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2021年03月03日00:14

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03月03日の日記

今日の出来事:1105年−藤原清衡、平泉に中尊寺を建立、1108年−源義親の乱、1863年−幕末天誅事件:林助暗殺、1868年−戊辰戦争:偽勅使事件、1933年−昭和三陸地震が発生、1945年−第二次世界大戦:マニラの戦い、2001年−スポーツ振興くじ(toto)が全国発売

今日は、藤原清衡、平泉に中尊寺を建立です。奥州藤原家の初代・藤原清衡が、平泉に中尊寺を建立しました。天台宗東北大本山の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。その中心となる「金色堂」は、京都の「平等院鳳凰堂(10円玉の裏)」と並び平安建築の代表とされています。この「金色堂」は藤原清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子・基衡、孫・秀衡の3代の遺体 (ミイラ) が安置されています。平泉には、奥州藤原氏4代 (清衡、基衡、秀衡、泰衡)の約100年にわたる王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺 (基衡が建立)、観自在王院 (基衡夫人が建立)、無量光院 (秀衡が建立) などの寺院が建立されました。後の江戸時代に松尾芭蕉がここを訪れて、「奥の細道(平泉)」にこの有名な句を残しました。「夏草や 兵どもが 夢の跡」、「五月雨の 降り残してや 光堂」さらに2011年には、「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の名で世界遺産に認定されました。世界遺産に認定されたのは「中尊寺」、「毛越寺」、「観自在王院跡」、「無量光院跡」、「金鶏山」です。現在、世界遺産への拡大登録を目指す遺跡群として「柳之御所遺跡」、「達谷窟」、「白鳥舘遺跡」、「長者ヶ原廃寺跡」、「骨寺村荘園遺跡と農村景観」があります。

