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2024年02月16日19:34

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【2001年8月】横浜からのマンネリ西日本旅

生命科学研究所の成果とヒトゲノム解読の完了を受けてゲノム創薬を目指すプロジェクトが発足し、関西学研都市から横浜市青葉区の研究所に出戻って4か月が経過していました。創薬のターゲットとなる酵素タンパク質の作製、三次元構造の解明、新薬のリード化合物創出の三本柱は「絵に描いた餅」でした。コンピューター・ケミストリーが専門で農薬、高分子、触媒分野を渡り歩いたはずの私は、バイオとITの融合分野に転向させられ、酵素タンパク質の三次元構造に基づいたリード化合物設計に従事することとなりましたが、テーマ探索の段階では差し当たっての仕事はありません。生化学やタンパク質構造、ついでに人体解剖学まで参考書を購入したり、文献を収集したり、インターネットで情報を検索したりして会社での時間を過ごしていました。

渋谷へも横浜みなとみらいへも1時間以内で行けるので、平日の夜にクラシック音楽のコンサートに出かけることさえ可能になり、音楽鑑賞の対象も生演奏の割合が増加していきました。二年前から参加していたクラシック音楽の掲示板のメンバーにヴァーチャルなスペースだけでなく、コンサート会場でもリアルでお会いして音楽談義に興ずるようになり、コンサート通いに拍車が掛かります。5月から7月までの3か月間に横浜みなとみらいホールに6回、渋谷のオーチャードホールに1回出かけています。

一方、気に入っていた東急沿線の生活が戻ってきたことで旅人としてのパワーダウンも感じます。関西在住の3年間は、京都、奈良、大阪、神戸だけでなく、車で四国、九州、北陸、山陰・山陽まで遠出して西日本旅行を満喫し、北海道や東北には空路で向かったりしていたのですが、持病の悪化や日常生活と研究生活の停滞も影を落として気力が低下しつつありました。関西への「逆ホームシック」という奇妙な感情は、転勤前にチケットを購入していたシンフォニーホールでのコンサートを大阪に舞い戻って聴くこと3回、残務整理で関西学研都市の研究所に出張すること2回、ゴールデンウイークの二泊三日の京都の旅で解消していきました。

盆休みの旅行は、社会人の仲間入りした平成元年に山陰/山陽を旅して以来、恒例の行事となっていたので、横浜に戻ってきて自分本来の会社生活の息抜きのマンネリ化した一人旅でも良いかと、初心に帰って西日本のお馴染みの場所を巡る旅に出かけることとしました。以前宿泊したことのあるユースホステルばかり、倉敷、広島、北九州、ルノワール(瀬高町)の4か所を予約しました。その先の予定は立てずに旅先の気分に委ねることにします。旅の出発は8月10日(金)と決めました。クラシック音楽の掲示板の参加者のオフ会が、7月の下旬の横浜散策、8月上旬の江戸川花火大会と続きます。

前日の夜は3年前に知床のユースホステルで出会ってラウス岳登山をご一緒して以来、大阪や京都で何度か再会した真希さんに電話しました。前月に北岳の登山に出掛けて山上に一泊、天気は良かったけれど山頂がガスっていて景色は今一つだったとのこと、9月下旬に大雪山の紅葉を見に行く予定ですが、見頃は過ぎていそうなのを残念がっていました。タワーレコード横浜店で購入したばかりのクラシックのCDを一枚聴いた後、社員寮の自動販売機からのエビスビール500ml缶を飲んで就寝したのが午前1頃です。当日は5時少し前に起床、長津田駅が混雑していたので先行き不安でしたが、新横浜駅で「のぞみ」の窓側席に乗車できました。腹具合が若干悪く、喉の不調も残っていました。

名古屋までの1時間半の乗車で睡眠不足はあまり解消できません。名古屋で新大阪行きの「こだま」に乗り替えていた理由に記憶がありませんが、名古屋を出発した8時40分に昨夜からの行動の日記を記しています。新大阪から新快速電車に乗り姫路で下車したのは11時頃でした。早めの昼食として駅の下の店で食べた鰻は江戸前で、四日市でお馴染みの脂を落とさない本来の関西風の鰻には三年半ご無沙汰しています。姫路城へ向かう途中、アーケード街で正露丸を購入しました。

