mixiユーザー(id:1762426)

2020年10月12日07:43

38 view

キリシタン紀行 森本季子ー254 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー112

天草鎮尚が受洗し、ドン・ミゲルと呼ばれるのは元亀三年(一五七一)頃とされる。鎮尚夫人は夫の受洗に反対したが、後に嗣子久種と共に入信し、久種はドン・ジュアン、彼女はドニャ・ガラシアと呼ばれた。続いて〈全家臣が改宗した〉とさえ伝えられている。
 修士アルメイダは天正七年(一五七九)、マカオに赴き、翌年、司祭に叙階された。既に五十歳であった。彼は天草地区の院長として河内浦に戻るのである。
 その頃、天草氏領内に三十五の教会が建ち、一万五千人のキリシタンを数えた、という。
領内三十五ヶ村がそれぞれ教会を有したことになる。”ドン・ミゲル””ドン・ジュアン””アマクサ”の名が宣教師たちによって西欧に伝えられ、この地のキリシタン隆盛を知る貴重な資料となっている。
 受洗後十一年、七十歳に近い老将ドン・ミゲル鎮尚は、河内浦城で死の床にあった。アルメイダ神父に付き添われた彼の臨終を、フロイスが次のように叙述している。
すでにほとんど臨終になった時、彼は司祭(注・アルメイダ)にこう言った。「某(それがし)霊魂(アニマ)に大きい平安と喜びを感じる」と。また息を引きとる前には、片手を挙げてこう言った。「もう飛んで行くぞ」と。(中略)その言葉とともに彼は霊魂を主(なるデウス)に帰し奉った。(前掲書)
 「もう飛んで行くぞ」、いかにもキリシタン武将の心意気を感じさせる最後の言葉である。
 眼前の崇円寺建造物が、フト消えて、四百年前の、河内浦城の一室が映像の如く浮かび上がる。鎮尚臨終の場面である。司祭アルメイダから最後の祈りを受け、同信の家族、重臣たちにみとられて逝ったドン・ミゲル。彼は自分の居城で、信仰を全うすることの出来た数少ない、幸運な戦国武将の一人であったのだ。
(注:ルイス・フロイス(一五三二〜一五九七)ポルトガル人、イエズス会司祭。 永禄六年(一五六三)来日し、慶長二年(一五九七)長崎で没した。その間、三年をマカオで過したほか、滞日三十年、織田信長の愛顧を受け、豊臣秀吉にも大阪城で謁している。大友宗麟と親交があった。安土、桃山時代の布教報告者として著名。初期日本教会史である「日本史」及び「日欧文化比較」などの著者。東西交渉史、初期日本キリスト教史研究資料として貴重なものとなっている。〈「日本キリスト教歴史事典」参考〉)

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する