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2014年12月16日01:23

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岩崎書店版『タイム・マシン』は問題作だった(1)

 11月初めから懸案だった『タイム・マシン』についてとうとう書いた。あまりに長いこと書けなかったので、このままだと永久に書けないのではと恐怖を感じ始めたからである。

 H・G・ウェルズの『タイム・マシン』を知らないSFファンはいないだろう。たとえ何かの間違いでまだ読んでいないとしても、ストーリーは知っているはずだ。今更何か書くことがあるのか? それがあった。しかも膨大に……書いてみて自分でもびっくりである。

 今回取り上げるのは岩崎書店の〈少年少女宇宙科学冒険全集〉11巻『タイム・マシン』(西原康訳・1961年刊)だ。

〈少年少女宇宙科学冒険全集〉は1960年から1963年にかけて24冊が刊行された。石泉社〈少年少女科学小説選集〉、講談社〈少年少女世界科学冒険全集〉に続く、日本で三番目の翻訳児童SFシリーズである。
 このシリーズで紹介された作品の一部は、その後〈SF少年文庫〉、〈SFロマン文庫〉、〈SF名作コレクション〉とパッケージを代えながら再刊され続け、現在でも何点かは当時のままのテキストで読むことができる。実際、現在でも新刊で買える〈SF名作コレクション〉にも『タイムマシン』がある。とすればわざわざ高価な1961年版で読むまでもないだろう、と思っていた。

 思っていたのだが、いざ実物を見たら驚いた。全然違っていたのだ。
 まず、表紙を見ていただきたい。
 ヘルメットをかぶった二人の人物。これだけで原作を知っていれば「あれ?」と思うだろう。こんな場面、「タイム・マシン」にあったっけ? そもそも、こいつら誰?
 そう思って登場人物紹介を見ると――


>ジュリー まだ十三才だが女流登山家になりたいという冒険ずきな少女。四次元の世界を征服しようと夢みてタイム・マシンにのりこむ

>ポール 「一流新聞記者だっていつも命の危険をおかして働いているんだ。ぼくは博士といっしょにいって体験談を書くんだ」


 そう、表紙の二人はこの物語の「主人公」だったのだ! てっきり現行の『タイムマシン』と同じだと思っていたら、全然違う翻訳だったわけである。
 最近はあまりないが、当時の児童向け翻案では、原作にない少年少女を主役にするのはよくあるパターンだった。ではあるが、現行の刊本と同じ内容だとばかり思いこんでいたから、すっかり虚をつかれた。では、主人公のはずの「タイム・トラヴェラー」は? そこで登場人物紹介をもう一度見たら……

 サイエンス博士!!

 お茶の水博士以来、いろんな「博士」を見てきたけれど、これほどインパクト(笑)のある博士は初めてだ。これだけでも買った甲斐があった(嘘)。

 まだ本文にも辿りついていないのに、むらむらと興味が湧いてきた。では本文にGO!

 第一章のタイトルは「気ままクラブ」(!?)……何というか、読む本を間違えたかと心配になる章題である。


>ポールもジュリーも、博士のほんとうの名前をしらない。
>だれもが、博士をサイエンス博士とよぶ。サイエンスとは、科学ということだから、科学博士というわけだ。


 「サイエンス博士」という名前の説明はこれで終わり。(これだけかよ!)
 まだ1ページ目なのに、「駄目だこりゃ」の心境になってきた。だが気を取り直して先へ進もう。
 で、気ままクラブとは何かというと……


>毎週木曜日、博士は邸の大広間を開放して『気ままクラブ』の会場にあてる。
>ロンドン市内の知識人のほとんどが、ここにあつまってくるのだ。
>コーヒーをすすり、ぶどう酒をのみながら会員たちは、この会の名前のとおり、気ままにおしゃべりするのだ。


