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2020年08月21日07:45

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キリシタン紀行 森本季子ー214 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー72

「落人の墓」と言われる石塔が「善者様」の近くの畑にあった。石塔はどこも申し合わせたように祠型で、この墓にはしめ縄のようなものが掛け回してある。
 西平の下は荒磯。天草の乱・富岡戦での一揆側死者が城方によって海に投げ込まれたとすれば、西平の海岸あたりに打ち上げられたであろう。
 下島南部のキリシタンは参戦こそしなかったが、戦いの様子には非常な関心を持ったはず。攻城の失敗、四朗軍の島原への撤退。ニュースはすぐに伝わってくる。漂着した遺体がキリシタンかどうかは、農民の貧弱な身なり、十字にそった月代でも分かる。西平の里人はその遺体をひそかに集落に運んで墓を立てたのであろう。今でもその墓を守っているのは隠れの伝統を守る旧キリシタンの子孫である。
 土地の主婦が語るところによれば。畑の中では邪魔なので、ある時、石塚を移転したところ、その家に病人や事故が出た。これは塚のたたりだというので、再び元の位置に戻したのだと。
 大江地方で、よくたたりという言葉を聞いた。たたりがあるから近付けない、たたりがあるから手を出さない、など。土俗信仰の中で、民家に入りこむたたりの思想とそれを恐れる心が、長い年月の間に隠れの人々の中にも根付いていった。
 それともう一つ。九十パーセントが隠れキリシタンの村では、常に密偵探索の目を警戒していなければならなかった。それで、たたりを利用して、彼らの聖所、聖物を守った、と思えるふしもある。後に述べる「妖蛇畑」もそれである。
 「落人の墓」の回りには夏草が繁り、天草灘から吹き上げる海風が、その鮮緑をそよがせていた。

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