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2023年04月01日00:02

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04月01日の日記

今日の出来事:1539年−紫原の戦い:島津貴久が薩摩統一、1772年−明和の大火、1868年−戊辰戦争:梁田の戦い、1877年−西南戦争:熊本城攻防戦、1914年−宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が初公演、1938年−国家総動員法公布、1945年−第二次世界大戦:沖縄戦開始、1945年−阿波丸事件、1954年−広島平和記念公園完成、1976年−アップルコンピュータ社がスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックにより設立、1982年−五百円硬貨発行、1991年−東京都庁が千代田区丸の内から新宿区西新宿に移転し、新東京都庁舎が開庁、2014年−消費税が8%に増税

今日は、紫原の戦い:島津貴久が薩摩統一です。島津貴久は、1514年5月28日に島津氏の分家である伊作家、相州家当主・島津忠良(日新斎)の長男として生まれました。この頃、島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久が若年のため弱体化していました。そこで、島津勝久は相州家の島津忠良(日新斎)を頼りました。1526年に貴久は島津勝久の養子となって島津本宗家の家督を継承しました。1527年、島津勝久は忠良(日新斎)の本領である伊作に隠居し、島津貴久が清水城に入りました。加世田や出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、島津実久方で加治木の伊集院重貞、帖佐の島津昌久が叛旗を翻しました。父・島津忠良(日新斎)がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田や川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し、攻め落としました。さらに、川上忠克を島津勝久のもとに送り、勝久の守護職復帰を説きました。島津貴久は鹿児島を攻撃され、夜に乗じて城を出て園田実明らと共に亀ヶ城に退きました。島津貴久は島津勝久との養子縁組を解消されました。1533年、島津貴久は日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げると、反攻を開始しました。1536年、島津忠良・貴久父子は伊集院城を奪還すると、鹿児島に進撃して入城しました。1537年、島津忠良は実久と会談し、「川辺・加世田を我らに与え給えば、鹿児島・谷山・伊集院・吉田を進上し、守護と仰いで以後は水魚の交わりをなさん」と説きましたが島津実久は聞き入れず、なおも一進一退の戦いを繰り広げました。そして、1538年から翌年にかけて、南薩における島津実久方の最大拠点・加世田城を攻略して攻め落とし、「市来の戦い」で勝利しました。その後、紫原で最終決戦が行われ、勝利しました。遂に、島津実久は伊作家の貴久に降伏し、出水に隠棲しました。薩州家の家督は子・義虎が継ぎました。守護・島津勝久も島津忠良・貴久親子に薩摩を追われ、母方の大友氏を頼って豊後へ亡命しました。こうして、島津貴久は薩摩半島を平定し、戦国大名として国主の座につきました。1550年、島津貴久は伊集院城から鹿児島へと移りましたが、薩摩守護・島津氏の守護所であった清水城を避けて、新たに内城を築いて戦国大名・島津氏の本城としました。

次に、明和の大火です。明和の大火は、1772年4月1日に江戸で発生した大火災です。「明暦の大火」、「文化の大火」と共に「江戸三大大火」の一つで、目黒行人坂(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火しました。4月1日13時頃に、目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風に煽られて、麻布、京橋、日本橋を襲いました。江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がりました。一旦は小塚原付近で鎮火しましたが、18時頃に本郷から再出火し、駒込、根岸を焼きました。2日の昼頃には鎮火したように見えましたが、3日の10時頃に馬喰町付近からまた再出火し、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅しました。類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えました。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災しました。死者は1万5000人、行方不明者は4000人を超えました。老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼しました。放火犯は武州熊谷「無宿の真秀」という坊主でした。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(鬼平・長谷川平蔵の父親)の配下により、捕縛されました。市中引き回しの上、小塚原で火刑に処されました。

その次に、戊辰戦争:梁田の戦いです。古屋佐久左衛門は、大坂で医学を修め、江戸で洋学や剣術を学び、古屋家の養子となって御家人となりました。「戊辰戦争」開戦時は、幕府陸軍で歩兵差図役頭取の要職にありました。「鳥羽・伏見の戦い」で戦死した佐久間信久の第11連隊と、同じく戦死した窪田鎮章の第12連隊の残存兵力約1000人が麹町三番町の兵舎から脱走しました。その後、逃亡や捕縛などでその数は半数に減りましたが、約500人が下野方面に屯ろしました。陸軍総裁・勝海舟の許可を得て、元京都見廻組の今井信郎らと共に脱走兵取締のため江戸を出発し、塩谷郡佐久山宿(現在の栃木県大田原市佐久山)で脱走兵を帰順させました。それらを忍藩に預けると自身は江戸に戻り、新たに信濃鎮撫の命令を受けました。古屋佐久左衛門は、新たに500人の兵を率いて、先に帰順した400名と合流しました。武蔵羽生陣屋に入ると、900名の部隊を結成しました。羽生を出発すると、3月31日に下野国梁田郡梁田宿に入りました。翌4月1日に、古屋隊は新政府軍の奇襲攻撃をうけました。川村純義が率いる大垣・薩摩・長州藩兵の約200人が宿を包囲し、三方から砲撃をしました。虚を突かれた旧幕府軍は死者64名、負傷者76名を出し、渡良瀬川方面に敗走しました。翌日、鹿沼にて部隊を再編成すると、藤原を経て会津に入りました。松平容保に謁見し、部隊名を「衝鋒隊」と改めました。隊長・古屋佐久左衛門、副隊長・今井信郎です。この「衝鋒隊」は、この後「北越戦争」〜「箱館戦争」を戦い抜く事になります。