姫路城を訪れるのは12年ぶり二回目、平成最初の春の卒業旅行で四国を回った帰りに倉敷に一泊した翌日、関東に戻る前に西日本に名残を惜しむかのように姫路、神戸、大阪に立ち寄って以来です。その旅行では、四国に渡る二日前に大垣行きの夜行列車の車中で隣り合わせた人に勧められて、列車を降りて最初の訪問場所が彦根城となったのですが、日本の古城の魅力に取りつかれ、四国では高知城と松山城を訪れ、帰路で姫路城の威容に圧倒されたことで城めぐりが旅のハイライトとなる一人旅のパターンが出来上がりました。創建当時の天守閣を残す日本の城、全12か所で最後に制覇したのは1995年の10月に豊橋での学会に参加した帰りに訪れた犬山城でした。

四国の旅が気に入って松山城と高知城と宇和島城はお馴染みとなっていました。日本の城の最高峰に他ならない姫路城ですが、漆喰が少し黒ずんで写真ほどは美しく感じられず、再会の喜びも今一つです。建物をつなぐ長い回廊を歩けるのが魅力ですが、平成期の修理でオレンジ色の板張りが尖っているところもあり多少興ざめでした。天守閣からの眺めは文句なく、鬼瓦を近景とした姫路の街や緑の中に見下ろす回廊を撮影しました。カップルや外国人の観光客も多く、外国人同士の「Where are you from?」という会話も耳にします。城内には長槍と鉄砲と縄も多数展示されて、築城が戦国時代からまだ隔たっていなかったことを物語っています。

姫路城まで歩いただけで汗だくになり、12時半頃に城を後にしましたが、汗まみれのシャツは山陽本線を網干、上郡で乗り継ぐ間も乾きません。姫路滞在時には曇っていたのが、電車に乗っている間に大雨になりましたが、上郡駅で乗り継ぎの電車を待っていた14時頃に止みました(姫路での時間の日記の記述があります)。関東では水不足が続いていたので、西日本の雨が東に移動することを願いました。待ち時間と乗車中に読んでいた「創薬の狩人」という本は今後の業務に関連した自伝風の読み物でしたが、移動中に読み終えて「薬物受容体の基礎」という医薬の作用機構についての専門書を読み始めました。旅先にも仕事への思いを引きずるような旅人になっています。

岡山到着は16時近くになっていました。雨は傘を差すほどではありません。路面電車で岡山城の近くに到着するのはあっという間です。運転手は四十代らしい女性でした。停留所の近くに「岡山シンフォニーホール」があり、この日は音楽以外のイベントが行われていました。11月のブーニン(1985年のショパンコンクール優勝者)とワルシャワフィルとの協奏曲のコンサートのポスターを見かけました。CDショップのクラシックコーナーもそれなりの品揃えです。

後楽園を訪れるのも13年4か月ぶりです。前回は社会人になる一年前、学会で訪れた金沢とその後の能登の旅で一人旅に目覚めて半年後、初めての本格的な一人旅として山陰・山陽を回った旅の最終日(3月31日)でした。尾道、広島、松江、鳥取、津山と盛り沢山な旅程ですが、初めて訪れた西日本の街はそれぞれ新鮮な印象を残したのでした。後楽園の芝生が緑の盛りで小高い丘となって、岡山城の真っ黒な姿が覗くのも良い風景です。マンネリの退屈な旅でも良しとして出発したのですが、後楽園の景色に十分な心の安らぎが得られました。園内を一周くらい回った後、岡山駅に戻り倉敷に向かいました。

