イスカリオテのユダは、金貨30枚でイエスを売ってしまったのニャ。
なぜでしょうか。
おそらくユダの心には、ヨセフの前例があったのではないかと思われるのニャ。
イスラエルの民の苦難を救うヨセフのような役割をイエスは果たすために来られたと、イスカリオテのユダは勘違いしている…。
あるいは、出エジプトのモーセのような…。
それは多くのイスラエルの民の勘違いでもあったはずニャ。
しかし実際には、予想に反してイエスは十字架にかかってしまう。
弟子達に合わせる顔がないと感じたユダは、自ら死を選んだのでしょう。
謝ろうにも当のイエスは、十字架にかかって死んでしまうから。
ユダにとって会うことがかなわない場所におられる十字架の刑を控えているイエスは、死んだも同じなのニャからね。
もはや弟子達に自分を取り成してくださると期待できる存在は、この世にいないとユダは悲しんだ…。
イスカリオテのユダは、心から懺悔して自らの命を自らの贖罪のために差し出すのニャ。
犯してしまった過ちの大きさ、取り成してくれる存在の見えない絶望の中で、ユダは自ら命を絶った…。
十字架の上で、自分が何をしているかわかっていないのだから許してくださいとイエスが御父に執り成した中に当然イスカリオテのユダも入っているのニャ。
そう言えば、イエスはイスカリオテのユダについて、生まれてこなかった方が良かったと…。
自分が人の子として生まれた目的の一番大きなものが、全人類のために御父に対して贖罪の子羊として自らを捧げものとする事なのニャ。
そのためには、誰かが裏切ってイエスを処刑したがっている人達に渡す必要がある…。
イスカリオテのユダがイエスに抱いていた勘違いしているイメージが、あだになってしまった事をイエスは嘆かれたのではないかニャ。
ヨセフのようにローマで奴隷になり、その能力を買われてユダヤ人のために働く人になると期待した…。
イエスはそれがわかっている…。
イエスはそんなイスカリオテのユダの弱さを、嘆かれたのではないかニャ。
そしてもはや私達は、自らの過ちの償いのためにイスカリオテのユダの真似はしないで良いのニャ。
改めて御父が救いの計画を立ててくださった御心に、感謝。
今回は、十分に理解されているとは言い難いイスカリオテのユダの裏切りについて考えてみたニャ。
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