その次の次に、西南戦争:熊本城攻防戦です。3月12日、段山をめぐる両軍の争奪戦が起こりました。この争奪戦は13日まで続きました。霧の中、砲撃・銃撃を混じえた激戦は、霧が晴れた時には双方の距離10数歩という接近戦でした。結局、段山の背後に出た熊本鎮台側が薩摩軍を敗走させました。この戦いは政府軍死傷者221名、薩摩軍死者73名捕虜4名という長囲戦最大の激戦となりました。池上四郎が率いる長囲軍は当初、21個小隊・1個砲隊、計4700名近くいましたが、長囲策が採られると16個小隊・2個砲隊に減少し、3月になって高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化すると、増援部隊を激戦地に派遣したため、さらに減少しました。そのため、長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲する事になり、苦しみました。一方、熊本鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れました。熊本鎮台の城外出撃は、薩軍主力が北部戦線に移動した2月27日から始まりました。この日、大迫尚敏大尉が率いる偵察隊は坪井方面の威力偵察に出撃しました。3月26日、植木方面で銃声を聞きましたが征討軍が現れないので、後方攪乱部隊を3隊に分け、京町口・井芹村・本妙寺に出撃させました。これらの部隊は一時、薩摩軍を走らせましたが、逆襲にあって撤退しました。籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた熊本鎮台は、余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとし、南方の川尻方面に出撃しました。隊を奥保鞏少佐が率いる突囲隊、小川大尉が率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分けました、侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡しました。一方、侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げました。

そのまた次に、国家総動員法公布です。総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)法律で、近衛文麿内閣によって制定されました。日本の悪法といわれる法律の一つで、「戦争のためなら国の経済や国民の生活をすべて統制できる」というものです。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:沖縄戦開始です。「太平洋戦争」での国内最大規模の戦闘が繰り広げられた「沖縄戦(アイスバーグ作戦)」が始まりました。アメリカ軍は、予定より遅れながらも「ルソン島攻略」と「硫黄島攻略」を完了しました。次に日本本土上陸作戦として、「アイスバーグ作戦」を発動して沖縄攻略に着手しました。そして、沖縄に上陸を開始した米軍は、北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納町)を占領しました。こうして、日本側だけで18万8136人(うち民間人9万4000人)の戦死者を出す事になる「沖縄戦」が始まりました。