倉敷駅に着いた時、少し雨が降っていました。倉敷美観地区までアーケード街を抜ける道を歩きます。商店街の掲示板に仲道郁代の「音楽教室」とラトル/ウィーンフィルのコンサートのポスターがあり、クラシック音楽の愛好者のレベルの高さを物語っています。倉敷を訪れるのは4年ぶり4回目です。関西生活3年間、四国や九州まで車を走らせる際に岡山県を素通りしていたようです。倉敷美観地区の風景はもう見飽きたつもりでしたが、白壁とお堀の風景に柳の緑も映えて雰囲気が良く今までの旅の懐かしさもこみ上げてきます。アイビースクエアの蔦の葉の茂り具合も真っ盛りで、緑の葉の成分が降りかかってきそうです。4年前はユースホステルで同宿の三名でビアガーデンに繰り出したのですが、今回は雨の影響で屋内のビアホールのみの営業となっていたのが残念です。

美観地区から墓地の中の裏道を登って倉敷ユースホステルに到着したのは18時頃でしたが、汗だくでシャツがじっとりと濡れて重くなり目の前も霞んできそうでした。受付を澄ますと風呂に直行するしかありません。YHの夕食は4年前の前回、12年前の前々回と同じく品目の多い和風で、棒棒鶏と胡瓜を味噌で和えた物、オクラなどが並びました。夕食の席のホステラーは男性ばかり3名でした。同室の横浜からのライダー(NEC社員、長津田在住)と旅行についての話題で話し込みました。毎晩終電での帰宅になるくらい多忙だそうです。四国を走ってきた帰りで雨にも祟られ、キャンプばかりでYHのような屋根のあるところに宿泊できるのも有難いくらいの厳しい旅だけれど、高知では美味しい鰹の丼にありついたそうです。

同行したマルチーズを外につないでいる母子の二人連れ(犬は夜間も何度か吠えていました)、YH初登録で連泊を申し込んだ若い女性二人旅がいます。背の高いスリムな美人の二人組で、「こんにちは!」と愛想良く挨拶した後は居室に引きこもりそれ以上のコンタクトはありません。

11時頃の早めの就寝。翌8月11日(土)は8時に出発しました。晴天で美観地区の柳の緑が映えて魅力を増します。アイビースクエアの裏通りには瓦屋根のアンティークショップがあり、ビクターのロゴのような犬の置物が30体ほど屋根から見下ろしています。美観地区の裏手にも白壁や土壁の古い街並みが広がって、小ぎれいで観光地的な美観地区よりも生活感があるだけ味わい深く見飽きません。

大原美術館を訪れるのは三度目でした。初回は平成元年の春の卒業旅行の四国の帰り、二度目は4年前の四日市からの車での四国旅行の途中でした。二時間くらい時間を掛けてじっくりと鑑賞しました。以前の印象より所蔵の名画の充実ぶりに目を見張りました。ヴラマンク、モネ、ルノワール、シスレー、ユトリロ、ピカソなど印象派を中心としたコレクションに感動を覚えます。別館の展示も如何にも日本女性らしい日本画や色使いの斬新なデフォルメされた猥画など一見の価値がありました。工芸館の陶芸品も木造の建屋の味わいも相まって迫力を感じましたが、芸術品の鑑賞の気力が尽きました。期待を超える収穫のあった倉敷滞在を終えたのは午前11時でした。

11時半の電車で1時間後に尾道に到着。平成元年の盆休みの旅行以来11年ぶりの再訪です。その間に駅の西側に大きなショッピングセンタービルが出来ていましたが、東側に広がる尾道観光の中心となる古い街並みは少しも変わっていません。昼食は駅前で「尾道ラーメン」を食べました。麺が白っぽくて蕎麦のような食感です。スープは中華風ですが飲みやすい味です。付け合わせに頼んだ餃子はニラやニンニクなど味の強い食材が入っていなくて、肉団子のような柔らかい味でした。

尾道の三回目の散策は暑さで坂道の上り下りが辛くなりますが、晴れていたので向島を見下ろす景色も良く、海の色も美しい青色が映えています。坂道の写真撮影に熱中しました。志賀直哉旧宅は日本文学館と共通の切符で見学できました。どちらも年配男性の案内人さんが親切で団扇を貸してくれたりします。日本文学館の縁側でしばらく休みました。広島弁についての話、不景気で向島の造船所の一つが閉まり、もう片方も音が聞こえることが少なくなったという話などを聞きました。尾道の街への愛着は強いそうです。千光寺へはロープウェイを使わずに登りました。12年前の旅で記念写真を撮ったのは林芙美子文学碑の前だったのですが、場所を覚えていなかった(千光寺とは反対方向)だったので今回は再訪が叶いませんでした。

