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2021年01月27日22:08

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ドゥーチュィムニー「社説[2020墓碑銘]残された思い受け継ぐ」

 戦後75年の今年、激動の戦中戦後を生き、それぞれの分野で大きな足跡を残した方々が、惜しまれながらこの世を去った。

 作家の大城立裕さん(享年95)は、沖縄の文化や沖縄社会が抱える矛盾をテーマにした作品を発表し続け、沖縄文学の地平を開いた。

 米軍統治下の沖縄が舞台の小説「カクテル・パーティー」(1967年)では、戦後の基地被害と戦時中の加害行為という「被害と加害の二重性」を表現し、県出身作家として初めて芥川賞を受賞した。

 琉球処分、沖縄戦、米軍統治、基地と隣り合わせの暮らし、島の風土、南米移民…。作品に取り上げた沖縄の題材は幅広い。小説のみならず戯曲や組踊、評論などでも沖縄の歴史や精神文化に根ざした作品を発表した。

 日本との関係の中で揺れ動く沖縄の姿に「沖縄問題は文化問題」と復帰前から指摘してきた。「ヤマトの政治的な壁は厚い。対抗するために今必要なのは文化的独立」と2014年の本紙インタビューに語っている。

 「平成」を振り返る昨年3月のインタビューでは「平成は、日本政府の壁を最高に意識する時代になったが、この壁は昔のようには厚くはないと思う」との見方も示していた。

 名護市辺野古への新基地建設を巡る県と日本政府の対立はいまだ続くが、新基地建設反対の沖縄の民意は底堅い。

 「沖縄とは何か」を生涯問い続けてきた大城さんの言葉からは、沖縄の可能性がうかがえる。

■ ■

 悲惨な沖縄戦を次の世代に伝えるために力を注いだ語り部らも亡くなった。

 沖縄戦で夫と2人の子どもら親族11人を失った安里要江(としえ)さん(享年99)。乳飲み子らを抱え、病身の夫や高齢の親族らと戦場を逃げ惑ったつらい経験を、県内最高齢の語り部となった後も昨年5月まで語り続けた。

 「ひめゆり学徒隊」に動員された津波古ヒサさん(享年93)は、ひめゆり平和祈念資料館の建設から携わり、開館時から長年、証言員を務めてきた。

 座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き延びた宮城恒彦さん(享年86)。当時11歳。壕の中で爆発した手りゅう弾で、姉を失った。その地獄絵は、半世紀過ぎた後も「生々しく醜い形相を現して夢に見る」と書き記していた。

 自ら戦争体験者へ聞き取りし、1冊ずつ出版を重ねた証言集は28冊を数える。今年は一部のデジタル化事業にも携わった。

■ ■

 戦後75年。戦争体験者から直接話を聞ける機会は年々減っている。その数少ない機会も、今年はコロナ禍の影響で多くが中止を余儀なくされた。残念でならない。

 語り部活動を自身の「使命」としてとらえていた安里さん。戦争の犠牲になった友に思いを寄せ証言を続けた津波古さん。「戦争体験者は悲しみを怒りに変えないといけない」と新基地建設に怒りを示していた宮城さん。

 その思いをどう受け止め継いでいくか、私たちが問われている。
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