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2022年01月20日00:09

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01月20日の日記

今日の出来事:1587年−九州征伐:戸次川の戦い、1924年−第一次国共合作が成立、1987年−ズ・ダン号事件

今日は、九州征伐:戸次川の戦いです。戸次川の戦いは、豊臣秀吉による「九州征伐」で島津義久の弟・家久が率いる島津軍と長宗我部元親・信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣軍の間で行なわれた戦いです。1586年、九州制覇の野望に燃える島津軍は宿敵・大友氏を滅ぼすため、その領土への侵攻を開始しました。「耳川の戦い」の大敗や立花道雪の死などの悪条件が重なって、もはや独力で島津軍に挑む力の無くなった大友宗麟は、当時の天下人・豊臣秀吉に臣従する事で援軍を求めました。豊臣秀吉も、いずれは九州平定を果たす事を想定していたため、これを好機とばかりに大友宗麟の要請を受け入れました。ただし、当時の秀吉は三河の徳川家康と敵対関係にあったため、大規模な援軍を送る事が出来ませんでした。援軍として仙石秀久を、軍監として長宗我部・十河らの四国勢を豊後に派遣しました。一方の島津軍の勢いは凄まじく、大友領はあっという間に島津軍によって侵食されていき、大友氏の家臣・利光宗魚が守る鶴賀城が島津軍によって包囲されました。この城は一度は島津軍に占領されましたが、島津軍の兵力が薄くなった隙を利光宗魚に突かれて奪還されていたものでした。利光宗魚は懸命に防戦して島津軍に3000余の大損害を与えましたが、運悪く流れ弾に当たって戦死し、鶴賀城は落城の危機に立たされました。この城が落ちれば、大友氏の本拠である府内が危うくなります。鶴賀城からの救援を要請された大友義統は、豊臣軍の援軍を引き連れて鶴賀城を助けるはずでしたが、積極的ではありませんでした。島津軍は1万余でした。島津軍は豊後侵入時より半分近く兵力が減少していましたが、大友軍を離反した勢力などを加えて、若干兵力が回復していました。大友軍か豊臣軍が後詰でやってくるであろうと予測していた島津家久は、軍勢を右翼2000、主力3000、左翼5000の三手に分けました。軍勢を三手に分けて合戦に挑む戦法は、俗に島津得意の「釣り野伏せ」と呼ばれていますが、この場合は伏兵をあまり使わないパターンでした。島津家久は分けた軍勢を、豊後国戸次川(大分市の大野川の古称)と鶴賀城の間に並べ、豊臣軍が渡河してくるであろう場所で待ち構えていました。島津家久は鶴賀城を見下ろす梨尾山に本陣を置きました。豊臣軍は兵力2万でしたが、大友義統が動かなかった事で、即座に使える兵力は半分以下でした。島津軍と戦うためには大友義統が率いる大友軍が必要でしたが、秀吉の威を借りて功を焦る軍監・仙石秀久が、独断的に鶴賀城救援のための出陣を決定しました。陣容は、仙石秀久の淡路軍1000余、十河存保・尾藤知定が率いる讃岐軍3000余、長宗我部父子の土佐軍3000余の計6000余でした。秀吉が出陣せず、代わりに指揮を任されたのが仙石秀久でした。「四国征伐」の功で讃岐高松10万石の領主となっていましたが、着任して日が浅く、その中核となる直軍を含めて寄せ集めで団結力がありませんでした。従軍した四国大名の士気も、高いとは言えませんでした。さらに救援に出迎えた大友軍も、道案内役の戸次統常が率いるわずかな兵で、島津軍に比べ兵力でも劣っていました。功に焦った仙石秀久は状況を打開するため、先勝を挙げて士気を高めようとしました。無謀にも冬季の渡河作戦を決行し、1587年1月20日早朝、戸次川を挟んで両軍が対峙しました。夕刻になって最初に交戦したのは、島津軍左翼・伊集院久宣と淡路軍でした。戦況は、島津戦法の「釣り野伏せ」に誘われ、緒戦は島津家久が狼狽するほど豊臣軍が押し気味でしたが、淡路軍が深追いしたところに主力の新納忠元と右翼・本庄主悦が雪崩れ込みました。淡路軍は潰滅し、人数に劣る仙石秀久軍はあっという間に浮き足立ち、遁走する事となりました。勢いに乗る島津軍は、淡路軍に続いていた第2陣の讃岐軍・長宗我部信親軍を伏兵と共に包囲殲滅しました。長宗我部信親、桑名親光、本山親茂、十河存保は、戸次川の中で戦死しました。長宗我部元親の第3陣は合戦に参加できず、先遣隊の敗報を受けて退却しました。仙石秀久は諸将の軍を差し置いて小倉城に撤退し、その後は讃岐へ逃げ帰るという醜態を晒しました。この大勝に乗じた島津軍は鶴賀城を落とし、翌1月21日には府内に侵入しました。大友義統は万策尽きて豊前に逃走しました。しかし、その後も大友軍は臼杵、杵築、佐伯、竹田等で激しく抵抗を続けたため、豊臣軍の大軍が豊前に入ると島津軍は豊後から撤退する事になります。帰還後、仙石秀久は敗戦の責を問われ、所領没収ならびに改易処分となって高野山へ追放されました。

