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2021年11月13日01:25

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metaphorestセミナーのメモ(バイオアート)

Aki Inomataさんのプレゼンテーションを聞いたメモ3つ。

・アンモナイトを模した形の人工シェルターの中にタコが好んで入る作品素晴らしいわ!!感動的!🤩クラッカー
今日はもうこれ見れてほんと良かったうれしい顔ぴかぴか(新しい)

・作者が確定できない作品(素材自体が作者となる可能性など)
自分の卒論が音楽に関してのその作者性の件についてで、それ自体がすごく近代の人間的な問題で、結構その作者性の問題は20世紀に問われていたと思うので、自分はそれは過去の問題だと思ってしまっていたため、前回のプレゼンテーションを聞いたときには、すごく昔の問題について繰り返しているように思ったのだけれど、今回聞いて、Inomataさんの場合は現代のやり方で、その時と違う方法で取り組まれていることに意義があるのだろうなあと自分なりに理解したような気がした。
(人間以外の動物と、人間と、マシーンを使っているという点で。特にマシーンでも同じものを模るというところは今の時代にしかできないので。)

あと、作品の現物はビーバー版と人間版とマシーン版でかなり違いがあるとのことだったけれど、もしもそのマシーンの精度(解像度)が、すごく高くなって、人間の目には違いが分からないくらいになったらその時に、この作品の問いたいことが最も顕在化するのかなあとか思ったりした。
なんていうか、見た目には違いがなくても作者が違うということによって作者の問題はより強く問われることになると思うから。

余談:
ちなみに20世紀に作者の問題を孕んだ作品を残した作家は沢山いると思うけれど、自分は昔、ものすごく王道だけれどもジョン・ケージのサイレントピースとか環境音を含む作品について、それが、作者が確定できない作品であると思ってそれを卒論で書いてた。

ちょっと音楽の場合は音なので、ある意味、今回のプレゼンテーションで言う木とか動物とかが、そこらへんに鳴っている環境音に相当すると思うのだけど(つまり人間が意図して出している楽器の演奏などではない音)、
ケージの場合は、「そこらへんに鳴ってる環境音を聞くだけで、それが音楽になる」っていう考えのもと、
「一定の時間、人間は何の音も意図的に鳴らさず、ただその場にある音を聞いているだけ」という沈黙の音楽を作った(作ったというか提唱したというか)。

で、そうなってしまうと、そこらへんで鳴っている靴の音とか、車の音とか、鳥や虫の音とか、空調の音とか、雨が降っていたら雨の音とか、そういうものが「耳を傾けて聴くべき対象」ということになり、それが音楽の中身であるということになるので、ある意味、作者は環境音それ自体ということで、演奏者は何も意図的には楽器を演奏しないけれど、でもその演奏者からも呼吸の音とか服の擦れる音とかが出てしまうので、それも音楽の中身となり、観客も呼吸や咳の音など出ればそれも音楽を生成している要素の一部を担っていることになるので、観客も観客でありながら演奏者や作曲家と同じような、音を作ったり音を出したりする立場にもなってしまうので、そういう意味では、音それ自体も、作曲者も、演奏者も、作者のような状況になってしまう。

ケージの場合は禅に影響を受けて環境と自分との差がないような、全ての他者の中に自分がいて自分の中にも全ての他者がいるみたいな、自他の区分がないような、円融無碍の状態を理想的だと思っていたから、そういう意味では、この沈黙の音楽では、それがある種、実現されていて、それは「作者が誰だか曖昧になっている」こと、「作曲家、演奏家、聴衆、音自体、その全ての立場の中に、他の立場も含まれているような状態になっている」ことによって成り立っている、ということだと思う。

