ところで、日本の戦後間もない時期にデビューしたまんが家は、
「全員が手塚治虫の影響を大きく受けている」
という印象があります。
確かに大部分の人達にとってはそうでしたが、やはり例外のまんが家も存在します。
ちばてつや氏は、両親、特に母親が厳しい人で、まんがを見せてくれなかったので、当時のまんが家志望の子供達にとって、聖書ともいえる”漫画少年” という雑誌の存在自体、知らなかったそうです。そのためか、
「手塚治虫の影響をもっとも受けていないまんが家」
とも言われています。
森安なおやは、トキワ荘に住んでいたことがありますが、他のトキワ荘のまんが家達が、手塚治虫を尊敬していたのに対し、森安なおやは田河水泡の弟子であり、手塚的なまんがには違和感があったそうで、他のトキワ荘のまんが家とは一線を画していたとのことです。
夏目房之介氏は、
「戦後マンガの全てが手塚から始まったという印象があるが、実際は、福井英一や馬場のぼるの影響を受けた人も、かなりいたはず」
という趣旨のことを書いています。
今、一部では、
「手塚治虫が、戦後のまんがの全てを創造した」
という神話が、見直されていると言います。以前みなもと太郎は、
「手塚治虫が、まんが界に本当に持ち込んだものというのは、実は、まだよくわかっていない」
と言っていたので、これも手塚神話の見直しの一つでしょう。
話はそれてしまいましたが、手塚治虫の影響が薄いまんが家というのは、まだもっといたはずなのではないかと思うのです。忘れられただけで。
でも、そういうまんが家が、発掘されることは困難でしょうね。
ログインしてコメントを確認・投稿する