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2014年12月16日01:56

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岩崎書店版『タイム・マシン』は問題作だった(2)

 ……以上が、西原康訳『タイム・マシン』の第一印象である(それにしてはずいぶん長いが)。
 ここまでの説明で、本書が「どんな感じの本」なのかは大体分かるが、それはあくまで表面的な話である。
本書にはまだ触れていない重要な細部がある。それもまた訳者が独自に創作したものなのだが、これまで見てきたオリジナル要素とは印象が大きく違う。ただ印象的なだけではなく、詳しく検討する価値があると思う。これを手掛かりにして、読者である子供の目からは隠された意図を探ってみたい。

 問題の「細部」は地下の場面にある。原作では、主人公が地下でモーロックの食糧らしき肉をちらりと見る。その時は何の肉か分からないが、地上に戻ってからエロイの肉だと気づく。本書はこの部分が大きく改変されている。



 ほかのへやよりも、ずっと広く、テーブルが、なん列にもならんでいた。テーブルの上には、血のしたたるような肉のかたまりが、いくつもおいてあった。
 それをみたジュリーは、まっさおになった。
 ――もしや、ポールが――
 そう思うと、気がとおくなるような気がした。
「モオロックは肉食しているんだな。だが、地上には動物など見あたらなかった。いったい、その動物はどこにいるんだろう」
 博士はつぶやいた。そして、ぶるっと体をふるわせた。博士も、ポールのことが心配になったのだ。
 ふたりは、さらにすすんだ。
 すると、オリがあった。ぷーんとにおう動物のにおい。オリの中には、わけのわからない動物が、ごちゃごちゃ、うごめいていた。
 目も、耳も、鼻もない。手も足もない。ただ口だけの、ビヤダルのような生物が、ごろごろしているのだ。
「な、なんでしょう、あれは?」
 ジュリーは、そのうすきみわるさに、くちびるまで、まっさおになった。
 じっとみていた博士は、
「わかった。これが、モオロックの食べ物だ。モオロックは、地面の下で、豚や牛を飼っているんだよ。」
「豚や牛?」
「そうさ。これが、モオロックの豚や牛だ。われわれが、豚や牛を飼って食べているのとおなじに、モオロックは、この動物を飼ってふとらし、そして食糧にしているのだ」
「これを食料に?」
「そうだ。この動物には、目も耳も鼻も、いや手も足もない。そういうものは、必要ないからだ。いらないものは、しだいに退化する。モオロックたちに必要なのは、こいつらの肉だけだ。だから、こいつらは、ふとるために、えさを食べる口だけがのこり、あとは退化して、なくなってしまったのだ。そして、ふとりにふとって殺されて、モオロックたちに食べられるのだ」
 博士は、平気でそういった。
 だが、ジュリーは、きいているうちに、気がへんになりそうだった。
                                             (102頁)



 この場面の挿絵はないが、映像を想像してみると相当グロテスクである。H・R・ギーガーの絵のようだ。これを見たジュリーが「気がへんになりそうだった」のも頷ける。現代でさえかなり強烈に感じるのだから、55年前にこれを読んだ小学生にはトラウマになったのではないだろうか。

 しかし西原康はなぜこんなオリジナル場面を入れたのだろうか。それは原作『タイム・マシン』の基本的な構造を読者の目から隠すためだと思う。
 原作では社会分化が生物学的段階まで進んだ結果、地上の上流階級と地下の労働者階級が別々の種族に進化する。上流階級は衰退して無気力なエロイになり、労働者の末裔であるモーロックに食べられる家畜になり果てる。これが『タイム・マシン』世界の基本的な構造だが、確かに小学生が読むにはショッキングといえばいえるだろう。ではこの構造のどの部分が隠蔽されたのか。

 上の引用を単純に考えれば、モーロックの食人行為がそれだと見えるだろう。「子供向け」の翻案と考えれば、納得がいく話だ。ところが意外にも、その推測は正しくない。 
 まず、地下に下る前の場面で訳者はウィーナに「(モオロックに)つかまったら、食べられる」と言わせている。引用の流れを見ると、そこまでの場面でモオロックの食人行為を暗示する描写を重ねて恐怖を盛り上げたところで家畜を出し、実はモオロックは食人種ではなかった、と明かして安心させる、という意図のように見える。しかしその後の展開を見ると全くそうではないことが分かる。続く場面でポールを助けた時、博士は「ポール君、きみは、あいつらの食糧になるところだったんだよ」と言っているからだ。つまり「モオロックがエロイを食う」事実は読者の目から隠されていないのである。

