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2020年08月16日06:46

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フェミニスムとマッチョイズム雑考

フェミニスムのオルタとはマッチョイズムと知るに至ったのはいつのことだろう。フェミニスム発祥でかヒストリーがヒズストーリーなんだからオルタナティブにハストリー(ハーストーリー)が有ってもいいとか自然発生的に女性史みたいなものが確立したりしているのであろうか?
フェミニスム社会学ににわかに触れる切っ掛けになったのはナチュラルボーンなタイガースファンにして藤本義一の大阪版11PMの歴代ホステスの1人でもあったタレント遥洋子さんがテレビのちょっとした討論で論負けしたくないと一念発起して東大教授のフェミニスト社会学者上野千鶴子先生の手厳しい社会学の講読演習などの東大授業の聴講生としての体験記を読んだのが何より大きいと思う。例の東大で上野千鶴子にケンカを学ぶと題され筑摩書房から出たこの本は案外一見ふざけているようで本格的なほどに知的な学問本であり論争を吹っ掛けられたときの戦略なども箇条書きで書かれていたり、実用書的な学問の書でもあるという特異な読まれ方で知るひとぞ知る遥洋子の出世作になった画期的な著作だったなあと思うのだが、
マイケルJサンデルの政治哲学や経済哲学の一般向け作品がリリースされて時間が経過するなかで遥洋子の本気の大学聴講生から大学講師への起用までが描かれたそうした学問体験記を改めて読み返しながら、ふと無敵の論争家谷沢永一先生の手厳しさとユーモアが遥洋子に乗り移ったかとか考えたりもしたが思えば遥洋子の本に関する谷沢先生の書評コメントも直接に聞きたかったなあと谷沢先生の死がつくづく偲ばれる。多分谷沢先生はおもしろサンデーのコメンテーターとレポーターの間柄で遥洋子の頭の冴えた面を結構評価していたし上野千鶴子にケンカを学ぶを谷沢的に密かに評価していたかもなあとは思うほどに遥洋子の著作家としての誠実さこそまさに再評価されてもよかろうに。

とはいえヒストリーのオルタとしてハストリーが誰かれなく語られたのはある種の慧眼的な着想だなとはやはり思うのだがそうした発着想は下手したらある英語教師がヒストリーって結局よくよく見ればヒズストーリーなんだよなあ、なら女からの歴史ハーストーリーつまりハストリー女性史めいたものがないのはおかしいよなめいたことを男性名詞や女性名詞の話に絡めながら英語の授業中にぼやいていたのが慧眼だとは見えて引っ掛かったりして記憶していた。そうしたことが基づかれフランス語やドイツ語を先ずは名詞の性別から学びをアプローチしてある程度のフランス語理解があるのは個人的に教養をもっと涵養せねばと思ったりもする。
今になってはフェミニスムムーブメントのなかでハストリー女性史が学問的に確立したりしてきているのだろうなとは思う。そうしたハストリーばかりでない学際的な学問的体系の進化や深化が進んでいることがそれはそれとしてよしとしながらも果たしてそうしたフェミニスムに基づいた学際的な諸学問が遥か未来に過剰なる女性上位の人種性別カーストの世間を暗黒の未来を緻密に描き出した沼正三の家畜人ヤプーのようなことに日本人がなりはしまいか現実味を帯びやしまいかとの一種の危惧は覚える訳である。
クリスチャンとして私はフェミニスム的な神学などといった神学が確立されたのも注目に価するとはやはり意識して考えたりもする。ややもすれば伝統的な聖書神学における聖書解釈が男中心社会マッチョイズムとして描かれたりもするのでか、ついに素朴ながらもマッチョイズム的男性優位的だとフェミニストに批判がされて伝統的聖書神学のオルタとしてフェミニスム神学が確立はされたりしたのだろう。
フェミニスムは女性地位向上や男女同権の実現に貢献した画期的な社会的な運動ではあったのだが、女性専用電車にはじまったのか女性専用便所や女性専用飲み屋みたいな過剰なる女性上位の歪んだ現象が発生すらしている問題もかえって生み出してしまった。
フェミニスム国文学がなお研究が在るとするなら推察されるのが文学とは女子供のための軟弱なる代物とされながら平安時代にまでさかのぼるなかで女性がまさに文学の作者と読者だったことと男でも女のようになってかカナモジ文学を志した紀貫之の土佐日記から物語文学随筆文学日記文学と和歌とのかかわり合いめいたものがなお女性目線で読み直されていくみたいな研究が進んでいたりするのかも分からない。思えばそれでも男性も女性も法的に権利を平等にしたは良いが女性が権利を濫用しているきらいは在るまいか?女性哲学者で埼玉大学の教授として日本語で哲学をなした長谷川三千子でさえ女性がしゃしゃり出るのはおかしいと女性の権利濫用を諌めたりもしているのだ。自由で平等で民主的な国家をまさに日本国憲法は謳ってはいながらもそのなかで権利の濫用を諌めて公共の福祉に照らした権利行使を条文化したりしてはいるのだから、ある意味個人主義暴走のバイアスに日本国憲法の公共の福祉の概念が効いているのは改悪を進めんとする自民党主導の改悪改憲草案が通るなと願わずには居れないのだ。
今やフェミニスムを越えて多様な性意識からかLGBTQの社会的な運動に基づいたマルチジェンダースタディまでもが確立されて来つつもあるようだ。そうした風潮に抗ってなのか西アフリカベナンの駐日全権大使にまで上り詰めた二代目そのまんま東ことゾマホンルフィンがエッセイでも少しだけ書いていたことが引っ掛かる。同性結婚を認める国はおかしいとか言うのだがそれはちょっとゾマホンルフィンが保守的な素朴なヘテロセクシャリティからくる発言なのかなあとか考えたりもしたのだ。たしかに結婚とは子孫を残すためにあるとヘテロセクシャリティからはまさに同性結婚が罷り通ってはならないとは自然には考えられうる思考ではあろう。世の中は男と女しかいないのだから素朴にノーマルなヘテロセクシャリティのなかで夫婦が結婚し子供を産み子育てをして自立までさせていくそうした基本のきから出発をして家政学家庭科の学体系などがもっと男にも学ばれなくてはなるまいかなあとか改めて考えたりもするわけである。
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