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2022年10月08日00:05

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10月08日の日記

今日の出来事:1203年−比企能員の変、1553年−第一次川中島の戦い:布施の戦い、1594年−石川五右衛門処刑、1813年−八卦教(天理教)の乱:林清率いる天理教徒が北京の紫禁城を攻撃、1867年−丁卯の大獄、1868年−会津戊辰戦争:三斗小屋の戦い、会津若松城下の戦い、飯盛山で白虎隊が自刃、1868年−秋田戊辰戦争:花館の戦い、1895年−乙未事変

今日は、比企能員の変です。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死後、18歳の嫡男・頼家が跡を継ぎましたが、3か月で訴訟の裁決権を止められ、「十三人の合議制」が布かれて将軍独裁は停止されました。合議制成立の数か月後、源頼朝の死から1年後に将軍側近であった梶原景時が御家人らの糾弾を受けて失脚し、一族とともに滅ぼされました(梶原景時の変)。梶原景時の亡き後、源頼家を支える存在として残されたのは、頼家の乳母父であり、舅でもある比企能員でした。比企氏は源頼朝の流人時代を支えた比企尼の一族で、比企尼の養子として比企氏の家督を継いだ能員は頼朝の信任を受け、嫡男・頼家の乳母父となりました。また、比企能員の娘・若狭局は頼家の側室となって嫡男・一幡を産み、将軍家外戚として権勢を強めていました。この比企氏の台頭に危機感を持ったのが、頼家の母・北条政子(尼御台)とその父・時政でした。源頼家は、阿野全成を謀反の疑いで大倉御所に監禁し、誅殺しました(阿野全成誅殺)。その後、源頼家は急病となり、一時危篤となりました。北条時政は家督継承措置を行い、嫡男・一幡ではなく、弟・千幡に継承させました。比企能員は、源頼家に実朝擁立を計る北条時政の謀反を訴えました。源頼家は、北条時政追討を比企能員に命じました。これを北条政子が障子の影から立ち聞きし、時政に知らせました。時政は大江広元と相談し、仏事にこと寄せて比企能員を呼び寄せました。天野連景・仁田忠常が廷内に入った比企能員の左右の手を掴んで、竹藪に引き倒して誅殺しました。比企能員の従者が逃げ帰って事を知らせると、比企一族は一幡の邸である小御所に立て籠もりました。謀反であるとして北条政子によって比企討伐の命が下され、軍勢が派遣されました。北条義時を大将とする軍勢は北条泰時、平賀朝雅、小山朝政、同宗政、同朝光、畠山重忠、榛谷重朝、三浦義村、和田義盛、同常盛、同景長、土肥惟平、後藤左衛門尉信康、所右衛門尉(藤原)朝光、尾藤知景、工藤行光、金窪行親、加藤景廉、同景朝、仁田忠常らの軍勢が小御所へ襲来しました。 比企氏側は能員の子息ら比企三郎、同四郎時員、同五郎、猶子の河原田次郎、娘婿の笠原十郎親景、中山為重、糟屋有季が防戦し、決死の抵抗を続けて戦闘は申の刻まで続き、複数の御家人・郎従が傷を負いました。畠山重忠は壮力の郎従を繰り出して比企一党を攻め立てました。 力尽きた比企側は館に火を放つと、それぞれ一幡の前で自害しました。一幡も炎の中で死にました。比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は女装して戦場を抜け出しましたが、道中で加藤景廉に首を取られました。夜に入って比企能員の舅・渋河兼忠が誅殺されました。その後、比企能員与党の探索が行われ、流刑・死罪の処断がなされました。能員の妻妾ならびに能員の末子である2歳の男子は和田義盛に預けられ、安房国へ配流となりました。源頼家は比企一族の滅亡を知って激怒し、堀親家を使者として仁田忠常と和田義盛に北条時政を討つよう御教書を送りましたが、和田義盛は御教書を北条時政に献上しました。北条時政は堀親家を捕らえて工藤行光に殺害させ、仁田忠常と弟2人を誅殺しました。こうして、千幡に征夷大将軍の宣旨が下され、3代将軍・源実朝となりました。源頼家は鎌倉追放となり、伊豆国修禅寺に護送され、翌年に北条氏により殺害されます。