最後に、阿波丸事件です。1944年10月に、日本とアメリカの間で捕虜・拘束民間人への救援物資を交換する協定が成立しました。両国の物資は中立国ソビエト連邦領のナホトカで交換され、アメリカ側救援物資2025トンは貨客船「白山丸」によって持ち帰られました。アメリカ側物資のうち800トンは日本軍占領下のジャワ島・マレー半島などの捕虜収容所向けであり、その輸送担当に選ばれたのが当時の日本に残る数少ない優秀貨客船となっていた「阿波丸」でした。日本と東南アジアを結ぶ航路はアメリカ潜水艦の通商破壊により極めて危険な状況でしたが、「阿波丸」は病院船に準じた保護(安導権)が約束されました。軍隊輸送船状態だった「阿波丸」からは武装が撤去され、識別のため船体を緑色の迷彩塗装から灰白色へ塗り替え、舷側・煙突・甲板2か所に緑十字の識別マークが描かれ、夜間には煙突に照明も灯されました。アメリカ軍は「阿波丸」の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令しました。「阿波丸」の往路では、800トンの救援物資が積み込まれた他、航空機・自動車の予備部品や弾薬など600トンの軍需物資が積み込まれました。軍事利用は協定違反でしたが、日本軍により軍需物資の積み込みが決定されました。1945年2月17日に門司を出港した「阿波丸」は、高雄港で22トン・香港で41トン・シンガポールで562トンの救援物資を降ろし、最終目的地のジャワ島(救援物資175トン)へ無事に到着しました。3月28日、当初の任務を終えた「阿波丸」はシンガポールを発って日本への帰途に就きました。協定では帰路でも安全が保障されていたため、日本軍は再び軍事輸送への利用を計画しました。船長は反対しましたが、軍の要求に押し切られました。「阿波丸」には、船が撃沈されて滞留していた商船員480人、三井物産支店長以下の商社員・技術者・大東亜省次官以下の公務員など非戦闘員600人、軍人・軍属820人が便乗する事になり、乗員と合わせて2130人が乗り込みました。また、スズ・タングステン・アルミニウムなどの地金5000トン以上、生ゴム2000トン以上、重油及びガソリン2500トンという大量の軍需資源が船倉に収められました。アメリカ軍は暗号解読で日本側の工作を知り、航空偵察で「阿波丸」が物資を積んで喫水が深くなった状態である事を把握していました。アメリカ太平洋潜水艦隊司令官のチャールズ・A・ロックウッド少将は、チェスター・ニミッツ大将に攻撃許可を要請しましたが、返答は届きませんでした。実際には、攻撃禁止命令がすぐに下されていましたが、返答が届かなかった事を黙認と受け取りました。1945年4月1日午後10時頃、「阿波丸」は沖縄戦勃発の影響で予定針路を変更して台湾海峡に進入、平潭県牛山島付近を航行していたところ、アメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」にレーダーで探知されました。「クイーンフィッシュ」は潜望鏡による目視確認を行わないまま、レーダー照準で攻撃を開始しました。およそ50秒後に「阿波丸」へ魚雷3本が命中し、ほとんど一瞬で沈没しました。約10分後に、戦果確認のため浮上した「クイーンフィッシュ」は無数の人が漂流物に混じって泳いでいるのを発見し、うち船員1人を収容しました。「クイーンフィッシュ」の報告によれば、他の漂流者はいずれも救助されるのを拒んだという事です。「クイーンフィッシュ」に収容された1人を除く、2129人全員が死亡しました。日本政府は撃沈直後から、戦時国際法違反として抗議しました。アメリカ政府もこれを受け入れて責任を認めた上で、賠償問題については終戦後に改めて交渉を行なう事を提案しました。終戦後、アメリカが日本に対して行っていた有償食料援助の借款額を、18億ドルから4億9千万ドルへ棒引きする代わりに、日本へ「阿波丸」の賠償請求権を放棄するよう求めました。アメリカ側の破格な提案に当時の日本政府もこれを了承し、1949年に日本の国会は「阿波丸」への賠償請求権を放棄し、日本政府がアメリカに代わって賠償を行う旨を決定しました。当初日本側が考えていた以上にアメリカから「阿波丸事件」への賠償を引き出す事に成功しました。1950年に「阿波丸事件の見舞金に関する法律」が成立し、死亡者1人あたり7万円の見舞金を遺族へ支給しました。また、「阿波丸」を失った船主の日本郵船には、1784万円が支給されました。

今日の誕生日:後嵯峨天皇(第88代天皇)、北白川宮能久親王、大井玄洞、加藤友三郎(第21代内閣総理大臣)、三船敏郎、塩沢とき、伊藤エミ(ザ・ピーナッツ)、伊藤ユミ(ザ・ピーナッツ)、アルベルト・ザッケローニ、林真理子、ジェフ・ポーカロ(元TOTO)、高橋克実、羽場裕一、相原勇、鷲尾いさ子、桑田真澄、八木沼純子、竹内結子、宇浦冴香、 大野雄大(Da−iCE)、本仮屋リイナ、岡本圭人(元Hey! Say! JUMP)、柴田阿弥(元SKE48)、岸本ゆめの(つばきファクトリー)、エクリプス、モンテプリンス、ハギノカムイオー、コントレイル、岩鬼正美、グレート・ブリテン(サイボーグ007)、キン肉スグル、キン肉マンスーパー・フェニックス、キン肉マンゼブラ、キン肉マンソルジャー、キン肉マンビッグボディ、キン肉マンマリポーサ、ゴン太くん、御坊茶魔、石崎了、パタリロ・ド・マリネール8世、桜木花道、バッドばつ丸、18代目おしりかじり虫

今日の記念日:エイプリルフール、年度始め、トレーニングの日、ストラップの日、熊本甘夏の日、第2の成人式、日本記念日協会創立記念日、ビックリマンの日

今日の「今日訓」:本日から「卯月」です。卯の花が咲く月「卯の花月(うのはなづき)」から卯月となりました。また、エイプリルフールです。その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していましたが、1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用しました。これに反発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめました。しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝っていた人々を逮捕し、片っ端から処刑しました。処刑された人々の中には、まだ13歳だった少女までが含まれていました。フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議とこの事件を忘れないために、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになりました。これが「エイプリルフール」の始まりです。一般的に人をビックリさせる「エイプリルフール」から「ビックリマンの日」、会計年度・学校年度が始まる「年度始め」です。年度始めからトレーニングを始めようと「トレーニングの日」、1991年4月1日に日本初のストラップ用の穴が開けられた携帯電話「mova TZ−804」が発売された事で「ストラップの日」、熊本甘夏が出荷されて2006年で50年となる事から「熊本甘夏の日」と制定されました。1991年4月1日に「日本記念日協会」が創立された事から「日本記念日協会創立記念日」、アラフォーの4月1日を「第2の成人式」と呼び、4月1日を数字にすると「401」、「40代でもう一度輝く」という意味が込められて2013年4月1日に「第2の成人式」と制定されました。
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