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2022年01月14日14:42

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01月14日の日記

今日の出来事:1861年−ヒュースケン暗殺、1865年−天狗党の乱:天狗党投降、1874年−喰違の変、1959年−南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬・タロとジロの生存が確認される

今日は、ヒュースケン暗殺です。ヘンリー・ヒュースケンは、アムステルダム生まれのオランダ人で、父は石鹸製造業者のヨアンネス・フランシスクス・フースケン、母はヨアンナ・スミットで後に家族と共に米国に渡って帰化しました。1856年に初代・総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めました。1861年1月14日に、プロイセン王国使節宿舎であった芝・赤羽接遇所(港区・三田)から善福寺への帰途、芝・薪河岸(東麻布)の「中の橋」の北側で攘夷派「浪士組」所属の薩摩藩士・伊牟田尚平、益満休之助、樋渡八兵衛、大脇仲左衛門、神田橋直助らに襲われました。翌日に死去しました。享年28でした。幕府はヒュースケンの母・ヨアンナに1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させました。事態を重く見た幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり、外国御用出役を新設するなど外国人警護に努めました。しかし、以後も攘夷派による外国公使館や幕府要人に対する襲撃事件「東禅寺事件」、「坂下門外の変」が起こります。

次に、天狗党の乱:天狗党投降です。天狗党は、一橋慶喜を通じて朝廷へ「尊皇攘夷」の志を訴えるため京都を目指しました。武田耕雲斎を首領、田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とする「天狗党」は、追撃して来た高崎藩兵を下仁田で撃破し(下仁田戦争)、信州諏訪湖近くの和田峠で高島藩・松本藩兵と交戦して勝利しました(和田峠の戦い)。「天狗党」一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み、美濃の鵜沼宿付近まで到達しましたが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、「天狗党」は中山道を外れて北方に迂回して進軍を続けました。「天狗党」が頼みの綱とした一橋慶喜でしたが、自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩などの兵を従えて彼らの討伐に向いました。揖斐宿に至った「天狗党」は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上して蠅帽子峠を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選びました。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は、関東の諸藩と同様に「天狗党」をやり過ごす方針を採りましたが、鯖江藩主・間部詮道と福井藩の府中城主・本多副元は「天狗党」を殲滅する方針を固めました。兵を率いて自領に通じる峠を厳重に封鎖し、「天狗党」が敦賀方面へ進路を変更すると、そのまま追撃に入りました。1月8日、「天狗党」一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至りました。「天狗党」は、一橋慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していました。しかし、その一橋慶喜が京都から来た幕府軍を率いている事を知り、これ以上の進軍は無理と判断した武田耕雲斎ら「天狗党」幹部は、前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞いました。幕府軍は言語道断であるとしてこれを斥け、14日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告しました。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対しましたが、総攻撃当日の1月14日、鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除し、「天狗党の乱」は完全に鎮圧されました。加賀藩は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処しました。しかし、田沼意尊が率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変しました。関東における惨禍を目の当たりにしていた田沼意尊らは、この光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けると天狗党員を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、藤田小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめました。衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与える事としました。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に、大人数が押し込められたため衛生状態は最悪で、折からの厳寒も重なって病に倒れる者が続出、20名以上が死亡しました。一橋慶喜はうやむやの内に事態を終息させようと図りましたが、討伐軍を率いた田沼意尊や関東の諸藩はこれに猛反発し、賊徒をことごとく処刑して禍根を残さぬようにすべきであると慶喜に迫りました。しかし、会津藩・桑名藩・加賀藩から「天狗党の行動は単に勤皇の志に動かされてのものであり、寛大な処分を願う」という旨の嘆願書を取り付けた慶喜の工作が功を奏し、結局828名のうち352名の処刑に止まりました。

その次に、喰違の変です。喰違の変は、東京の赤坂喰違坂で起きた右大臣・岩倉具視に対する暗殺未遂事件です。1873年10月に政府内で起きた「征韓論争」に敗れた征韓派参議・西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野した事は、征韓論に期するところのあった不平士族らにとって、不満を高める事となりました。急病により一線を退いた太政大臣・三条実美に代わって、論争を主導した右大臣・岩倉具視や内務卿・大久保利通に対する恨みが次第に増幅されていきました。1874年1月14日夜、公務を終えて赤坂の仮皇居(前年の火災により赤坂離宮を皇居としていた)から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉具視の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者たちがいっせいに岩倉具視を襲いました。襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人でした。いずれも西郷隆盛や板垣退助に従って職を辞した元官僚・軍人でした。岩倉具視は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷をしましたが、皇居の四ッ谷濠へ転落したため、襲撃者達が岩倉具視の姿を見失ったために一命を取り留めました。ただし、精神的な動揺は大きく、公務復帰は1箇月後の2月23日となりました(この療養中に「佐賀の乱」が発生)。知らせを聞いた内務卿・大久保利通は、ただちに西郷従道とともに参内しました。岩倉具視が軽傷と知ってひとまず安心しましたが、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見た大久保利通は、ただちに警視庁大警視・川路利良に早急な犯人捜索を命じました。そして事件の3日後の1月17日に、現場に残された下駄が手がかりとなり、武市熊吉ら9人は逮捕され、7月9日に全員が斬罪に処されました。この4年後の1878年、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族・島田一郎らに襲撃されて暗殺された「紀尾井坂の変」が起こります。