次に、第一次川中島の戦い:布施の戦いです。川中島の戦いの第一次合戦は、布施の戦いと呼ばれます。長尾景虎(後の上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(後の武田信玄)と戦いました。1553年、武田晴信は北信濃へ出兵し、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略しました。村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して長尾景虎に支援を願いでました。村上義清は北信濃の国人衆と長尾景虎から支援の兵5000を率いて反撃し、「更科八幡の戦い」となりました。武田晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功しました。しかし、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めました。村上義清は再び城を捨てて越後国へ逃れました。その後10月8日、長尾景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣しました。「布施の戦い(現・長野市篠ノ井)」で武田軍の先鋒を破ると、軍を進めて荒砥城を落とし、青柳城を攻めました。武田軍は、荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、長尾景虎は八幡まで兵を退きました。一旦は兵を塩田城に向け直した長尾景虎でしたが、塩田城に籠もった武田晴信が決戦を避けたため、長尾景虎は一定の戦果を挙げたとして越後国へ引き揚げました。武田晴信も本拠地である甲斐国へ帰還しました。長尾氏は、村上氏の旧領復活は出来ませんでしたが、北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡くのを防ぐ事に成功しました。武田氏は、善光寺平進出は阻まれましたが、小県と村上氏の本領・埴科郡を完全掌握できました。このように両者とも相応の成果を得ました。長尾景虎は、この合戦の後に叙位任官の御礼言上のため、上洛して後奈良天皇に拝謁して「私敵治罰の綸旨」を得ます。これにより、長尾景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得ました。一方、武田晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めます。

その次に、石川五右衛門処刑です。石川五右衛門は安土桃山時代に出没した盗賊です。都市部を中心に荒らしまわりました。相手は権力者のみで「義賊」だったため、豊臣政権が圧政や朝鮮出兵の失敗で嫌われていた事もあり、庶民のヒーロー的存在になっていました。秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼され、秀吉の寝室に忍び込んだ際、香炉が鳴って捕えられました。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまいました。そして、京都三条河原で一子・五郎市と共に「釜茹で」で処刑されました。大釜に油を満たして熱し、その上で石川五右衛門を放り込んで処刑しました。圧搾技術が発達しておらず、植物油が貴重品だった当時の日本では非常に「贅沢」な処刑方法でした。これが、五右衛門風呂の始まりとなりました。辞世の句:「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」 墓は京都の大雲院にあります。

その次の次に、八卦教(天理教)の乱:林清が率いる天理教徒が北京の紫禁城を攻撃です。林清は、農民の出身で後に薬店の店員や役所の使用人となりました。1806年から白蓮教の一派である八卦教を信仰するようになり、やがて地域のリーダーとなりました。未来を予知する事ができると称し、多くの農民・商人・下級役人を引きつけていきました。入信者からは財物を取って、貧民に分け与えていました。1812年、別のリーダーである李文成と会見して翌年の蜂起を約束しましたが、李文成は蜂起前に捕らえられました。嘉慶帝が熱河の避暑山荘に赴いたのを機に、内応した宦官の手引きによって、200人の信徒とともに商人に変装して北京に入りました。そして、「大明天順」、「順天保明」などの旗を掲げて紫禁城を攻撃しました。紫禁城では皇子旻寧(後の道光帝)が軍を率いて抗戦しました。2日間の戦闘の後、信者は全滅して林清は処刑されました。