 モーロックの食人を隠そうとした訳ではないとすれば、一体何を隠蔽しようとしたのだろうか。人類がエロイとモオロックに分化した過程は、本書でも書かれている。エロイがモオロックの餌であることも隠されていない。隠されたのは実は「モーロックの主食はエロイ」という構造である。どこが違うと思うかもしれないが、「モーロックはエロイを食う」と「モーロックの主食はエロイ」の間には根本的な違いがある。

 原作においてはモーロックそのものが恐ろしいのではなく、一見して平和で幸福なエロイが、実は檻の中の家畜でしかないという、その認識こそが恐ろしいのだ。西原康がグロテスクな「家畜」を創作した理由はおそらくここにある。家畜の存在はモオロックにエロイ以外の主食があることを意味するからだ。
 モーロックに他の主食があるなら、エロイは無為に生きているだけの普通の種族になり、餌食にされる者は偶発的な被害者ということになる。モーロックが恐ろしいことに変わりはないが、その恐ろしさは秘境小説の食人種のレベルに矮小化される。

 この変更によって、「捕食者と被食者に分化した人類」の運命的な悲劇性が読者の目から隠された。このヴィジョンはウェルズの思想の根源から発しており、作品の核心である。これが大人向けの翻訳であれば、改悪と断じてさしつかえないだろう。しかし本書は「子供の本」だ。「大人が子供に与える」意識がこの改変を生んだとすれば、訳者が何を与えようとしたか、逆に何を「与えるべきでない」としたかを吟味するべきだろう。
 手掛かりを探るために、西原康のまえがきを見てみよう。



 ウェルズは、『タイム・マシン』という小説で、わたしたちを八十万年のちの世界へ案内してくれます。
 そこに広がる世界は、夢のように美しく、身の毛がよだつほどおそろしく、そして、不気味な、まことにめずらしい世界です。
                                             (1頁)



 西原康は子供たちに、『タイム・マシン』が「恐ろしい小説である」ことを隠してはいない。恐ろしい物語、残酷な物語は子供にはふさわしくない、という立場には立っていないのだ。
 では何が子供に「ふさわしくない」と考えてこの改変を行ったのか。

 物語の中で登場人物三人が「何をしたか」を考えると、答が見えてくる。原作ではタイム・トラヴェラーが地下に降りてモーロックの正体に気づき、その後タイムマシンを見つけ出してこの時代から脱出する。この流れは本書でも変わっていない。モーロックに攫われたポールを救出する展開を加えることで、地下世界くだりの動機づけを強めてはいるが、それがこの世界と登場人物との関係を変えることはない。時間旅行者三人はあくまで傍観者でしかなく、未来の世界を観察し、正体をつかむ以上のことは何もできないのだ。

 原作通りであればエロイという種族全体が家畜であり、ジュリーが友情を育んだウィーナも含めて、いつか突然その命を絶たれ、モオロックの食卓に並ぶ存在であることを理解する場面が不可欠になる。しかもこの事実を時間旅行者たちはどうすることもできない。エロイの生活必需品は全てモーロックに与えられたものである。エロイはモーロックの世話がなければ生きていくことができない存在なのだ。モーロックの「本拠」を倒せばエロイが支配から解放され自由になるといった分かりやすい逃げ道はない。原作本来の構造には、子供がそれなしには受け入れられないであろうヒロイックな解決が不可能なのである。
 原作通りなら、わずか13歳の子供であるポールとジュリーは、自分たちが何一つエロイ(とモーロック)にしてやれることがなく、彼らの運命を変える希望がないことを自覚しながら元の世界に戻るしかないはずだ。しかもそれは無関係な別世界の話ではない。彼ら自身の子孫の運命であるのだ。

 ここに、西原康が「子供には読ませられない」と判断したポイントがあると思う。つまりそれは「希望」の有無だ。『タイム・マシン』は本来、希望のない物語である。子供に与えてはならないものとは「絶望」に他ならない。
 たとえどんな運命に子供を直面させることが許されたとしても、絶望を与えることだけは許されない。「子供のための物語」を作る大人の、これは変わることのない責任だろう。
 とすれば、『タイム・マシン』は本質的に、子供向けに語ることが困難な物語である。
 作品の根幹を傷つけることなしには、子供に「希望」を与える内容にすることができないのだ。