最後に、南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬・タロとジロの生存が確認です。タロとジロは、南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟です。1955年10月、稚内市で「風連のクマ」と「クロ」の子として生まれ、「タロ」、「ジロ」、「サブロ」の3兄弟でした。1956年、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定されました。当時の北海道には約1000頭の樺太犬が居ましたが、このうち犬ぞりに適した犬は40〜50頭程度に過ぎませんでした。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われました。このうち「サブロ」は訓練中に病死しました。1956年11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員が「タロ」、「ジロ」を含む22頭の樺太犬と共に、東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発しました。「宗谷」には暑さに弱い樺太犬達の為に、赤道越えのための冷房室が特別に用意されました。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で菊池徹と最年少の北村泰一が犬係を任じられました。昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊で犬ぞり曳きなどに使役されました。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となりました。また雌の「シロ子」は「ジロ」などとの間に8頭の仔を産みました。1958年2月、「宗谷」が南極付近に到着しました。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、「宗谷」は第2次越冬隊を乗せていました。しかし、天候の悪化から「宗谷」は昭和基地には到着できませんでした。昭和基地から帰還する第1次隊員の人間たちでさえ、小型雪上機でかろうじて「宗谷」に帰還する有様で、15頭の犬は犬ぞりに首輪で昭和基地付近に繋がれたままにされました。その後もぎりぎりまで天候の回復を待ちましたが、「宗谷」自体が遭難する危険性が出てきたため、第2次越冬隊の派遣は断念されました。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視されました。この犬を置き去りにした事により、観測隊は激しい非難を浴びる事となりました。なお、南極生まれの仔犬とその母犬の「シロ子」は、母と仔の分だけ燃料を抜いて重量を減らすという雪上機乗員の機転によって救出され、日本へ帰還する事ができました。7月には大阪府堺市に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立されました。ところが、1959年1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存している事が確認されました。着陸すると操縦士に駆け寄ってきましたが、大きく成長していたため、どの犬だったのか判別がつきませんでした。急遽、1次越冬隊で犬係だった北村泰一が次の機で基地に向かう事になりました。犬達は北村泰一に対しても警戒していましたが、頭を撫でながら次々と犬の名を呼び掛けると、1頭は「タロ」の名のところで反応して尻尾を振りました。もう1頭も「ジロ」の名に反応した事から、この兄弟が生存していた事が確認されたのです。基地には7頭の犬が首輪に繋がれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れませんでした。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのでした。北村泰一らは3次隊越冬の際、「タロ」と「ジロ」が2頭でペンギンを捕獲するところを目撃しました。この兄弟は特に首輪抜けが得意な犬でした。「タロ」と「ジロ」の生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭を称える歌「タロー・ジローのカラフト犬」が作られました。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの「東京タワー」に15頭の樺太犬記念像が設置されました。第3次隊にはペットとして樺太犬3頭が同行していましたが、第4次越冬隊ではさらに11頭の樺太犬が参加する事となりました。1960年7月9日、 第4次越冬中に「ジロ」が昭和基地で病死しました。5歳でした。「タロ」は第4次越冬隊と共に、1961年5月4日に4年半振りに日本に帰国しました。1961年〜1970年まで札幌市の北海道大学植物園で飼育され、1970年8月11日に老衰のため14歳7か月で死去しました。人間でいえば約80〜90歳という天寿を全うしての大往生でした。死去後は同園で剥製として展示されています。一方「ジロ」の剥製は東京・上野の国立科学博物館に置かれていましたが、極地で病死した状態から剥製にされた事もあり損傷が激しく、簡単に動かす事ができませんでした。以下が第1次越冬隊に同行した樺太犬一覧です。
「アカ」5歳:昭和基地で死去
「アンコ」2歳:行方不明
「クロ」3歳:昭和基地で死去
「ゴロ」2歳:昭和基地で死去
「ジャック」3歳:行方不明
「シロ」2歳:行方不明
「シロ子」0歳:第1次越冬後、8頭の仔と共に帰国
「ジロ」1歳:第4次越冬中に病死
「タロ」1歳:第4次越冬後に帰国
「テツ」6歳:第1次越冬中に病死
「デリー」5歳:行方不明
「比布のクマ」4歳:第1次越冬中に失踪
「風連のクマ」3歳:行方不明(タロとジロの実父)
「ペス」4歳:昭和基地で死去
「ベック」3歳:第1次越冬中に病死
「ポチ」2歳:昭和基地で死去
「モク」2歳:昭和基地で死去
「紋別のクマ」3歳:昭和基地で死去
「リキ」6歳:行方不明

今日の誕生日:北条貞時(鎌倉幕府第9代執権)、中御門天皇(第114代天皇)、永田鉄山、福田赳夫(第67代内閣総理大臣)、三島由紀夫、斎藤栄、細川護熙(第79代内閣総理大臣)、佐藤雅美、田中眞紀子、石田純一、萩尾みどり、森雪之丞、ルー大柴、吉田鋼太郎、柴田理恵、佐藤里佳、松居直美、雅まさ彦(元幕末塾)、山崎弘也(アンタッチャブル)、北川悠仁(ゆず)、玉木宏、新山千春、村上純(しずる)、上原多香子(SPEED)、武田航平、後藤友香里(元AAA)、豊田エリー

今日の記念日:飾納・松納、尖閣諸島開拓の日、愛と希望と勇気の日、褒め言葉カードの日

今日の「今日訓」:本日は、正月飾りや門松を取り外す日「飾納・松納」、1895年に日本政府が尖閣諸島を日本領に編入する閣議決定を行った事で「尖閣諸島開拓の日」、1959年に南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬「タロ」と「ジロ」の生存が確認された事で「愛と希望と勇気の日」、「い(1)い(1)よ(4)」の語呂合わせで「褒め言葉カードの日」となりました。
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