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2023年09月01日00:02

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09月01日の日記

今日の出来事:1600年−関ヶ原の戦い:白石城の戦い、1790年−浦上一番崩れ、肥前国浦上村の村民19人がキリシタンとして初めて検挙、1923年−関東大震災発生、1935年−第一回芥川賞・直木賞発表、1939年−第二次世界大戦:ドイツが突如ポーランドに侵攻、これに対してイギリスとフランスが宣戦し、第二次世界大戦が勃発、1951年−日本初の民間放送ラジオ、中部日本放送(CBC)、新日本放送(NJB、現・毎日放送=MBS)が開局、1973年−キャンディーズがシングル「あなたに夢中」で歌手デビュー、1983年−大韓航空機撃墜事件

今日は、関ヶ原の戦い:白石城の戦いです。1598年に豊臣秀吉が死去すると、五大老筆頭・徳川家康が次の覇者の座を狙い始めました。そして、秀吉生前の掟を破って伊達政宗や蜂須賀家政らと婚姻を結ぶなどし、次第に専横を行なうようになりました。これに、五奉行の石田三成ら反家康派が反発しました。1599年に五大老・次席の前田利家が死去すると、徳川家康と石田三成の対立は避けられないものとなりました。そして、会津の上杉景勝が年賀の挨拶で上坂せず、さらに最上義光や堀秀治らから上杉景勝が領内で軍備を増強しているという訴えがあったため、徳川家康と上杉景勝の対立が起こりました。徳川家康は上杉景勝に陳弁のための上坂を求めましたが、上杉景勝と家老・直江兼続がこれを拒否したため、「会津征伐」が決定しました。徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するため、伊達政宗に信夫口からの侵攻を命じました。信夫口から上杉領に侵攻する場合は、刈田郡に入る事になります。この刈田郡を抑える拠点が白石城で、秀吉の「奥州仕置」で没収されるまでは伊達政宗の所領でした。上杉氏の白石城代は甘粕景継でしたが、上杉景勝の命令で会津若松城に詰めていたため、甥・登坂勝乃が代理として守備していました。9月1日に伊達政宗は攻撃を開始し、城下町や外曲輪、三の丸に火をかけて炎上させました。元々、支配していた城だったため、伊達軍は城の地理に明るく、すぐに本丸を除く全域を支配しました。登坂勝乃は降伏しようとしましたが、かつて伊達政宗に滅ぼされた畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門が徹底抗戦を主張して譲りませんでした。このため、登坂勝乃は鹿子田右衛門を謀殺し、伊達政宗に降伏しました。伊達政宗は叔父・石川昭光に守備を任せると、北目城に引き揚げました。伊達政宗は勢いに乗って、駒ヶ嶺城主・桜田元親に命じて上杉領の川股城を襲わせて落城させました。桜田元親は上杉領に孤立する事を恐れて、城を焼き払って撤退しました。上杉氏は伊達政宗の前に2日で2城も失う事になりました。直江兼続は白石城奪還のため、後詰の軍勢を送りましたが、刈田郡小浜村で伊達政宗に味方する百姓・野伏の集団によるゲリラ戦で敗れました。このため、石田三成の挙兵を知って西上する徳川勢を、追撃する事が不可能となりました。

次に、関東大震災発生です。1923年9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の地震災害です。神奈川県を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大の被害を与えました。190万人が被災、10万5千人が死亡または行方不明になりました。建物被害は全壊が10万9千棟、全焼が21万2000棟です。東京の火災被害が中心に報じられていますが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生しました。
以下は、関東大震災直後の混乱中に発生した事件です。
亀戸事件:9月3日、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、9月4日〜5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件です。また、9月4日に、警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加える事もあります。「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付されました。
本庄事件:9月4日、埼玉県の本庄町(現・本庄市)では、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きました。地元の住民たちによって結成された自警団が、本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり、リンチに発展しました。警察は人員不足で阻止する事ができませんでした。この事件で50人〜100人の朝鮮人が殺されました。この事件に加わった者は、「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされました。
福田村事件:9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いで起きた事件です。香川県三豊郡の薬売りの行商人、15人の一行の話す方言(讃岐弁)が千葉県の人には聞き慣れずほとんど理解できませんでした。千葉県の人との意思疎通の際に話す標準語も、発音に訛りがあった事などを理由に朝鮮人と見なされ、虐殺が起こりました。福田村と田中村(現・柏市)の自警団8人が殺人罪に問われて懲役3〜10年の刑を受けましたが、彼らは昭和天皇即位による恩赦で釈放されました。事件の中心人物は出所後に村長となり、市町村合併後は野田市議となりました。
甘粕事件:9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝と大杉の甥・橘宗一の3名が憲兵隊に連行・殺害された事件です。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦ら5人です。東京や神奈川が混乱に陥って戒厳令が発せられていた中、大杉栄は内縁の妻・伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹・あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)を連れて東京に戻る途中、行方不明になりました。甘粕正彦大尉を軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官・小泉六一少将を停職としました。軍法会議で、事件の概要が明らかにされました。大杉栄ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)の森慶次郎曹長が3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行しました。その夜の取り調べの最中、3人は絞殺されました。甘粕大尉に懲役10年、森曹長に3年、その他殺害に関与したとされていた部下3名に無罪の判決を下して結審しました。甘粕大尉は、千葉刑務所に服役しましたが、ひっそりと釈放されました。その後、陸軍の官費で、夫婦でフランスに留学し、後に満州に渡って「満州事変」に関わる事になります。