 この説明は、要するにサロンである。そういえばこの種のサロンはヴェルヌ作品にも出てきた。『月世界へ行く』の「ボルチモア大砲クラブ」や『八十日間世界一周』の「改革クラブ」も同様なサロンである。フランス啓蒙思想時代には哲学者・科学者がサロンの花形だったことを思い出せば、タイムトラヴェラーという「科学者」が座の中心なのも分かる。しかし原作は何の前置きもなく、いきなりタイム・トラヴェラーの長口舌から始まっているのだ。サロンの伝統がない日本の、それも小学生が読んで、何のことか分かるわけがない。だから西原康はこのクラブが「サロン」であることを説明する文を付け足したわけだ。
 これはある意味有難い補足だ。実際、この文を書くまで私自身、そんな背景にはまったく気づきもしなかったんだから。
 ……しかしだ、「サロン」を「気ままクラブ」と訳したのはこの人だけじゃないだろうか。(もしかしたらこの訳者、凄い才能の持ち主だったのかもと思えてきた)

 うわ、本文が始まってまだ2ページじゃないか。もっとペースを上げないとやばいぞ。

 4ページ目。章が改まり、ようやくサイエンス博士が時間について講義を始める。原作はここから始まっているわけだ。議論は簡略化しているが、流れは原作通りだ。しかしこの本では、ポールとジュリーが博士と一緒に時間旅行しようと決心する。当然博士は危険だからと反対する。しかし――


>「一流新聞記者だって、いつも命の危険をおかして働いているんだ。ぼくは、博士といっしょにいって、体験談を書くんだ。その原稿をおとうさんの新聞社に買ってもらう。どうだい、すばらしい考えだろう」
>「あたしだって、ぜったいいくわ。女流登山家だって、いつも、命の危険をおかして、山をせいふくするのよ。あたしは、山よりもすばらしい四次元の世界をまずせいふくしてから登山家になるわ」
>ふたりの夢は、どこまでもふくらむ。


 実に何とも、大らかである。この単純素朴で前向き(笑)な行動原理が何ともいえない。博士を説得する方法がまたすごい。二人は父親が書いた「証明書」を博士に渡す。


>「サイエンス博士、ごめいわくでなかったらふたりにあなたの研究のお手つだいをさせてください。どんな危険なことでも、このふたりは、かならず、しとげるでしょう。ポールとジュリーの父」

>よみおわった博士は、にっこりわらって右手をだした。


 この場面も相当変だ。どこの世界に、他人に自分の子供を「どんな危険なことでも」やらせる許可を与える親がいるか。(それで納得する博士も博士である)

 こうしてタイムマシンに急遽もう二人分の座席を取り付け、3人は未来へと出発する。時間旅行の描写はほとんど原作と同じ。昼と夜が目まぐるしく交代し、やがて灰色に溶けあってあれよあれよという間に80万年の時間が飛び去っていく。博士はそろそろタイム・マシンを止めようと言い出すが……


>「では、そろそろバンドをゆるめておいてくれたまえ」
>「え、バンドをゆるめるんですか?」
>「そうだよ、ポール君。とめたときのしょうげきで、もしこのタイム・マシンがころがってしまったら、わたしたちは、その下じきになって、つぶされてしまう。バンドをゆるめておけば、しょうげきがひどければ、タイム・マシンから、とおくへとばされて、打身だけですむからね」


 ……頭が痛くなってきた。
「シートベルトを締めなければ車から投げ出されるので命が助かる」って、科学者の言うことか。まして誰も経験したことがない「タイムマシンの事故」が打身ですむ根拠って何? 下敷きになりたくないならマシンに屋根をつければいい。そもそも肝心な事故の時にシートベルトを外すなら何のためのベルト装備?
 
 なぜこんなやりとりがあるかといえば、原作には主人公がパニックを起こして急にマシンを止めてしまい、投げ出される場面があるからだ。もちろんベルトなどない(原作のタイムマシンには「サドル」がある。自転車に近い形らしい)。原作と同じ展開にするために理屈をつけた結果、かえって変になってしまったわけだ。

 というわけで三人はマシンから放り出されてしまうが、ヘルメットをかぶっていたので気を失うだけですんだ。(もう分かりましたね。表紙の二人がヘルメット姿なのはこのシーンのため「だけ」だったのだ!)それからどうなるかと思ったら、単に三人とも意識を取り戻して合流するだけ。それもわずか4ページで。だったらそんなシチュエーションいらないのでは……