そのまた次に、丁卯の大獄です。庄内藩は、佐幕派と改革派の争いがありました。1862年11月8日、藩主・酒井忠寛が麻疹で死去すると、佐幕派が推す甥・忠篤が藩主となりました。これにより、改革派の動きが封じ込まれました。改革派は、1864年に老中・稲葉正邦に藩政を批判した陳情書を提出しました。1865年に池田駒城が箱館留守居に、上野直記、酒井奥之助が没すると改革派の力は衰えました。改革派は家老・酒井右京と留守居役・大山庄太夫が、佐幕派は家老・松平権十郎と菅実秀が中心でした。松平権十郎は、稲葉正邦に陳情書について問い質されました。藩内の動揺や批判を怖れた藩は、改革派の一斉逮捕を命じました。酒井右京に出入りの五日町の医者で、改革派に集会場を提供していた日下部宗伯を皮切りに、宗伯の書生・吉田駒太郎、徒目付・深瀬清三郎、大山庄太夫、御徒隠居・永原寛兵衛、馬医・佐藤収蔵、御徒・斎藤茂太夫、飛脚・船戸の金次郎、国学者・広瀬巌雄、服部毅之助、赤沢準之助(尋問に抗して断食して獄中で餓死)、加藤五三郎(逮捕前に自殺)、池田駒城、酒井右京、松平舎人(謹慎の翌日に自刃)等を逮捕、監禁、謹慎に処して取り調べを開始しました。取り調べ担当家老は、前年に蝦夷地から帰還した酒井玄蕃了明が命ぜられました。大山庄太夫は自宅監禁に処せられましたが、雪隠で覚悟の自殺を遂げました。大山庄太夫は事件の中心人物とされました。死骸は埋葬を許されずに塩漬けにされて自宅の庭に仮埋めにし、足軽に交代で監視させました。取り調べが進むにつれて兄・酒井右京が事件の首謀者である事が明白となったため、取り調べ担当の酒井玄蕃了明は辞任し、中老・朝岡助九郎が取調掛となりました。この酒井玄蕃了明の後を継いだのが、子・酒井玄蕃(吉之丞)了恒で、「戊辰戦争」では新政府軍に「鬼玄蕃」と呼ばれて恐れられる事になります。1867年10月8日、改革派が断罪されました。この日の早朝、大山庄太夫の死骸の斬罪と深瀬清三郎、日下部宗伯の処刑が萱場の刑場で行われ、午後には酒井右京の切腹が安国寺で実施されました。すでに亡くなっていた上野直記の家は断絶となりました。永原寛兵衛、池田駒城、佐藤収蔵、斎藤茂太夫は永牢となりました。広瀬巌雄は、親類へ御預厳重押込となりました。こうして「丁卯の大獄」または「大山庄大夫一件」と呼ばれる事件で、藩論を佐幕で統一した庄内藩は、この後に「薩摩藩邸焼討事件」を起こして「戊辰戦争」の扉を開ける事になります。