次に、源義親の乱です。源義家は「後三年の役」で清原氏と戦って勝利しましたが、朝廷は私戦として論功行賞を認めませんでした。このため、源義家は従軍した兵士に私財を投げ打って報償しました。これによって、東国武士や百姓の源義家への尊崇は絶大となりました。京都でも威名は高まり、「天下第一の武勇の士」と呼ばれました。白河法皇は、源義家の武力を身辺警固に活用する一方で「前陸奥守」のまま昇進させませんでした。諸国の百姓に、源義家に田畑の寄進の禁止を命じる宣旨を出して、その力を抑え込もうとしました。白河法皇は源義家の対抗馬を用意し、弟・義綱を積極的に起用しました。出羽国で平師妙・師季が叛乱を起こすと、源義綱に鎮圧させました。源義綱は、平師妙・師季の首を掲げて堂々と行列して京都へ凱旋しました。源義綱は賞により、「従四位下」に叙せられて「美濃守」に任じられました。それでも、源義家の声望は依然として高く、1098年に白河法皇は源義家に院の昇殿を許しました。源義家の二男・義親は、父譲りの剛勇で「対馬守」に任じられて九州に赴任していました。1101年、大宰大弐・大江匡房から源義親が人民を殺し、略奪を行っているとの訴えが起こされました。朝廷は、追討を議しました。源義家は郎党の豊後権守・藤原資道を派遣し、説得して召還を試みました。しかし、現地に着いた藤原資道は、源義親に従って官吏を殺しました。このため、1102年に朝廷は源義親を隠岐国へ流罪としました。源義親は配所には赴かず、出雲国へ渡って目代を殺害し、再び官物を奪う乱暴を働きました。源義家は、自ら子・義親の追討に当たらねばならなくなりました。1106年、常陸国で三男・義国と弟・義光が合戦に及ぶ騒動「常陸合戦」を起こしました。このように、一族が引き起こす騒擾の中、源義家は68歳で死去しました。1107年、朝廷は平正盛を追討使に任じました。翌1108年、平正盛の軍は出雲国へ到着しました。源義親は、蜘戸(雲津浦)に城を築いて立て籠もりました。平正盛は因幡・伯耆・出雲三カ国の軍勢を率いて海を渡り、山を越えて攻め立てました。そして、3月3日に源義親と従者5人を討ち取りました。こうして、「源義親の乱」は鎮圧されました。源義家の遺志により、河内源氏の家督は四男・義忠となり、義親の長男・為義がその養子となりました。1109年、源義忠が斬りつけられて、5日後に死亡する事件が起こりました。容疑は、源義綱にかけられました。憤慨した源義綱は、一族とともに近江国・甲賀に立て籠もりました。源義忠の弟・為義がこの追討にあたり、合戦の末に近江の山中で源義綱は捕縛され、降伏して出家後に佐渡に流罪となりました。この時に、6人の息子が不幸な最期を遂げました。長男・義弘、次男・義俊は谷に身を投げて投身自殺し、三男・義明は義忠殺害の張本人とされて追っ手に追われて討死、四男・義仲は火に飛び込んで焼身自殺、五男・義範は切腹、六男・義公は自害しました。後に自害している。源義綱は1132年に配流先の佐渡で、再び源為義の追討を受けて自害しました。後に、源義忠殺害は冤罪であり、真犯人は義綱の弟・源義光であった事が判明しました。一方、白河法皇は「源義親の乱」を鎮圧した平正盛を、源氏に対抗させるように引き立てて昇進させました。山門衆徒の強訴の防禦、強盗の追捕や九州での平直澄の追討などに起用して功を上げさせ、従四位下にまで昇進させました。源義親の子・為義は、河内源氏の家督を継ぎましたが、祖父が任じられた「陸奥守」となる事が許されずに、「検非違使判官」のまま長く留め置かれました。伊勢平氏は、平正盛・忠盛父子の海賊追捕などを経て西国に勢力を扶養し、やがて孫・清盛の時代に全盛を迎える事になります。しかし、その後も源義親が生存の噂が流れました。1117年、源義親を名乗る法師が越後国に現れ、豪族・平永基の屋敷に出入りしました。国司が引き渡しを命じると、平永基は法師の首を斬って梟首しました。しかし、誰の首か分解らなかったため、平永基は検非違使の尋問を受けました。翌1118年、常陸国に源義親を名乗る者が現れました。下総守・源仲政(源頼政の父)が捕縛しようとしましたが、逃げられました。5年後の1123年に、下野国で捕えて京都へ送り、検非違使に引き渡しました。白河法皇、鳥羽上皇が実見する騒ぎになりましたが、源義親は既に討滅されているからと、この者は偽者とされて梟首されました。白河法皇が崩御した1129年、源義親を名乗る者が関東から入洛したとの風聞がありました。この者は、鳥羽上皇の意向を受けて前関白・藤原忠実の鴨院邸に匿われ、「鴨院義親」と呼ばれました。加賀介家定ら旧知の者たちが実見して別人と証言しましたが、本物と証言する者もいました。しかも、この「鴨院義親」とは別に源義親の旧家人・応弁房が熊野で目撃したという噂もあり、生存説は根強く残りました。ところが、翌1130年に近江国大津に源義親を名乗る別の者が現れて入京し、「大津義親」と呼ばれました。「義親」が二人同時に在京する奇怪な事態となりました。そして、両者は党類を引き連れて源光信邸前で乱闘となり、「大津義親」が殺されました。その後、藤原忠実邸(鴨院)に居た「鴨院義親」を騎兵20、従者40人が襲撃して、「鴨院義親」は党類10人と共に殺されました。鳥羽上皇は、事件の下手人を捜すように公卿会議に命じました。かつて、源義親を追討した平正盛の子・忠盛も疑われました。結局、検非違使の源光信が下手人という事にされて土佐国へ流され、弟・光保も連座して解官されました。

その次に、幕末天誅事件:林助暗殺です。林助は、京都の町役人です。1863年に、尊攘派志士約20名が京都所司代などによる探索に協力的であったとして、大宮通御池上ルにあった町役人長屋を襲撃しました。この時に、逃げ遅れて殺害されました。「安政の大獄」への報復に始まった尊攘派による暗殺対象は、ここに広く反対派にまでおよぶ事になりました。

その次の次に、戊辰戦争:偽勅使事件です。1868年、「鳥羽・伏見の戦い」の直後、元宮大工・小沢一仙や元館林藩士で高松家の家老・岡谷繁実らが、公卿・高松実村を奉じて「高松隊」を結成して挙兵しました。「高松隊」は、甲府城攻略を目的として岩倉具視や三条実美の賛同を受け、勅書や錦旗を受け取る事になっていました。彼らは「勅使」を名乗り、14名で京都を進発しました。先に進軍していた「赤報隊」を追い越して、信州で従軍者を増やしながら、諸国鎮撫の勅使を名乗って甲州入りしました。甲府に到着した時には、3000名の大部隊になっていました。しかし、朝廷から帰還命令が出ており、これを無視していました。このため、「高松隊」は、新政府軍の使者に難詰されて「偽勅使」とされました。こうして、「偽勅使」として東山道鎮守府総督に捕縛されました。小沢一仙が処刑され、高松実村は京都へ戻り、岡谷繁実は許されました。岡谷繁実はその後、戦国時代から江戸時代までの192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した「名将言行録」を著述しました。