次に、第一次国共合作が成立です。国共合作とは、1924年〜1927年「第一次国共合作」と、1937年〜1945年「第二次国共合作」の2度、中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係の事です。「第一次国共合作」は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線です。国民党は1924年1月20日、広東で開催した「第一次全国代表大会」で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、「第一次国共合作」が成立しました。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取りました。1925年に孫文が死去し、1926年に「中山艦事件」で蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢がありました。しかし、その後に国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が「北伐」を開始し、1927年に南京に国民政府が成立しました。1927年4月の「上海クーデター」によって国共合作は事実上崩壊し、7月13日に中国共産党は「対時局宣言」を発し、「第一次国共合作」の終了を宣言して「国共内戦」に突入しました。

最後に、ズ・ダン号事件です。ズ・ダン号事件は、1987年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の民間人11名が、船で日本に漂着して亡命を求めた事件です。現在の北朝鮮からの亡命を求める脱北者の、最初の事例として知られています。1987年1月20日、錆だらけの老朽化した50tの小型船「ズ・ダン号」、北朝鮮によれば「資源保護監督船」が福井新港を漂流しているのが発見されました。「ズ・ダン号」は海上保安庁によって福井県敦賀市の敦賀港に曳航され、この時点で事件が明らかになりました。「ズ・ダン号」には咸鏡北道清津に住んでいた朝鮮人医師の金萬鉄ら一族11名が乗船していました。当初、日本政府は北朝鮮当局の主張に沿って、彼らを「事故により日本に流れついた漂流民」として扱い、北朝鮮に送還しようとしました。日本での事実上の北朝鮮の在外代表である「在日本朝鮮人総連合会」は、仲介者として強制送還の手続きに入ろうとしましたが、金医師が「南の暖かい国で自由に生きたい」と亡命の意思表示をし、金一家は総連との面会を拒否しました。金一族は出身成分の低さから来る差別と、貧しい生活から逃れるために北朝鮮を脱出して来たのでした。これは、北朝鮮当局の主張とは矛盾したものでした。そのため、今度は大韓民国と在日本大韓民国民団が介入し、一気に事態が紛糾する事となりました。これにより、南北朝鮮の関係者が敦賀港に押しかけ、南北朝鮮の対立が港の界隈に持ち込まれる事態となり、一時騒然となりました。日本政府は金一族の自由意思の確認をおこなった後、人道主義の見地から北朝鮮ではなく第三国へ移送する事を決定し、受け入れ国の打診など国際法に基づく手続きを踏んだ結果、2月1日に中華民国(台湾)国府政府当局が11名の一時受け入れを条件付で認めました。過去には同様の事件として、1966年2月に北朝鮮の武装漁船が下関に密航してきた事件「平新艇事件」があり、この時は亡命希望者4人の韓国への亡命を認め、残りの船員9人と船体をソビエト連邦の仲介で返還した前例がありましたが、今回のように漂流者全員が第三国への亡命を求めた事態は初めてでした。そのため、日本政府は一族を直接韓国入りさせるのは問題があるとして、一旦第三国に出国させて韓国へ向かわせる事にしました。それまで金一族は入国(上陸)できないために、狭い船内での生活を余儀なくされていましたが、日本に漂着して19日目の2月7日未明、船上生活に終わりを告げました。一族11名は午前3時45分頃、敦賀港の沖合い2.7kmの地点に停泊していた「ズ・ダン号」から巡視艇に移り、さらには巡視船「おおすみ」に移乗しました。一方、敦賀港内では海上保安庁によって、一族を上陸させているよう見せかける偽装工作が行われていました。