尾道の散策は2時間ほど、坂道を降りてからアーケード街をかなり歩いて尾道駅に戻りました。新しい駅ビルの書店を覗きました。どぎついエロ雑誌も結構置いてあります。山陽本線で広島に到着したのは17時半頃でした。路面電車に乗り八丁堀で下車し「お好み村」を目指して歩きます。8回目に行くので油断して土地勘が狂いスナック街をしばらく彷徨いました。今回は4階の店へ入りました。スリムな女性が一人で切り盛りしていると思ったら、まもなく太った主人が入ってきました。来店した芸能人の色紙もいっぱい飾られています。今の居住地の青葉台に行きつけのお好み焼き屋があり、話好きのマスター(千葉出身)の本格的な広島風お好み焼きが食べられるので気に入って通っているのですが、本場の味には敵わないことを実感します。小麦粉の下地が厚めで焼そばの層も厚くてボリュームがありました。生ビールも二杯お代わりして、暗くなってから店を出ました。

広島ユースホステルへはバスを利用しました。運賃は220円、最寄りのバス停から800mも歩かなくてはならず、暗い中でYHに至る坂道の入り口を間違えたりしました。ここも二回目の宿泊(12年ぶり)、少し老朽化した建物で受付の若い女性の対応も事務的な口調でした。高校の野球部の合宿らしい一団もYHに宿泊、女子マネージャーが二名、勉強道具を携えての参加です。チェコから来たという50代くらいの夫婦がカメラを向けたり、住所や年齢を聞いたりと構っています。松江から来たそうです。旦那さんは更に女子高生の手を握ったりしてスキンシップを示していますが、令和時代ならセクハラ行為に該当するかもしれません。

広島ユースは外国人ホステラーの宿泊が多いのも特徴ですが、日本人の宿泊者も少ないわけではなく、一人旅のホステラーと四国や北海道の夏の旅について語り合ったり、外国人と日本人の異文化交流の談笑に加わったりして消灯時間までの有意義な時を過ごしました。見かけは日本人とあまり変わらない三人組の男たちはカンボジア人留学生でした。白人のカップルは男がフランス人、女がブルガリア人で二人とも日本語が少し話せました。語学学習の話、日本の観光名所、フランスの特急列車の改札の話、東京での暮らしの話などで時間が過ぎていきます。

翌8月12日(日)は9時少し前にユースを出ました。広島市内にモノレールが開通して三年になりますが、使い勝手が分からないので試乗は見送り、平和公園の近くまでバスで移動しました(220円)。昨日に引き続いて晴天で散歩日和の中、原爆資料館を見学した後、原爆ドームの周囲を歩き、瓦礫の散らばった内部の写真も撮影しました。

広島には11時頃まで滞在、岩国に向かいます。錦帯橋までのバスの本数は多く時間もあまり掛かりません。錦帯橋の木を踏む感触が心地よく、激しいアップダウンに前を行く人の姿も見え隠れするところに情緒を感じます。橋下に流れる川の水が澄んで泳いでいる人の姿もあります。橋を渡った先に「佐々木屋小次郎商店」があり伝統建築風の小ぎれいな店構えです。ここで「岩国定食」を昼食としました。入店のタイミングが良く、食後には行列ができていました。伝統的な日本建築の一帯があり橋以外にも見どころがありそうですが、岩国名物の白蛇を見るのは遠慮して(蛇が苦手)岩国駅へ戻りました。

二日前の新大阪からずっと在来線での移動が続いています。16時40分から下関行きの列車の中で岡山到着から尾道の散策直前までの日記をしたためています。小倉には明るい内の到着です。風俗店やストリップ劇場のある駅前の繁華街を抜けてアーケード街を市場の前まで往復しました。腹が減っていましたが駅ビルの回転ずしに入る気がなかったのでアーケード街に引き返して、地下の小さな寿司屋に入ります。上寿司を頼み、鯵、イカ、タコ、アナゴを追加し、日本酒ではなく焼酎の水割りを飲みました。

