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日本のラスタファリ、ムーブメント−3mixi日記

日本のラスタファリ・ムーブメントー3 mixi日記
2009年01月15日11:11

80年代の初期にレゲエを愛好した人々のうち最先端にいたのが、サーファーと美容師。彼等にもレゲエを広めていった功績があると思う。店を始めた頃にはハワイのサーファーたちが熱烈にボブ・マーリイを信奉している話を聞く。ジャマイカでもキングストンではダンスホール音楽が街を席捲していたけど、ジャマイカ一美しい砂浜のネグリルでは優しいルーツ音楽がどこでも流れていた。
原宿の店にもサーファーのお客が多かった。そして音楽では物足りなくなった美容師たちが開発したイクステンションの技術によるドレッドが街にあふれ出したのも90年代。仲良かったナッティ・ヒロは、ボブ・マーリイそっくりの容貌とジャマイカのラスタに負けない立派なドレッドで、初めて会った時には驚嘆したものだった。完璧さを求める美容師の執念が生み出した傑作だった。「ラスタファリの信仰を持つ者にしかしない」と言ってたそうだけど。このピーカブーのドレッドこそ、僕が知ってるうちで最高のドレッドだった。

 しかしそのうち多くの美容院がドレッドをつくり出し、店にも偽ラスタが横行するようになり、正直僕は(ドレッドは神の宿る神聖な髪)と思っていたから、嫌な感じだったなあ。話を聞くと「ドレッドにするとクラブで女の子にモテルから」と言った奴もいた。この頃から、僕はドレッド嫌いになる。その上、ジャマイカでも偽ラスタ、観光ラスタが横行している話を聞く。レゲエが世界的ブームになったからだ。信仰を忘れた外見だけのラスタとラスタ・ファッションは結局ひっそりと広がっていたラスタファリへの憧憬や希望を食い殺していったような気がする。三色のリストバンドが日本の高校生に大流行して、「世界中のリストバンドの半分は高校生に買い占められた」と言われた。ジャパンスプラッシュも横須賀では7万人というお化けイベントになり、それをピークに飽きられ忘れられていく。

 そうそう少し過去に戻ると、日本のラスタファリを語る上で忘れてならないのが、1985年にあった「ジャパン・レゲエ・フェスティバル」。これは我がトレンチタウンと長野は北志賀のペンション、キングストンとで開催した、当時としては大規模な、日本人レゲエ・ミュージシャンの祭典だった。二日間のイベントで15,6のバンドが出演。このイベントで最も画期的だったのは、ヒッピー系のバンドが、無理矢理、参加したことだった。今から考えれば、ヒッピーの聖地、長野だから、当然考えられることだけど、当時は長髪の異様な雰囲気の連中に腰が引けた。

このイベントをきっかけにレゲエの流れとヒッピーの流れが合体して、ガンジャと共に暮らすヒッピー系レゲエ・ミュージシャンの伝統が生まれていく。正直、当初は毛嫌いしていた僕だけど、あれから20年以上経って、今でもライフスタイルを変えることなく、自分達のレゲエを演奏し続けている彼等に、今では、尊敬と愛情を感じ、彼等の現在の姿とメッセージを映像に記録したいと思っている。結局彼等こそ、日本の代表的ラスタファリアンではないかと思っている。


RasNobu4202009年01月15日 11:41
北志賀のキングストンに何時も家族と行っていたという、オレの一回り下のシスタがラスベガスに在住、JAH GUIDANCEによりLINKしました.
彼女のお父さんは、昔レゲエバンドをやっていて、Riddimの石井さんとも交流があり、RankinTAXIさんともLINKがある.彼女の初恋の相手はPJだというし、この出愛は衝撃的な必然と感じています.
JAH RASTAFARI

A-QUIK2009年01月15日 17:07
ホント勉強になります。
日本にもそんな取り組みをしていた方がいたとは知りませんでした。

Irie-Marley2009年01月16日 01:35
私もサーファーの先輩からレゲエを教わった身です。
何年ごろか忘れてしまいましたが、下北沢のタウンホールの
1室で「レゲエとラスタ文化」についてのトークイベントと
がありまして(ヒロさんは主催者側として会場にいたかと
思います)そこで、ラスタマンの方への質問の時間があり
ある日本人の方が「どうしたら、そんなに綺麗なドレッド
になるのですか?」的な質問をし、ラスタマンの方からの
「ドレッドに綺麗も汚いもない」という返答が強く心に
残っています。
当時、ファッションドレッドであろう数人が「吉野家」で
平気な顔で牛丼食べている姿をみるだけで腹立たしく
思いました。

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コメント

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