1960年代前半、オランダのZandvoort(ザンドフォート)の街を愛車で流していたレーシング・ドライバーのRob Slotemaker(ロブ・スロートメイカー)は、バス停に佇んでいる若い美女に声をかけました。「どこへ行くの?乗りなよ」
彼女は、父親が経営するタクシー会社を手伝っていたLiane Engeman(リアン・エンゲマン)でした。若干15歳にしてクルマの運転をマスターしたと言われています。
スロートメイカーは彼女にレースの面白さを説き、彼女はレーシング・スクールに通うことになりました。
ドライビング・テクニックが秀でていた彼女は、実戦で経験を積むことを推奨され、イギリスに渡ってAlan Mann(アラン・マン)レーシングからフォーミュラーvee1200(VWビートルの空冷水平対向4気筒1200ccエンジンを搭載したフォーミュラーカーによるワンメイクレース)に出場することになりました。1965年のことです。そしてF1ドライバーのEmmerson Fittipaldi(エマーソン・フィッツパルディ)に破られるまで、シルバーストーン・サーキットのフォーミュラーvee1200のラップ・レコードを長く保持していたということです。
他にも、フォード・アングリアやヒルマン・インプ、ミニ・クーパーなどによるサルーンカー・レースでも頭角を現しました。
1967年、彼女はアメリカ・フロリダのシーブリング12時間耐久レースにJanet Guthrie (ジャネット・ガスリー)と組んで参戦、ゼッケン62のマトラ・ジェット5Sは総合23位(クラス1位)で見事完走しています。並みいる強豪がひしめく中、女性チームによる小さな市販車(直4OHV1108cc)でのこの成績は悪くありませんでした。
翌1968年の目立った戦績は、バハマで行われたフォーミュラvee1200で3位になったことが挙げられます。
1969年、彼女はBob Wollek(ボブ・ウォレック)と組んでベルギーのスパ・フランコルシャン 24時間耐久レースに参戦しました。ゼッケン31のアルファロメオ1750は、平均速度151.985km/hで3647.704kmを走り抜き、総合13位(クラス1位)になっています。
この頃から彼女はアルファロメオによく乗るようになっていました。イタリア人がその容姿を放っておくハズがなく、「実力も伴う美人レーサー」としてモデルに起用しています。
1970年は不運続きで目立った戦績を残しておりませんが、翌1971年は9月26日にザンドフォートで行われたデュネス・トロフィーにアバルト2000SPで参戦し総合7位になっています。
さらに11月9日にフランスのポール・リカール・サーキットで行われた12時間耐久レースで、Vincenzo Pooky Cazzago(ビンセンツォ・プーキー・カツァーゴ)と組んだ彼女は、アルファロメオ1300GTA(ゼッケン44)で1536.402kmを走り抜き、総合9位(クラス1位)になりました。
1972年は、その年に始まったDeutsche Rennsport Meisterschaft(DRM=ドイツ・レーシング・チャンピオンシップ、ドイツ各地を転戦する年間チャンピオンシップ)にフォード・カプリRSでエントリーしました。
ニュルブルクリンク・サーキットでの第1戦は4位、ホッケンハイムでの第2戦は7位になりましたが、その後はパッとしませんでした。
1973年、オペル・ガルフ・チームから誘いがかかった彼女は、Christine Beckers(クリスティーン・ベッカー)と組んでオペル・コモドーレGSでスパ・フランコルシャン 24時間耐久レースにエントリーしました。しかし、レース直前に妊娠が判明して取り止めに。
その後は母親としてレースから距離をおきました。
ログインしてコメントを確認・投稿する