 だから西原康は作品の基本的構造を改変した。本書のオリジナル要素は山ほどあるが、最も本質的な改変はモーロックの「家畜」にあるといえるだろう。しかしここでまた疑問が浮かぶ。幼い読者のために「希望」を担保しようとしたのだとすれば、なぜ「家畜」はあれほどグロテスクな姿をしているのだろうか。モーロックとエロイの関係を隠蔽するためなら家畜は普通の動物でいいはずで、あんな不気味な姿は必要ない。では、興味本位な怪奇趣味でそうしたにすぎないのだろうか。

 私はそうではないと思う。西原康は作品の本質的構造は子供には受け入れがたいとして隠蔽したけれども、読者が本来得るはずだった認識の「情緒的質」だけはなんとかして残したいと思ったのではないか。そのために思いついた仕掛けが、手も足も目鼻もない「家畜」なのではないだろうか。
「家畜」は自分の運命を認識するための感覚器官も、運命を変える力を生み出す手足も全て奪われている。「家畜」には食われる以外のどんな未来もない。彼らは究極的な犠牲者である。彼らが運命から救われる道は何一つないのだ。
 これはエロイの運命そのものではないだろうか。つまり手も足も目も耳もない家畜は、エロイのアナロジーであるということだ。より広く考えればエロイとモーロック両者を含めた「未来の人類の運命」の隠喩と受け取れる。

 つまり西原康は読者から奪った認識の代償として、できるだけ「それに近いもの」を与えようとした。そのために、家畜の設定を残酷にする「必要があった」のだ。無力で奇怪な家畜の姿を読者の心に刻みつけることで、人間の運命の悲劇性を何とかして「小学生にも感じ取ってほしかった」のだと私は思う。
 これは本書を理解する上できわめて重要なポイントである。西原康は「タイム・マシン」という作品の「意味」を伝えるためには、作品から「残酷さ」を取り除くことができないと考えていたということだ。
 これがただのグラン・ギニョル趣味でないことは、「家畜」が品種改良の産物であることに気づけば理解できる。生物の人工的改変が行きついた果てにグロテスクな怪物が生まれるという構図は、スケールこそ違えども、階級対立の果てに人間が奇怪な姿に進化する原作の構造と全く同質であるからだ。

 この対をなす構造の恐ろしさは、どちらの場合も、技術や社会がごく自然に発展していった結果であるということだ。ウェルズ以前のSFでは「怪物」を生み出すのはマッドサイエンティストという「個人」だった(いやウェルズ以後も相当長い間そうであり、映画などは未だにその傾向が続いているが)。狂った科学者とは社会規範から逸脱した存在、すなわち「異者」である。しかしウェルズは彼の物語の恐怖を、日常的な論理が科学によって際限なく推し進められた結果として描いたのである。恐怖は社会の外からやってくるのではなく、我々が生きる日常そのものの中にある。これが文学史的に画期的だったことは、その後のSFがウェルズが提起した路線に完全に沿って進んだことから明らかだろう。つまりウェルズは文学の歴史に一つのパラダイムを築いたのである。グレッグ・イーガンのような現代最高のSF作家でさえ、ウェルズが創始したパラダイムの中で創作しているに過ぎないと言えるのだ。

 ここまでで分かったのは、西原康が原作を改変したのは、原作の精神を理解しなかったからではないということである。「家畜」の設定は、彼が原作のエッセンスを自分なりの形で子供に伝えようと努力したことを暗示する。深読みすれば、作品を「子供に分かりやすく」するようにという編集者の要求と格闘した跡が垣間見えるともいえるだろう。そうした要請があったとすれば、それはSFがまだポピュラリティーを得ていなかった時期であるはずで、だから実際に翻訳したのは昭和20年代なのではないかと推測したわけだ。
 ともかく西原康は努力したと思う。その証拠はここまでに示したことの他にも色々ある。たとえば彼はストーリーをハッピーエンドに変えようとしなかった。それこそ、悪いモオロックをやっつけてエロイが救われるようなストーリーにはしていないのだ。
 やったのは、登場人物と未来人との関わりを弱めて、読者の感情的衝撃を和らげようとしたことだった。それはウィーナの扱い方から分かる。
 原作ではタイム・トラヴェラーとウィーナの淡い交流が、ほぼ唯一の人間的ドラマとなっている(ルイス・キャロルとアリスの関係のごときものではあるが)。その描写は極めて淡泊だが、物語の結末を見ると、重要性がわかる。タイム・トラヴェラーもタイムマシンも夢のように消え去って、ただウィーナからの贈り物である白い花だけが、物語が真実である唯一の証として、語り手の元に残されるのである。
 ところが、本書ではこの花そのものが書かれない。ウィーナは原作のように命を落とすこともなく、かといって特に印象的な挿話があるでもなしに、いつの間にか物語の中から消えてしまう。普通に考えれば構成の失敗としか思えないが、ここまで検討してみると、これも偶然ではなく意図的だったのではないかと思えてくる。