その次に、第一回芥川賞・直木賞発表です。
芥川賞:大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が創設しました。通称・芥川賞は、年2回発表されます。純文学の新人に与えられる文学賞で、文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与されます。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は「文藝春秋」に掲載されます。第1回受賞者は、石川達三の「蒼氓」でした。
直木賞:文藝春秋社社長の菊池寛が友人の直木三十五を記念して創設しました。通称・直木賞は、年2回発表されます。無名・新人及び中堅作家による大衆小説作品に与えられる文学賞です。授賞する作品は選考委員の合議によって決定され、賞が授与されます。受賞者には正賞として懐中時計・副賞として100万円が贈呈され、受賞作は「オール讀物」に掲載されます。第1回受賞者は、川口松太郎「鶴八鶴次郎」、「風流深川唄」、「明治一代女」でした。

その次の次に、第二次世界大戦:ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発です。1939年9月1日にドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍が、ポーランド侵攻を開始しました。その後、ドイツ軍の侵攻に呼応し、ソ連赤軍がポーランド東部へ侵攻を開始しました。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが、相互援護条約を元にドイツに宣戦布告し、「第二次世界大戦」に拡大しました。ドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を完全に制圧しました。占領下のポーランドは「第二次世界大戦」を通じて、強力な「対独レジスタンス運動」を展開します。また、亡命ポーランド人部隊は連合国に対し、多大な軍事的貢献をしました。ドイツは「バルバロッサ作戦」により、ソ連占領下のポーランドを奪いましたが、反撃するソ連軍に対し、その地をまた明け渡す事になります。ドイツとソ連の5ヵ年以上の占領期間に、ポーランドの全人口の20%が殺害され、ポーランド共和国は消滅する事になりました。

最後に、大韓航空機撃墜事件です。9月1日午前3時26分、大韓航空のボーイング747、007便が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件です。乗員・乗客合わせて269人(日本人28人含む)全員が死亡しました。航路を外れた007便は、航空自衛隊の稚内レーダーサイトにより観測されていました。撃墜直後、機影が突然消えた事を捉えました。しかし、行方不明機がいないか日本や韓国、アメリカ、ソ連の各航空当局に照会したところ、前記の3国からは「該当機がない」との返答を受け、ソ連からは返答そのものがありませんでした。9月1日の朝の時点で日本政府が、大韓航空機が「サハリン沖」で行方不明になった事を公式発表しました。ソ連は「該当する航空機は国内にいない」、「領空侵犯機は日本海へ飛び去った」と事件への関与を否定しました。これに対してアメリカは、この日の内に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表しました。このアメリカ政府による正式発表を受けて、事件の当事国である日本や韓国、アメリカなどの西側諸国ではソ連に対する非難が起こり、ソ連政府に対して事実の公表を求めました。またこの日には、北海道沖で操業していた日本の漁船が機体の破片や遺品を発見しました。9月2日には、ソ連の参謀総長のニコライ・オガルコフが「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった」、「正式な手順の警告に応答しなかった」、「日本海方面へ飛び去った」と発表しました(後に、航法灯は点灯しており、十分な警告は行われていなかった事をパイロット自身が証言します)。これに対してアメリカ大統領のロナルド・レーガンは、ソ連政府を「うそつき」と非難した他、当事国である韓国大統領の全斗煥もソ連を激しく非難しました。また、多くの西側諸国の政府が、ソ連の対応を非難しました。9月6日に、「国連安全保障理事会」で、陸上幕僚監部調査第2部別室が傍受したソ連軍機の傍受テープに、英語とロシア語のテロップをつけたビデオがアメリカによって各国の国連大使に向けて公開され、ソ連軍機による撃墜の事実を改めて世界に問いかけました。9月9日には、ソ連参謀総長のオガルコフが「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった」との声明を発表しました。9月13日には、緊急安保理事会でソ連への非難決議が上程されますが、常任理事国のソ連による拒否権の行使により否決されました。当事者である韓国は当時ソ連との国交がなかった上、国連に加盟していなかった事もあり、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、国連加盟国でソ連と国交があり、かつ事件の当事者である日本(事件時に当該機の管制を担当し、さらに隣接する公海上に当該機が墜落、また多くの乗客が被害に遭った)とアメリカ(当該機の出発国であり、また多くの乗客が被害に遭った)が主に行いました。その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの一部の回収物件を日本側へ引き渡しましたが、「これ以外に遺体は見つかっていない」、「ブラックボックスは回収していない」事を主張しました。しかし、機体の破片や遺体の一部が、北海道の沿岸に事件直後から次々と流れ着いており、付近で操業していた日本の漁船などによって回収されていたため、このようなソ連による発表内容は疑問視されました。ソ連崩壊後に行われた取材で、複数の遺体とその一部および数々の遺品がソ連側によって実際に回収されていた事が明らかにされました。その全ては、証拠隠滅のために焼却処分されてしまっていました。なお、日本側に漂着した遺留品は、身元確認ができないまま2003年の忠霊祭において、遺族会の了承の元で焼却処分にされました。また、日米ソが必死になって捜索していたブラックボックスについては、実際は事件後に間もなく、ソ連当局によって回収されていました。ソ連当局は、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの分析を即座に済ませていました。日本とアメリカは、事実を知らないままブラックボックスを半年以上も捜索し続けていました。韓国では、ソ連が謝罪してくる姿勢を全く見せないため、政府によるソ連政府に対する正式な抗議のみならず、ソ連製品の不買運動など(例えばウォッカを流し捨てるか瓶ごと地面に叩きつけるか、ハンマーなどで粉々に割るなど)や、ソ連国旗に火をつけるなど、多くの市民によるソ連に対しての抗議運動が烈火の如く巻き起こりました。また事件後に多くの遺族が、それぞれの国で大韓航空に対する損害賠償のための訴訟を起こしましたが、大韓航空は賠償請求に対して「事件の原因の不可知論」を理由に拒否したため、多くの韓国人の遺族は和解に応ぜざるを得ませんでした。なお、事件後に遺族によって、宗谷岬に慰霊碑が建てられました。この事件を契機として「シカゴ条約」の改正が行われ、これにより領空を侵犯した民間航空機を撃墜する行為が、明示的に禁止される事になりました。