この冬の未明の隠密作戦は、移送しようとしている事を北朝鮮側に悟らせないための措置でした。一族は「おおすみ」から午前8時頃に、ヘリコプター2機で鳥取県米子市にある海上保安庁美保基地に移動していました。この事を海上保安庁は昼過ぎまで認めなかったため、昼過ぎまで金一族が移動した事に気が付かない者もいました。午後3時半頃には海上保安庁所属の「YS−11」に一族が搭乗し、美保基地を後にしました。途中、沖縄県の那覇空港に午後9時前に到着し、給油と一族の出国手続きを行い、午後10時に外務省の職員1名も同乗して出発し、台湾(中華民国)・台北の中正国際空港(現在の台湾桃園国際空港)に到着しました。一族は日本から出国しましたが、この措置は一時的なもので最終的には韓国に行くと見られていました。韓国政府は一族11名を2月8日の当日中に韓国に移送する事になり、夕刻に大韓航空の特別機で午後10時24分にソウルの金浦空港に到着しました。一族は韓国で歓迎され、3700万円の給付金(報奨金)を受け、韓国で新しい生活を始めました。また日本の政府当局は、予想以上に早く一族が韓国に向かった事に衝撃を受けました。なお一族が乗っていた「ズ・ダン号」は北朝鮮に返還されず、老朽化していたため日本で解体処分となりました。北朝鮮関連の事件が日本国民の関心事となるニュースになったのは、この事件が初めてです。また当時の知識層やマスコミは、金日成が行う「主体思想」や「千里馬運動」を好意的に紹介していました。また、社会主義国であるはずの北朝鮮に「出身成分」という身分制度があるとは思っていなかったため、この事件は驚きをもって迎えられました。また、事件と同年に発生した「大韓航空機爆破事件」も含め、現実が明らかになった事で北朝鮮への漠然とした好感は消え、厳しい国民生活や独裁を問題視するようになりました。北朝鮮は日本の行為を「国際テロ」、「非人道的犯罪」と非難しました。また、この亡命事件は1983年に「北朝鮮軍人閔洪九の亡命事件」に報復するために日本人乗組員2名が抑留された「第十八富士山丸事件」の解決に支障が生じました。北朝鮮は抑留した日本人を取引材料にする「人質外交」を行なっていました。北朝鮮当局が2月8日に日本赤十字社に送った書簡では、日本側による「ズ・ダン号」乗組員に対する対応を「政治的謀略行為」と非難し、「漁業問題についても強硬な態度に出るしかなく、「第十八富士山丸事件」で抑留している2人の帰国が困難になった」と主張しています。

今日の誕生日:足利義政(室町幕府8代将軍)、ヘンリー・ヒュースケン、山野愛子、吉田正、三國連太郎、いずみたく、有吉佐和子、中村八大、鈴木その子、北公次(元フォーリーブス)、太田裕美、桜井賢(THE ALFEE)、上島竜兵(ダチョウ倶楽部)、浜尾朱美、IKKO、南果歩、木下博勝、花田勝(若乃花勝)、久我陽子、川島章良(はんにゃ)、金子さやか、矢口真理(元モーニング娘。、ドリームモーニング娘。)、竹内由恵、鷲尾伶菜(元E−girls、元Flower)

今日の記念日:大寒、玉の輿の日、血栓予防の日、甘酒の日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「大寒」です。寒さが最も厳しくなる頃です。「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」とあり、一年で最も寒い時期です。1905年1月20日、アメリカの実業家J・P・モルガンの甥のジョージ・モルガンが祇園の芸妓・お雪と結婚しました。お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれました。この事から「玉の輿の日」となりました。納豆に含まれるたんぱく質分解酵素「ナットウキナーゼ」が血栓を溶解し、脳梗塞や心筋梗塞を予防する効果がある事をアピールするために「血栓予防の日」となりました。寒い時期に血栓が出来やすい事から「大寒」になる事が多い1月20日、また「2(ツ)0(マル)」と読む語呂合わせで記念日となりました。身体が温まる飲み物として「大寒」の頃がもっとも飲まれている事から「甘酒の日」となりました。
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