 私にとって未来はあいかわらず暗黒であり空白である――つまり彼の話の記憶によって、断片的に照らしだされているだけの、広大無辺の世界である。しかし、二つの奇妙な花が私を慰めてくれる。この花は今は萎びて茶色に変色し、形もくずれてしまったが、それでも、人間から知性と力強さが退化してしまった未来世界においてさえ、感謝とこまやかななさけが、人の心の中に生き続けている証拠だからである。
(岩波文庫『タイム・マシン他九篇』橋本正矩訳)



 ボルヘスは「コウルリッジの花」で、「夢から目覚めた者の手に、夢の中で咲いていた花が残される」という「奇跡」の文学的系譜があることを指摘している。『タイム・マシン』が「進化論」の物語であるのならば、どのような意味で「奇跡」なのかも分かるだろう。
 ウェルズにとって進化の冷厳な法則は、人の想いや絆を一顧だにしない激流の如き力であった。個々の人間は激流に呑まれて消えていく無力な存在にすぎない。しかしその中にあっても、なお人の心が失われない可能性。それが『タイム・マシン』の「奇跡」であり、ウェルズが作中に置くことを許した唯一の「希望」だったのである。
 この白い花が「奇跡」であり「希望」のシンボルであるとすれば、シンボルがシンボルとして機能するためには、先だって「絶望」がなければならない。読者である子供の目から物語に内在する「絶望」の存在を隠した西原康は、だからこそ、この花をも削除したのである。花を消した以上は、花を与える者も消えていなければならない。すなわちウィーナの存在が消えなければならない。だからウィーナは物語の後半で役割を失い、主人公たちから忘れ去られることになったのだ。
 そして、「何かを読者の目から隠す時は、それに代わるものを与える」という西原康の「原則」は、ここでも貫かれている。彼が白い花に代わるものとして読者に与えたものが、最後のページにある。



 ジュリーは、女流登山家の夢を、まだすててはいない。だが、前とかわったことは、ときどき、木蔭にすわって、考えこむことが多くなったことだ。
 そんなとき、うっとりつぶやくのだった。
「ウィーナ、かわいいウィーナ、いまごろ、なにをしているかしら! エンゼルさんたちは、やっぱりいまでもうたっているの? おどっているの? おそろしいモオロックにいじめられなきゃいいけれど……」
 そして、最後に、なにかわからないことをいった。それは、あの小びとの国のことばだった。
 ふたりは、ときどき、博士のことをはなしあった。
「博士は、どこにいるのかしら?」
「きっと、過去の世界だよ」
「未来の世界かもしれないわ」
「また、危険な目にあわなきゃいいけど……」
「ぼくはね、こう思うんだ。博士は、過去か、未来か、そのどこかに、すばらしい世界をみつけたんだ。それで、もう、かえってくることが、いやになっちゃって、そのすばらしい世界の人になってしまったんだよ」
「もしかすると、すばらしい世界をもとめて、四次元の世界を、まだとびつづけているのかもしれないわ」
 ふたりが、よりそって見あげる空には、いつもとおなじ、おだやかな太陽が、やさしく温かい光りをそそぎかけているのだった。
                                            おわり



 原作の語り手にとって未来は「暗黒であり空白」だった。理想社会の実現を期待して未来を覗いた彼が見出したものは、文明も人間性も尊厳も失われ、最後には生命そのものが死に絶える「未来」だった。けれども本書の子供たちの前には、未だ広大無辺な「未来の可能性」がひらけている。
 未来の可能性、それこそ、子供が与えられるべきものであり、西原康が読者である子供たちに伝えたいと望んだものではなかったか。

 長々と語ってきたが、ここで終わりにするのがいいだろう。最初の予想とは全くかけ離れた地点にまで来てしまったが、ともかくも終わりと呼べる場所に行きついたと思う。
 本書はもう一編、「モロー博士の島」も収めている。主人公はやはりジュリーとポールである。しかし「タイム・マシン」だけで長くなり過ぎた。ここまで書くのに相当草臥れたので「モロー博士」については省略する。自分と同じくらい物好きな誰か他の人が書いてくれたらいいなあ……と思う。
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