 ここまでで開巻わずか50ページ。そろそろどんな本か分かったろうか。訳者が「子供向き」にするために付け加えた要素がことごとく変で、ツッコミ出したらキリがない代物なのである。
(というか、もうツッコむの疲れてきた……)

 以後もこの調子で、原作通りのストーリー展開で安心していると、いきなりズコーなオリジナル要素が飛び出してくるの繰り返しである。ある意味すごくスリリング(笑)な読書体験が味わえる。

 それにしても、なぜこんな本ができてしまったのだろう。考えてみればウェルズの原作は子供向けに語ることが難しい作品である。登場人物は事実上主人公一人、他にストーリーに関係するのはかろうじてウィーナくらいで、普通の意味の「人間ドラマ」は皆無に近い。ストーリーを一見すると奪われたタイムマシンの捜索、地下世界下り、モーロックとの戦いと、一応冒険物語らしい体裁は揃っているが、みんな主人公の単独行動で、やっていることは基本的に状況の観察と推測だけなので、活劇的な場面でさえ妙に静的な印象で、劇的な盛り上がりには乏しい。
『タイム・マシン』において真に劇的な要素は、未来世界の本質を理解しようとする主人公の認識の変化自体にあるのだが、そのままの形では小学生には理解困難かもしれない。訳者の西原康はたぶんそう思って、原作にない少年少女を加え、認識の変革を科学者と子供たちの対話という形で少しでも「ドラマチック」にしようと試みたのだろう。

 それはそれで合理的判断と言えるが、〈宇宙科学冒険全集〉のラインナップ全体で考えてみると、やはり不釣合いに見える。他の巻は大体においてジュブナイルの原書をそのまま翻訳しているようで、翻案があったとしても、せいぜい子供向きでない部分を省略する程度。本書のように大人向けの小説を無理に子供向けに作り替えたような例はほとんど見当たらない。
 本書は文章・展開・人物造形の全てにおいて、シリーズの他の巻よりも目に見えて古臭く感じられる。実物は読んだことがないが、昭和20年代の少年小説に似ている気がする。
 とすると、本書は10年くらい前に没になっていた翻訳を、今回のシリーズに何とかして紛れ込ませたものと推測できないだろうか。今となっては知るすべもないが、そうでも考えないと、本書が他の巻と明らかに調子が違っていることを説明するのは困難だ。

 さて、ともかく三人はエロイ族に迎えられるが、タイムマシンが何者かに隠されてしまう。溺れかけていたウィーナを助けるが、ただし助けるのは博士ではなくジュリーである。ウィーナと打ち解けたジュリーはたちまちエロイの言葉を覚えてしまう。一方、博士はエロイの言葉を知ろうともしない(だから何故?)。ジュリーはエロイがモーロック族(この本では「モオロック」と表記)を恐れていることを知る。三人は手分けしてマシンを探すが、ポールがモオロックに攫われてしまう。博士とジュリーはポールを救うために博物館で見つけた階段から地下深くへ下っていく。


>「これで百二十段だから、地下百二十メートルのところだな」博士がいった。博士は階段を数えていたのだ。

(一段1メートルの階段!?……お願いだからツッコませるのもうやめて……)

 地下世界もおおむね原作通りで、博士とジュリーはモオロックが火を恐れて手出ししない間にあちこちを探検し、地下世界の姿とモオロックの真相を推測する。その様子はほとんどRPGのダンジョンである。というよりRPGがこういう小説と同じわけだが。
 やがて二人は囚われのポールを発見するが、とうとうモオロックが襲いかかってくる。脱出の道を探すうちについに松明の火が消えかける場面はなかなかの迫力だ。この辺は原作よりも、その後に大量に書かれた秘境冒険小説の雰囲気がある。


 ……さて、当初の予定では、こんな調子で面白おかしく紹介すれば事足りると思っていた。しかし実は本書はそんなに生易しい作品ではなかったのである。以下、これまでとは全く違う方針の元に、この本が単なるネタ本では終わらないことを示す。(続く)
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