そのまた次に、昭和三陸地震が発生です。昭和三陸地震は、1933年3月3日午前2時30分48秒に、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖約200kmを震源として発生した地震です。「明治三陸地震」の時と同じく、地震による直接の被害は大きくはありませんでした。しかし、強い上下動によって発生した大津波が襲来し、被害は甚大となりました。最大遡上高は、岩手県気仙郡綾里村(現・大船渡市三陸町の一部)で、海抜28.7mを記録しました。第一波は、地震から約30分後に到達しました。この地震による被害は、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及びました。行方不明者が多かったのは、津波の引き波により海中にさらわれた人が多かった為です。特に被害が激しかったのは、岩手県の下閉伊郡田老村(現・宮古市の一部)で、人口の42%に当たる763人が亡くなり、家屋も98%に当たる358戸が全壊しました。津波が襲来した後の田老村は、家がほとんどない更地同然の姿となりました。この「昭和三陸地震」の津波対策として海抜10m 、総延長2433mの巨大な防潮堤が築かれました。この防波堤は、1960年5月23日に発生、来襲した「チリ地震」の津波被害を最小限に食い止める事に成功しました。これにより、田老の巨大防潮堤は全世界に知れ渡りました。しかし、2011年3月11日に発生した「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)」による大津波は、この防潮堤を越えて町内を襲い、全域が壊滅状態となりました。

最後に、第二次世界大戦:マニラの戦いです。マニラの戦いは、1945年2月3日〜3月3日までフィリピンの首都マニラで行われた、日本軍と連合軍の市街戦です。日本軍は敗れ、三年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じました。1944年10月、日本軍は「レイテ沖海戦」で敗北しました。その後の「レイテ決戦」にも敗れると、ルソン島への連合軍の上陸は時間の問題となりました。日本陸軍の第14方面軍司令官・山下奉文大将は、マニラの「無防備都市宣言」をして司令部をバギオに移動し、山野での長期持久を図ろうとしました。マニラの放棄は市民の犠牲を避ける理由もありました。マニラを含む南部地区担当の振武集団のうち、小林隆陸軍少将指揮のマニラ防衛隊は、東方山地へと退去しました。しかし、大本営陸軍部はマニラの放棄には同意しませんでした。第4航空軍(司令官:冨永恭次陸軍中将)は強硬なマニラ死守派でした。海軍もマニラ放棄に反対し、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)を基幹に「レイテ沖海戦」の沈没艦乗員などを集めた「海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊(マ海防)」を編成し、市街戦の態勢を作りました。ただし、海軍でも現地の南西方面艦隊司令長官・大川内伝七中将は第14方面軍の方針に同調し、マニラ放棄に賛成でした。結局、マニラの無防備都市化は実現しませんでした。当時、マニラ市内には約70万人のフィリピン人市民が残っていました。1945年1月に連合軍はルソン島に上陸しました。2月3日に米第14軍団がマニラ地区へ突入しました。市街地に立て籠もった日本軍に対し、アメリカ軍は徹底した砲爆撃を加えました。これにより、市街地は廃墟と化しました。アメリカ軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラ約3000人も、戦闘に参加しました。マニラ港内に残っていたわずかな日本側艦船は脱出を試みました。2月7日、駆潜特務艇などの小艦艇7隻が成功しました。砲艦「唐津」は2月5日に港内で自沈処分され、そのほか小型艇1隻も自沈しました。2月6日から、サンフアンで本格的な戦闘が始まりましたが、守備していた日本軍陸戦隊1個大隊はわずか3日で潰走しました。陣頭指揮を執っていた大隊長・西山勘六大尉ら幹部が死傷すると、統制が失われました。マニラ南西のナスグブ方面にも米第11空挺師団が上陸及びパラシュート降下し、途中で藤兵団隷下の歩兵第31連隊第3大隊を撃破しながらマニラへ侵攻しました。市中心部と港湾部にもアメリカ軍が突入しました。南からの米第11空挺師団は2月11日にニコラス飛行場を占領し、13日には北部からの第14軍団と接触しました。日本軍は官公庁などの強固な建造物に拠って抵抗しましたが、包囲下に陥っていきました。日本側の第14方面軍や南西方面艦隊司令部などは、マニラ海軍防衛隊の撤退を実現しようと努力していました。岩淵三次少将も命令に従って2月9日にマニラ市内からフォート・マッキンレーに司令部を移していましたが、市内諸部隊の脱出が困難な状況を見て、11日に司令部を市内に戻しました。連合軍の戦力を過小評価した振武集団本隊は、撤退支援と士気高揚のため、歩兵第31連隊主力などの6個大隊をもって総攻撃に出ましたが、死傷600名以上の損害を受けて18日までに撃退されました。19日にはフォート・マッキンレーも陥落し、市内の日本軍は完全に孤立しました。2月24日、岩淵三次少将は、拠点を死守する旨の決別電を発しました。25日、市内の日本陸軍部隊はついに一斉脱出を試みましたが、途中の戦闘で野口勝三大佐と2人の大隊長は戦死しました。翌26日に岩淵三次少将は、できる限り部下を脱出させた後に司令部で自決しました。3月3日に、アメリカ軍は戦闘終結を宣言しました。日本軍の戦死者は約12000人、アメリカ軍の損害は戦死者1020人と負傷者約5600人でした。マニラ所在の捕虜収容所2箇所も解放され、連合軍捕虜約5800人とフィリピン人の囚人約3800人が無事にアメリカ軍に収容されました。市民の犠牲者は約10万人といわれています。この10万人は「マニラの戦い」を通じてのフィリピン人犠牲者の数で、犠牲者の大半は日本軍に殺されたとされています。戦後、このマニラでの虐殺行為の責任から、山下奉文大将は「マニラ軍事裁判」で絞首刑となりました。判決には山下奉文大将らによって、フィリピンから追われたマッカーサーの強い影響があったと言われています。具体的には聖パウロ大学(サン・パブロ大学)での994名殺害、北部墓地での約2000名の処刑、サンティアゴ監獄での集団殺害などが「極東国際軍事裁判(東京裁判)」では主張されました。

