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2022年10月27日00:00

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10月27日の日記

今日の出来事:1508年−坊峰合戦、1868年−秋田戊辰戦争:上山藩降伏、1876年−不平士族の反乱:秋月の乱、1930年−霧社事件

今日は、坊峰合戦です。甲斐・武田氏第16代当主の武田信昌は、次男・油川信恵を寵愛して家督を継がせようとしました。これに反発した長男・武田信縄は1491年に武田信昌を隠居させ、武田氏の家督を継承しました。この結果、甲斐は両派に属する勢力で二分されました。1492年8月16日には、市川三郷町で武田信縄と油川信恵派の栗原信遠が激突しました。当初は、武田信昌が支援する油川信恵の有利に進んでいました。しかし、1494年頃から形勢が逆転し、1498年に武田信縄が有利のまま和睦しました。その後、1505年に油川信恵を支援していた武田信昌が死去し、1507年に武田信縄が病没しました。家督は、14歳の長男・武田信直(後の信虎)が継ぎました。武田信縄が死去し、幼い信直が継いだ事を好機と見た油川信恵は、勝山城で挙兵しました。武田信昌の三男で弟・岩手縄美の他に栗原昌種、小山田弥太郎らも油川信恵に味方しました。1508年10月27日、武田信直方は石和館から出撃し、勝沼城を夜襲しました。油川方は大敗し、油川信恵、岩手縄美、栗原昌種が討死しました。その後、小山田弥太郎は再び甲府へと侵攻し、坊ヶ峰で武田信直軍と対峙しました。当初は戦いを有利に進めていましたが、深夜に武田信直方に奇襲されて小山田弥太郎は討死しました。武田信直は小山田家の本拠・郡内に侵攻して焼き払いました。小山田弥太郎の嫡子・信有は事実上、武田信直に降伏する形で和睦をしました。武田信直は自らの妹を小山田信有に嫁がせ、小山田家は武田宗家と実質降伏・形式同盟という形で婚姻従属同盟が成立しました。こうして、武田信直によって武田宗家は統一されました。次に、武田信直は甲斐統一を目指す事になります。

次に、秋田戊辰戦争:上山藩降伏です。上山藩は、庄内藩とともに薩摩藩の江戸藩邸を攻撃しました。「薩摩藩邸焼討事件」です。「戊辰戦争」が始まると「奥羽越列藩同盟」に参加、同盟方針に従って総督・山村求馬が率いる洋式軍隊を久保田藩に派兵しました。山村求馬は新庄藩の裏切りによって戦死、その後は庄内藩と行動を共にして久保田城を包囲しました。また、飛び地であった七日市が、長岡の近所であったため「北越戦争」に巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣しました。米沢藩が新政府軍に降伏すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げると降伏恭順しました。藩主・松平信庸は、江戸の菩提寺・松光寺に入り謹慎しました。新政府に3000石を没収の上で隠居を命じられ、家督は異母弟の松平信安が相続します。

その次に、不平士族の反乱:秋月の乱です。秋月の乱は、福岡県秋月で起こった明治政府に対する「不平士族の反乱」の一つです。1876年10月24日に熊本県で起こった「神風連の乱」に呼応して、旧秋月藩の士族・宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱です。「神風連の乱」から3日後の10月27日、今村百八郎を隊長とする「秋月党」が挙兵しました。まず、明元寺で説得にあたった福岡県警察官・穂波半太郎を殺害(日本初の警察官の殉職)しました。旧秋月藩の士族は旧豊津藩の士族・杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かいました。しかし、このとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生十郎らは監禁されておりました。豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典が率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃し、秋月党は死者17名を出し(政府軍の死者は2名)江川村栗河内へ退却しました。その後、秋月党は解散し、磯淳、宮崎車之助、土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、磯平八、宮崎哲之助の七士は自刃しました。抗戦派の今村百八郎は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃しました。県高官2名を殺害し、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払った後、逃亡しましたが11月24日に逮捕されました。なお益田静方は挙兵前の10月26日に、旧佐賀藩士族に同時決起を求めるため佐賀へ向かった帰りに逮捕されました。12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村百八郎と益田静方は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下されました。

最後に、霧社事件です。霧社事件は、台中州能高郡霧社で起こった台湾原住民による最大規模の抗日暴動事件です。暴動の直接の原因となったのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件です。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかりました。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩きました。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打しました。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々と、警察の処罰によって地位を失う事を恐れたモーナ・ルダオらが、暴動を画策しました。10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人が、霧社各地の駐在所を襲った後に、霧社公学校の運動会を襲撃しました。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害されました。なお、現地の警察には霧社セデック族の警察官が2名おり、彼らは事件発生後にそれぞれ家族とともに自殺しました。蜂起の連絡を受けた日本軍や警察は鎮圧を開始しました。日本軍が霧社を奪回すると、霧社セデック族は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗しました。指揮を取っていたモーナの次男バッサオが戦死し、モーナ・ルダオは失踪しました。日本軍は親日派セデック族を動員し、暴徒側部族の村落を制圧しました。モーナ・ルダオの失踪後は、長男のタダオ・モーナが戦闘を指揮しましたが、タダオも抗戦の末に自殺しました。鎮圧軍は現地の治安を完全に回復し、戦闘は終結しました。この戦闘で、700人の暴徒が死亡もしくは自殺、500人が投降しました。特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となりました。 一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人でした。掃討戦で戦死した日本軍人・味方蕃兵士は靖国神社に祀られています。この事件により、台湾総督・石塚英蔵、総務長官・人見次郎、警務局長・石井保、台中州知事・水越幸一が引責辞任しました。1931年4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者をタウツア社が襲撃し、216人が殺害されました。これにより、生存者は298人となりました。襲撃側のタウツア社の死者は1名でした。これを「第二霧社事件」といいます。

今日の誕生日:教如、ジェームズ・クック、セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ合衆国大統領)、渡辺はま子、大屋政子、半村良、堀内孝雄(アリス)、サイモン・ル・ボン(デュラン・デュラン)、山村紅葉、田口智治(元C−C−B)、谷川真理、渡辺いっけい、高嶋政伸、田中実、貴ノ浪貞博、セーム・シュルト、たいがー・りー、MAKIDAI(元EXILE)、小西真奈美、鈴木大輔(元GIRL NEXT DOOR)、大菅小百合、塚本高史、青山テルマ、工藤遥(元モーニング娘。)

今日の記念日:テディベアズ・デー 、文字・活字文化の日、機関誌の日

今日の「今日訓」:本日は、熊のぬいぐるみ「テディベア」の名前の由来となったセオドア・ルーズベルト米大統領の誕生日で「テディベアズ・デー」、世界中で「心の支えを必要とする人たちにテディベアを贈る運動」が行われています。2005年7月29日公布・施行の「文字・活字文化振興法」によって制定された「文字・活字文化の日」、日本で最初の本格的な雑誌「西洋雑誌」が洋学者の柳河春三により創刊された1867年10月と、機関誌の会員同士の「つな(27)がり」で「機関誌の日」、「読書週間(10月27日〜11月9日)「文化の日」をはさんだ前後2週間の初日」で文字・活字文化への理解や関心を国民の間に広める事を目的としています。
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