そのまた次の次に、会津戊辰戦争:三斗小屋の戦い、会津若松城下の戦い、飯盛山で白虎隊が自刃です。「会津藩の一番長い日」と言われる日です。
三斗小屋の戦い:新政府軍の黒羽藩兵と館林藩兵は、会津軍が守る三斗小屋村と大峠に向けて進軍しました。白河から出発した両藩は、那須高原を越えて進軍しました。会津藩は、三斗小屋方面に青龍二番寄合組中隊と青龍四番足軽中隊200を配備していました。新政府軍は部隊を二手に分けて、三斗小屋の会津軍に攻撃を仕掛けました。森林地帯であり姿を隠せる事を利用して会津軍に近づき、別隊を背後に廻して奇襲しました。会津軍も応戦をしましたが、背後からの別動部隊の攻撃で混乱に陥って敗走しました。
会津若松城下の戦い:この日は雨、「会津藩史上最悪の日」となりました。板垣退助が率いる新政府軍は母成峠を越えて、十六橋・戸ノ口原を突破して滝沢峠から蚕養口に殺到しました。八幡山で別戦隊副長・河原善左衛門は奮戦しましたが、長男・勝太郎、次男・岩次郎らと共に戦死しました。こうして蚕養口を突破した新政府軍は、会津城下に侵入しました。会津藩主・松平容保は滝沢峠下の陣地を引き揚げ、甲賀町郭門に到着すると鶴ヶ城内に入城しました。会津藩家老・田中土佐と神保内蔵助は共に、甲賀町口郭門で敗兵を叱咤して戦いましたが、新政府軍を防ぐ事ができずに藩医・土屋一庵の屋敷で三人で自刃しました。甲賀町口郭門を突破した新政府軍は、鶴ヶ城北出丸を攻撃しました。しかし、鶴ヶ城は堅固でした。ここで大総督府軍監・小笠原唯八、その弟・小笠原謙吉(土佐藩士)が戦死し、大損害を受けてしまいました。こうして新政府軍は、力攻めをやめて包囲戦に切り替えます。これから1ヶ月間の「鶴ヶ城籠城戦」が展開される事になります。
飯盛山で白虎隊が自刃:「白虎隊」は、会津藩が組織した16歳〜17歳の武家の男子によって構成された部隊です。「戸ノ口原の戦い」で敗走した「白虎隊」20名は、猪苗代湖から若松に引かれている水路、戸ノ口堰の洞門をくぐり抜け、弁天祠の傍に出ました。そこから飯盛山の高台に進んだ彼らの視界に開けたのは、炎に包まれた会津若松城下でした。彼らは会津若松城(鶴ヶ城)が落城したものと誤認して悲観し、自刃を決行しました。これは新政府軍が城下に突入して、藩士の邸宅や民家を焼き払ったためにできた煙で、鶴ヶ城はまだ無事でした。少年たちは次々と切腹や刺し違えをして、自刃したのです。しかし、飯沼貞吉だけは、まだ息があるうちに足軽・印出新蔵の妻(ハツ)に助けられ、長岡藩の軍医(阿部宗達、吉見雲台)が治療をしたため、奇跡的に一命をとり止めました。飯沼貞吉は、実は15歳でした。16歳と年齢を1歳偽って申請し、「白虎隊」に入隊できたのです。そして、この飯沼貞吉の証言によって、「白虎隊の悲劇」が後世に伝えられる事になったのです。白虎隊士の墓がある飯盛山には、「戊辰戦争」時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約200名の霊を慰める石碑「会津藩殉難烈婦碑」があります。飯沼貞吉も没後に自身の遺言により、飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されました。以下が白虎隊20士です。
安達藤三郎、池上新太郎、石山虎之助、井深茂太郎、津川喜代美、永瀬雄次、野村駒四郎、間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、有賀織之助、石田和助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、篠田儀三郎、鈴木源吉、西川勝太郎、林八十治、簗瀬武治、津田捨蔵、飯沼貞吉
さらに、会津城下では集団自決が行われました。家老・西郷頼母の一族21人が西郷邸で自害し、後年の陸軍大将・柴五郎の屋敷では8人が自刃、南摩綱紀の家では4人、町野家で5人と、この日だけで70軒以上で230人以上が自決しました。これに会津軍の戦死者460人以上を加えると1日で約700人以上の「会津人の命」が失われました。しかし、会津の悲劇はまだ始まったばかりでした。この日、山本八重(後の新島八重)は、男装してスペンサー銃を担いで鶴ヶ城に入城しています。