八幡駅に着いたのは午後8時頃です。YHのガイドブックを片手に持った女の子と同行して曲がりくねった坂を登ります。まだ酔いが残るせいか、一度道を間違えて墓地に入り込みそうになりました。同行者は岐阜出身ですが仙台の短大に通う学生さんで、国内旅行の経験は少ないけれど東南アジアの旅行の経験があるそうです。北九州ユースホステル(宿泊は三度目)に到着した時は汗だくでシャツがすっかり重くなり、受付でペアレントさんにまず汗を拭きなさいと言われました。ペアレントさんは奈良ユースや伊勢志摩ユースなどの設備の整ったYH協会直属の場所から移ってきた人ですが、宿泊者の管理や規則にうるさい人という評判も聞いたことがあります。

この日のホステラーは「ハズレ」です。館内が賑やかなのは北九州の大学のゼミ合宿があったからでした。50代くらいの人の良さそうな教授が一名、15名くらいの学生中、女子は二名、二人ともゼミのメンバー以外と話をしませんが、愛想は良くてきちんと挨拶するので悪印象はありません。10時半頃まで酒盛りで談話室兼食堂を占拠していました。一般のホステラーの女子二名はユース到着までの同行者も含めて居室に閉じこもって出てきません。同室のホステラー三名の内、男二名は二人で固まって他の人とコミュニケーションを取るつもりがなさそう、もう一名はずんぐりしたメガネのオタク風で全く口を聞かずに寝転がってばかりです。オタク男がライダーだと翌日知ったのは驚きです(ライダーは宿ではハイになって情報交換に夢中になるのが通例)。手持無沙汰なのでジュースやビールを飲んだりしていましたが、持病の具合が悪化するのを感じたので倉敷で買い足した薬を処方しました。

翌8月13日(月)の朝食は、サラダ、スクランブルエッグ、ソーセージと量、味ともに良質でフルーツ缶、ブルガリアヨーグルト、オレンジジュース、コーヒーも付いて充実の内容でした。同室のオタク男が肘を付いて黙々と食べていて気色悪いので離れて席を取りたいと思ったら、女性スタッフに「向かい合って座ってください!」と注意されました。女の子たちが隣のテーブルに来るからだそうです。オタク男と隣り合せで女の子二人と向かい合う「合コン」スタイルは許されませんでした。結局、女の子二人は寝坊したのかメイクに追われているのか姿を見せず、美味しい朝食の時間も黙りこくって過ごすしかありませんでした。

出発は8時です。市内を見渡せる皿倉山に登れる帆柱ケーブルは営業前でした。9時頃にやってきたディーゼル車(本州から渡ってくる途中、トンネルでのトラブルで1時間遅れていたらしい)に乗り込んで博多まで乗車、博多駅から中州まで歩いて「かろのうろん屋」に入りました。1992年のGWに初めて入ってから6度目ですっかりお馴染みです。以前に比べてうどんが少し細くなったように見えたのは気のせいだと思います。海老とゴボウの天ぷらが揚がっていないと言われたのできつねうどんを頼み、今回も青ネギをたっぷりと入れました。いくら入れてもなぜか止まらなくなり、どんぶりに盛られたネギを半分くらい消費しました。スープもすべて飲み干して店を出ました。

中州を抜ける間に風俗店の客引き二人に声をかけられてつきまとうのを振り切って天神に出ます。CDショップに二軒寄りました。HMVは広い店なのにクラシックの品揃えは今一つ、別の店の方がクラシックについては充実していました。以前、探していたオペラのCDを見つけて購入したことのあるヤマハ福岡店は残念ながら定休日でした。西鉄の特急に乗って久留米に着いたのは13時頃でした。九州を旅する時のお約束として順光寺の先祖の墓参りに向かいます。炎天下を避けてアーケードの下の道を選んで歩きます。小さな瓶が転がっていたのが丁度良い大きさだったので、菊とユリの花を近所の花屋で買って供花に使わせて頂きました。石橋美術館(現在は久留米市美術館)まで行ったもの休館日だったのでバラの花のわずかに残る庭を一回りして久留米駅へ戻り、駅ビルの「祇園茶屋」という喫茶店で休憩し、尾道の散策から久留米の墓参りまでの日記を書きました。

