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2024年05月22日01:28

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5/21 ヴァルチュハ/読響 マラ3

指揮=ユライ・ヴァルチュハ
メゾ・ソプラノ=エリザベス・デション
女声合唱=国立音楽大学
児童合唱=東京少年少女合唱隊

マーラー:交響曲第3番 ニ短調

ヴァルチュハは3回目。前に住んでた街でも彼は首席客演指揮者だったが、何かでネガティブ印象を受けて(コンサートだと思ってたが違ったらしい。映像?)、しかも彼の公演日はことごとく他の競合公演に競り負けて、結局実演体験は2回に留まった。ただ、日記を読み直すとこの2回はいずれも好印象だったらしい。(こういう時これまでの書き溜めが役立つ)

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KO以外にもDOB管でもタコ8やってたとは。でもまあ競合相手が影@ウィーンだったら、負けるよな…
これ以外にも読響マラ9は映像で見て(これ何で行けなかったんだっけ。出張?仕事?90分圏外への恐怖?)これいいなーという印象も得て、それなりの当たり確証を持って4連戦の初日へ。

そこでまさかの大ハズレを掴むとは…
ホルンの斉奏の後のトロンボーンのモノローグ、その後の木管による別主題の提示の辺りで早くも、ああ今日は外した、残り95分(と8000円)をドブに捨てた、もう演奏はいいがこの後緊急の仕事が入ってたらどうしよう、この演奏のためにミソ付けるなんて勘弁、と悶々。
この指揮者が能力あるのはわかる。このとにかく大規模な作品がこうもクリアーに響くのは稀有な体験。ただ、この整理整頓に何ら意味・意図を感じない。対位法的な絡み、複数旋律への配慮といったこの作品で最も肝心なところを悉く軽視/無視した結果、この作品の多層性、多彩さがバッサリ切り取られ、更にこの作品の唯一無二の魅力たる「世界全部を描いてやろう」という気概、スケール感も感じない。これらを切り捨てた結果得られた対価が何なのか、さっぱりわからない。この作品は、というか少なくとも自分が抱く作品像は、こんな一直線・単細胞な世界ではない。
また、テンポ設定にも不自然性を感じざるを得なかった。ここそこまで遅くする?という疑問が多々。おそらく物理的にはバーンスタインの後期録音(私にとってのベストでは無いが)、あとそれこそレヴァインの方が遥かに所要時間は長かっただろうが、これらにはそのテンポを取る必然性が自明だったのに対し、今回のはそれを感じず。あ…また滞留ですか…?との印象、からの意味を感じない不整合なギアチェンジ、の連続。

そしてこの作品は(以前も書いた気がするが)両端楽章が肝。第一楽章で失格点を出してしまうとリカバリーも難しい。折角アルトが(美声でも声楽的にハイレベルでもないが)ニーチェのテキストの咀嚼で見るべきものがあっても(北米大陸が活動範囲の人らしい。たまーにあの音楽圏でもこういう歌手いるんだよなあ…)、焼け石に水。
ただ第六楽章は、(事実上勝敗既に決した後ではあるが)丁寧な各パートへの指示が功を奏したところはあって、感動とまでは言わないが良い音楽ではあった。ヴァルチュハには次の機会は間違いなく設ける。ただ、7年前同様、他の予定との兼ね合いかな…

公正を期すため言っておくと、自分のマーラーのストライクゾーンはかなり狭い。一般的にマニアが狭くなる傾向のあるブルックナーやワーグナーは自分はかなり寛容だが、マーラーはそうではない自覚はある。ただそれでも直近の演奏会数回(井上/新日本、Lヴィオッティ/BPh、ティーレマン/SKD、レヴァイン/SKB)で得られた多幸感・法悦感を今回は全く感じなかったのは事実。これらの演奏もスタイルは様々であり(第一楽章40分越えの無限の時空拡張レヴァイン、角笛交響曲の本質と分際をよく理解したティーレマン、とにかく歌なロレンツォ、幻影の青春な井上)、必ずしも方向性の問題ではないかと。

凶暴な暴言はオーケストラにも(笑)。自分が前回東京に住んでいた2005-14年は、自分は一貫して在京オケの多様性を支持ずる立場だった。ただ、何で当時の自分が支持していたかの理由も理解しつつ、正直こういう演奏が続くと、もう、ちょっと厳しい。オケ全てに不満があるわけではないが、音を外すうちに音価への配慮がぶっとぶ程パニックに陥るポストホルン(あの旋律、冷静に考えるとかなり込み入った音価であって、そこをパニックでめちゃくちゃにやられると…)、それまでの90分強の実績から第六楽章終盤で「あの弱音ハイトーン出るかな?出るかな?…一応出た、あぁ良かった…」と別の意味で耳をそばだてざるをえないトランペット。超絶技巧を要求しているわけではない。高音の最弱音が簡単では無いのは分かる。ただ一回きりの金を払っている以上、この大事な作品でこんなことに気を紛らわされたくない。在京にそのレベルの金管奏者がいないのなら、かつ、この演奏を恥ずかしいと思わないでいられる(かつ、それを許容する)土壌が今の東京にあるのなら、やはり必要なのは整理統合だろう。それぞれのオケの伝統・歴史も重要だが、そのノスタルジーのために弱者連合の温存で現在世代が割を食うのは勘弁。世評では好評だった前週のマラ9も(自分は金曜日組だったが)自分は必ずしも満足していない。自分はまた遠からずこの街を離れるが、戻ってきたときにはちょっとは状況が改善していることを願う。
(この日記を読まれている方なら、自分がブランドオケ信者、純米大吟醸主義者でないのはお判りいただけるかと。前に住んでいた街では4+1オケをまんべんなく聞いていたし、その前の街では単一オケの弊害を思う存分満喫した…)

終演後の評は面白いほど真っ二つ。早々に出てきた面々は拍手をせずに退場し、一方で一般参賀に参加して出てきた方々も。
ただ、これもいつも書いていることだが、こういう趣味嗜好の世界の鉄の掟は「満足したもん勝ち」…

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