今日の誕生日:伊達宗城、新渡戸稲造、明石元二郎、石井ふく子、若山富三郎、小澤征爾、盧武鉉(第16代・大韓民国大統領)、バリー・ギブ(ビージーズ)、ビリー・ブランクス、グロリア・エステファン、さねよしいさ子、中村繁之、豊田和貴(SOPHIA)、土田晃之(元U−turn)、渡部陽一、三浦理恵子(元CoCo)、福西崇史、町田恵(元チェキッ娘)、森下千里、平岡祐太、桃田賢斗、アン・ユジン(元IZ*ONE)、松本わかな(アンジュルム)、空豆ピースケ、城戸沙織

今日の記念日:防災の日、くいの日、キウイの日、レビュー記念日、マテ茶の日、こいまろ茶の日、ねんどの日、ファミ通の日、だじゃれの日、イオンタウンの日

今日の「今日訓」:本日より、長月(9月)です。夜がだんだん長くなる「夜長月」を略して「長月」となりました。1923年9月1日に発生した「関東大震災」を忘れる事なく災害に備えようと「防災の日」、1927年、宝塚少女歌劇団が日本初のレビュー「モン・パリ」の初演を行った事を記念して「レビュー記念日」、「イオン株式会社」と「ダイワハウス工業株式会社」の共同出資によって設立された「ロック開発株式会社」が2011年に「イオンタウン株式会社」に社名変更を行った事で「イオンタウンの日」、紅茶、コーヒーとともに「世界三大飲物」の一つであるマテ茶の生産国、アルゼンチンで収穫祭が9月1日に行われる事から「マテ茶の日」、「く(9)い(1)」の語呂合わせで「杭の日」、「キウ(9)イ(1)」の語呂合わせで「キウイの日」、「急(9)須で淹れるお茶で一(1)番親しまれる」の語呂合わせと、2003年の9月1日に発売を開始した事から「こいまろ茶の日」、「クレ(9)イ(1)」の語呂合わせで「ねんどの日」、「ファ(8)ミ(3)通(2)」の語呂合わせで8月32日となる事から32日を9月1日として「ファミ通の日」、「ク(9)リエイティブ」かつ「イ(1)ンパクト」がある「だじゃれ」は、人と人とのコミュニケーションをより豊かなものにしてくれる「無形文化遊具」であり、「だじゃれ」が秘める無限の「吸(9)引(1)力」を活かし、生活に彩りと潤いをもたらすことで、世の中に「救(9)い(1)」を届けたいとの願いを込めて「だじゃれの日」となりました。
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