まあ、それを出さなくてもケージの場合、偶然性に任せて音を決める音楽をやっていたわけだから、その時点で、作者は作曲家本人ではなく、ある意味、運が作者みたいなものだけれど、その場合はケージ自身が、作者が自分でなくなっていることを意識しているけれども(敢えて自分の意志を介さないようにして作者性を自分だけにしていない)、沈黙の音楽では、「聴取」に重きを置いていることがメインなので、べつに作者が誰だか分からなくすることが目的ではやっていないけれども、それでも、その音楽では結果的に、作者が誰だとも言えない状況が実現されていた、ということ。

自分は昔、そういう方向で、作者性の問題について考えたりしていたけど、なんか結局、その後、美術のほうでもそういう問題を孕んでいる作家を見てると、だいたい、1950年代〜60年代とかで、まあその頃が、芸術の分野では、それまで続いてきた近代の人間中心の考え方についての反省とか、作家が自分で意図した通りに作って、いかにも自分の作品ですっていう感じのことをやることに対しての疑問とか反発とか、そういうのがバンバン上がった時だったのだよね。

だからその頃に、作者性の問題は様々な形で問われたと思うけれど、でも、今回Inomataさんのを聞いて、それは現在でも、また過去とは違ったやり方で問われることの意義はあるのだなあと思った。

音で今そういうのがあるとすればどういうのがあり得るか、ちょっと考えさせられた。
まあ、よくAI使った作曲とかで、作者がプログラマーなのかAIなのかオーダーした人なのかとか、そういう話はあるけど、それは確かに今の時代に作者性を音楽の領域で問う場合の一つの在り方ではあるけれど、それはつまんない。

はい余談でした。

・アフォードされる件
環境にアフォードされて形が自然とできていくみたいな、環境に自分が対応したり、環境と自分との対話の中で作品ができていくみたいな話があったけどそれについて。

うん、そういうのあるよね。
今回はビーバーが木を齧るときに、硬いところを避けて削っていくことで独特な形ができるという話の流れで出たと思うけれど、それについて岩崎先生が、例えば人間も工芸の人とか、素材の声を聞いて作るみたいな、そういう考え方があるよねっていうお話もされていたと思う。

これもすごく自分の感覚での話だけど、そのアフォードされてる感覚とか、素材と自分との対話でできるみたいなのは、音を作る人たちにもあるね。

なんか、意図的に、考えて音を作ることもあるのだけれど、ある程度、ざっくりできると、もう、その音そのものが、どうしたらいいか教えてくれてるっていうか、もう自動的に、その音に応答する形で、できていくんだ。

その時には別に何も、こうしようとか考えてなくても、ただ自然と、「ああこの音だったらこうしなきゃ」みたいな感じで、ほんとに、「椅子があったから座る」とか「ボタンがあったから押す」みたいな感じで、環境が行動を促しているっていう、アフォードされているような感じで音ができていく。

で、そうやってできた作品のほうが、自分の場合、良いね。

あと特に、自分が思ったのだと、言葉に音を付けるときは完全にそう。
私はほとんど歌を作らないのと、作っても言葉を先に作るということはまず無いので、本当に僅かに、言葉に曲を付ける仕事をやったときの感覚なんだけど、その場合、作曲する人にとっては、言葉というのは既に与えられている環境のようなもので、もうそれに一番相応しい音が何なのかっていうことを、とにかくその言葉から誘導されるように感じ取って、それをそのまま音にしていく。自分の場合。
そうすると、もう自然と勝手に、旋律も、和音も、アレンジも決まってしまうので、なんか、感覚としては、完全に、自分ではなく言葉に導き出されたままの音、みたいな感じがする。これ私が作ったっていうより、ただ言葉に誘導されて自動でできたみたいな感じがする。

でもそれは、作っている側の感覚なので、実際聴いた人からすれば、もうすごく私の感じが出てしまってるとか思われたりするわけで、他人からすれば作者が私で、いかにも私っぽいと思われることになる場合もあるけれど。

でも自分の感覚としては、本当に、ただ、与えられたものに応答するという形で、何も自分が決めなくても、その言葉そのものが持っているアクセントとか、リズムとか、その言葉の意味とかによって、自動的にどういう音にしたら良いかが決まってしまうんだよね。
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