さらに次に、秋田戊辰戦争:花館の戦いです。新政府軍は角館から刈和野に至る山道口で、大反撃を開始しました。この時、庄内藩一番大隊は大曲にいました。四ツ屋にいた仙台藩の隊を新政府軍が攻撃しました。庄内藩軍は三小隊を派遣しましたが、すでに仙台藩は敗走を始めていました。派遣された庄内藩の三小隊は新政府軍の進撃を食い止めようとしましたが、薩摩軍らの猛攻に遭って撤退し、花館に敵を誘いました。薩摩藩を主力とする、久保田藩、矢島藩、島原藩らの大部隊は、午後4時頃に玉川を渡って花館にいた庄内藩の一小隊を攻撃しました。そして、庄内軍を突破して羽州街道を南下して大曲を攻めました。そこで、薩摩藩の正規軍と庄内藩一番大隊が激突しました。庄内軍は持ちこたえ、戦いは深夜まで続きました。夜12時を過ぎると、弾薬兵糧が尽きた薩摩軍は花館方面に引き揚げました。庄内軍一番大隊の副将・服部純蔵の進言で、決死隊を編成して新政府軍に夜襲を敢行する事になりました。藤助を隊長とする十数名の決死隊が薩摩軍の陣営に忍び寄り、小銃を乱射しました。薩摩軍は大混乱に陥りました。同士討ちを避けるために射撃を止め、手槍で討ち入ると薩摩軍は大混乱となり潰走し、25名の戦死者、16名の負傷者を出しました。庄内軍は薩摩兵7名を捕縛しました。この中に薩摩藩・三番隊の隊長である島津新八郎がいました。

最後に、乙未事変です。乙未事変は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件です。韓国では「明成皇后弑害事件」と呼ばれています。

今日の誕生日:宮澤喜一(第78代内閣総理大臣)、三田佳子、佐藤友美、寺泉憲、宮下あきら、軽部真一、吉井和哉(元THE YELLOW MONKEY)、安東弘樹、田口浩正(元テンション)、鈴木一真、マット・デイモン、小久保裕紀、室伏広治、DJ SHUHO(KICK THE CAN CREW)、中山エミリ、新妻聖子、ウエンツ瑛士(元Wat)、平野綾、中村優一、ちゃんMARI「福重まり」(ゲスの極み乙女。),中田ちさと(元AKB48)、高岸宏行(ティモンディ)、高梨沙羅、工藤美桜、大原優乃(元Dream5)、伊藤理々杏(乃木坂46)、剣桃太郎

今日の記念日:寒露、入れ歯デー/入れ歯感謝デー・歯科技工の日、骨と関節の日、足袋の日、木の日、コンビニATMの日、FXの日、問屋の日、ようかんの日、そばの日、奥歯の日、東ハトの日、角ハイボールの日、ドローンパイロットの日、地熱発電の日、永遠の日、ハンドバッグの日、鳥羽の日、頭髪記念日、焼おにぎりの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ、寒露です。「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」(露が冷気によって凍りそうになるころ)です。10月は着物を着る機会が多くなるシーズンで、その中で末広がりで縁起の良い10月8日を「足袋の日」、1998年にひまわり証券が国内で初めて個人投資家向けにFXの提供を開始した事で「FXの日」、1999年10月8日にイーネットが全国で初めて共同コンビニATMを設置した事で「コンビニATMの日」、1937年に「サントリーウイスキー角瓶」が発売された事で「角ハイボールの日」、1966年に日本初の商用地熱発電が、岩手県八幡平市の松川地熱発電所で運転を開始した事で「地熱発電の日」、語呂合わせデーは「い(1)れ(0)ば(8)」で「入れ歯の日」、「ホネ」の「ホ」を漢数字の「十」と「八」に分解し「骨と関節の日」、「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になる事から「木の日」、「とん(10)や(8)」の語呂合わせで「問屋の日」、「いと(10)おいしいよう(8)かん」の語呂合わせで「ようかんの日」、「そ(十)ば(八)」の語呂合わせで「そばの日」、「October(オク)8(歯)」の語呂合わせで「奥歯の日」、「東(10)ハト(8)」の語呂合わせで「東ハトの日」、「ドローン(10)パ(8)イロット」の語呂合わせで「ドローンパイロットの日」、「と(10)わ(8)」の語呂合わせで「永遠の日」、「ハンド(10)バ(8)ッグ(9)」の語呂合わせで「ハンドバッグの日」、「じゅ(10)わっと、パチパチ(8)」の語呂合わせで「焼おにぎりの日」、「10(と)8(ば)」の語呂合わせで「鳥羽の日」、「頭(10)髪(8)」の語呂合わせで「頭髪記念日」となりました。
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