西鉄久留米駅から3kmの道を歩いて久留米城址に向かい、筑後川に沿った道をJR久留米駅まで歩きます。また汗だくになってシャツが重くなるのは今回の旅行で何度目になったのかわかりません。筑後川に掛かる鉄橋を列車が通過する様子の撮影に二枚成功しました。川べりの道には競歩やトライアスロンなど本格的なアスリートの姿があり、年齢層も高めです。

久留米から20kmほど南下した瀬高町(現みやま市)にあるルノワールYHの宿泊も7回目になります。列車での到着は7年ぶりです。9年前(1992年GW)の初めての宿泊の時、川崎の女子ライダーと横浜の女子一人旅を含む7名で盛り上がったのが、この古い商家をそのまま残したユースホステルが定宿となるきっかけになったのですが、平成時代はペンション風の快適なユースも増えて古いタイプのユースに宿泊する人も減り、旅先での出会いのトキメキも色あせつつありました。

この日の宿泊者は男ばかり5〜6人のようで常連ばかりのようです。夕食の席についたのは3人だけ。その内一名は、平成2年夏に宿毛YHの離れで遅くまで酒を飲み、平成3年GWに北九州YHで再会し、更に四国のへその定福寺YHで再会したことのあるライダーです。宿毛YHでは鶴瓶師匠(当時はアフロヘアだった)みたいな関西人ライダーのバカ話で盛り上がったことを未だにネタにしています。バイクの旅を続けていますが事故で血まみれの大怪我をして救急車で搬送され顔を何針も縫ったそうです。最近はルノワールYHに入りびたりだとのこと。他の常連はペアレント一家との宴会、昭和のユースの伝統で禁酒だったはずですが、未成年者のホステラーがいない場合はアルコールも解禁しているようです。夕食時に再会した男からビールを振舞われました。常連さんの宴会から女の人の声が聞こえると思ったのは、元ペアレントさんのようで80歳くらいになっていそうですが声が若いようです。同室は一人だけ、横浜に住んだこともある人吉に在住の男でユースについて話込みました。

11時頃には就寝しました。翌8月14日(火)は人吉の男と二人、柳川下りを堪能することにして、8時半の送迎バスをNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」(ヒロインは国仲涼子)を見ながら待ちました。(個人的には前向きに頑張るヒロインの姿を見守ることに疲れを感じ、沖縄の女性デュオの主題歌を聴くのもしんどくて朝ドラを観るのが苦手になったことに気づいていました。)朝食に納豆が出たのを食べたのは人吉の男だけで私と常連の男は納豆が苦手なので箸をつけません。柳川下りを楽しむのは二回目です。二年前の前回は奈良からのドライブ旅でした。7km程の田んぼの中の道のりはバスでは少し遠く感じられます。前回と同じくYHの割引が効く大東エンタープライズの舟に乗り込みました。ホステラー二人で出発しかけたところで、新たな客が来たので引き返し、家族連れも一緒の7人乗船となりました。

昨日に引き続き天気が良いので気分は良いのですが、背に受ける日差しが強烈でした。船頭さんからは、柳川が輩出した人物の家のこと、柳川城の三日三晩の火災の話、柳川高校で修行したテニスの松岡修造氏の活躍、堀に沿った家々の庭の造りについて、茗荷の花など堀端で見られる色々な植物のことなど話が続きます。前回のGWに比べると見頃の花が少なくなった代わりに柳の緑が濃くなって夏の盛りを満喫しています。途中の売店でジュースやかき氷を売っている女の子二人は大柄でスタイル良くにこやかで可愛らしい感じです。一時間を超える舟遊びは充実して満足感がありますが、板の上に座りっぱなしで尻が痛くなりました。前回のように持病が悪化しなかったのが幸いです。

(コメントへ続く)
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