今日の誕生日:足利義視、アレクサンダー・グラハム・ベル(電話機発明者)、村山富市(第81代内閣総理大臣)、米田哲也、徳光和夫、ジーコ、ケント・デリカット、栗田貫一、マッハ文朱、米川英之(元C−C−B)、ドラガン・ストイコビッチ、村田めぐみ(元メロン記念日)、坂口杏里、川島海荷(元9nine)、両津勘吉

今日の記念日:上巳、平和の日、耳の日、耳かきの日、桃の日、民放ラジオの日、オーディオブックの日、三十三観音の日、金魚の日、ジグソーパズルの日、ポリンキーの日、3の日、三輪車の日、ささみの日、クレーンゲームの日

今日の「今日訓」:本日は、五節句の一つ「上巳」です。桃の花が咲く季節である事から「桃の節句」とも呼ばれ、「雛祭り」です。女の子の健やかな成長を祝う「雛祭り」は、平和の象徴であるとの考えから「平和の日」、江戸時代、3月3日に雛壇に金魚を飾る風習があった事から「金魚の日」、「桃の節句」から「桃の日」、3月3日の語呂合わせと「3」が耳の形に似ている事、電話の発明者ベルの誕生日である事から「耳の日」、耳の日である事から「耳かきの日」、「民放ラジオの日」、「オーディオブックの日」、商品の形が三角形である事から「ポリンキーの日」、語呂合わせで「三十三観音の日」、「三輪車の日」、数字の「3」は裏表を組み合わせるとピタリとはまるジグソー風な形になる事から「ジグソーパズルの日」、日本人は古くから数字の「3」を好み、「三種の神器」、「日本三景」など3つでくくる事によって物事が安定すると考えた事で「3の日」、「ささ(3)み(3)」の語呂合わせで「ささみの日」、「3」と「3」を向かい合わせるとクレーンゲームの景品を掴み取るアームの形となる事から「クレーンゲームの日」となりました。
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