶺街少年殺人事件』を挙げて絶賛していたので
楊徳昌と言えば『牯嶺街少年殺人事件』なのだと思い
そればかりを観たいと思っていた。
そうしてその『牯嶺街少年殺人事件』を導く本作を
知らないままでいたことを大いに恥じることになる。
これは傑作である!
侯孝賢はもちろん蔡明亮や林正盛を観て一番に感じるのは
都市生活者の孤独な心の風景なのだが、
ここにはまさに
他者を容れない張りつめた“私だけの孤独”を飼育する
都市生活者の点景が綴り合わされていて、
朝まだき 銃声が谺する台北の街路と死人の画から物語が動くというのに
ものものしさや猛々しさとは無縁の
美しすぎる構図の中に計算された芝居が嵌め込まれた
抑制の一語に尽きるかのような洗練を見せて
映画は“映画”を主張しているのだった。
物語にしろ演出にしろ画作りにしろ
あまりに見事に構築されているので
頭でっかちな印象すら受けるのだけれど、
台北の街が登場人物たちの孤独を醸成する器として
映画の主役を担っていること―が明らかであるのが
おそらくこの映画が評価された所以だろうと思われる。
ゴダールのパリのように
カサヴェテスのニューヨークのように
塚本晋也のトーキョーのように
楊徳昌の撮る台北は“映画の都市”になる。
恋も殺人も野心も失意も悪徳も善意も
それらに属さない命名されないあえかな呟きもなにもかもを
画の中に消化してしまう“映画の都市”に。
映画に資するために
登場人物たちは台北の街を彷徨い不機嫌で不幸な“私”を
発見し続けるのだ、
存在の不確かさが嘔吐を呼ぶラストまで。
さて、この台北をもって
次作『牯嶺街少年殺人事件』を観るならば、
いったいどんな地平を眺めることになるのか…?
傑作以上の称賛を用意できていないのだけれども…。
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