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2020年05月16日03:23

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ガリノイズ 1983〜2020

あたしゃFacebookもやってるんですが、最近かつてmixiで流行ったバトンが再び流行ってて。
それで、アーティストチャレンジという、お題目をガリノイズのダンサー山田花乃ちゃんから受け取って書いてたら、長くなりそうだなと。
それで、せっかくなんでmixiの方にも転載したいなと。
まだ半分しか書いてないんで、途中経過という感じなんですが。
折しも今月の25日に私が高校生の頃に宅録したガリノイズのカセット音源がCD化されるというタイミングもあって、昔のことを振り返ることが多くて。
あと、家から出るな的な世間的な風潮もあってね。


1.
私は高校ぐらいから曲を書いたり演奏したり録音したりをしてたのですが、ライヴで人前でパフォーマンスをやるようになったのは、高校を卒業してから。
19歳の時に渋谷にあった頃のアピアという弾き語り系のライヴハウスのオーディションを受けて、伊東マスター(しばらく、お会いしてないんですが、元気にしてるかな。。。)に拾っていただきました。
今でも伊東マスターには、とても感謝しています。
21歳の時に、横浜でピノキオというバンドにドラマーとして入ることになりました。
2年間、アピアでギター弾き語りをやらせてもらってたのですが、たまたま仕事をしてた会社の先輩のバンドのライヴでドラムを叩くことになって。
そのライヴを観に来てた三笘氏に、一緒にバンドやらないか?って言われたら、その気になっちゃって(笑)。
後に第二次ピノキオってのもやるんですが、第一次ピノキオは2年で解散しました(すげー、こう書くと、なんだかジェフ・ベック・グループみてーだな)。
ピノキオが解散して、どうしよっかなぁ〜と思ってる時期に、たまたまアピアのマスターが東横線の元住吉駅近くでやってた飲み屋"ピンクのぶた”(今から考えるとフロイドの『アニマルズ』の影響がモロな店名だよな)に飲みに行って(私も当時は元住吉周辺に住んでいた)伊東マスターと久しぶりに話したら、またアピアで歌わせてください!って流れになってたんだよな。
それでアピアに復帰して、このあたりから現在まで続くガリノイズの基本スタイルが形成されることになります。
1991年あたりのことです。
この時期に渋谷アピアで知り合った人たちが、今でもつきあいがあって、とても嬉しく思っています。

2.
私が90年代初頭に渋谷アピアに復帰した当初は、佐藤信昭ソロ名義の弾き語りで、「とんでもないことになった」「国鉄」「影を見た少年」「Jusu like another time」「故郷の風」といった、第一次ピノキオをやってた頃に書いた曲を歌っていました。
バンドで演奏された曲もあるし、されなかった曲もありました。
アピア復帰から程なくして、リズムマシンを導入し、現在へと続くガリノイズのスタイルになっていきました。
「羅針盤の上で」「僕は時間の流れに傷をつけてみたい」「日食の終わりに」「つつじ」「One-Love」「十代の孤独」といった曲は、ピノキオのドラマーを経て1人で演ることになって、自分の向かうべき方向性を模索している初期の段階で生まれてきました。
アピアには1999年まで、お世話になりました。
2000年に直江実樹さんがガリノイズに加入するのですが、実は、この時期に私の結婚生活の破綻というのも同時にあって。
さらに、オフクロの具合が悪くなってきてたこともあり、長年住んだ横浜を離れて新潟の実家に帰るという話も同時期に出て。
結局、私が新潟に帰ったのは2003年だったのですが、横浜を離れる時に直江さんに"ガリノイズは続けますよね?”って言われたのが、その後の私の音楽活動を占う重要な一言になったのです。

3.
1988年から1990年までピノキオのドラマーとして活動してたのですが、バンドが解散したので、1991年からアピアに復帰して、また歌い始めたのですが、その後も、けっこうバンドでドラムを叩く機会が多かったんですよね。
まずはアピア復帰半年後ぐらいに知り合った岩永さんがベースを弾いてたケープ・レインガーというバンドに誘われました。
ヴォーカルの矢野君の地元、九州の唐津市のライヴハウスで演奏したのが思い出ですね。
やのっぴー、元気にしてるかな。
そして、岩永さんがダットサントラック主催の関東ダットラ集会で新宿JAMに弾き語りで出る時にバックでドラムを叩いてくれないか?との誘いを受け、2人でライヴをやったら、そのステージを観てた浦邉さんがベースで入ることになり、その後、Band & the Bossという3ピースのバンドになり、ダットラ集会が終了するまでの1年間、毎月新宿JAMに出演させてもらいました。
Band & the Bossでシルバーエレファントに出たこともあったなぁ。
そのつながりで浦邉さんがレコーディングをやることになった時にドラムで入ってくれないか?との誘いで、アルバム『ニュータウンの隣で』に参加。
レコーディングメンバーで2回、新宿ACBでライヴもやってます。
この時はベースが両羽さんでギターが清田さんという、解散したグランドホテルからの2人。
このグランドホテルというバンドのヴォーカルだった渡辺さんは私が住んでたアパートの近所に住んでて、よく会ってました。
アピアのガリノイズのライヴで、渡辺さんがベースでゲスト参加してもらったこともありました。
岩永さんと、しえりちゃんの2人ユニット、ぷりてぃーずにドラムで入ってライヴをやったことも。
この時のライヴが後の麻香しえり&ガリノイズにつながるんだよな。
そうこうしてるうちに、解散したピノキオが再結成されることになって、ガリノイズの活動と並行しながらピノキオのドラマーに復帰。
さらに、岩永さんとブーツボーイズをやってた会田さんからカウンターパンチというバンドを結成したいと誘われて、参加したのですが、なかなかメンバーのスケジュールが合わず、スタジオで何度か演ったのみ。
その話を聞きつけた岩永さんが、だったらブーツボーイズのライヴでドラムで入らないか?と。
そんなわけで稲生座やルースターのライヴに参加。
ルースターのライヴでブーツボーイズが梅津さんを迎えてライヴをやった時に一緒に演れたのが思い出です。
浦邉さん、両羽さんとの3ピースで36時間というバンドもやりました。
ホットショットというライヴハウスで演ったな。
元々は浦邉さんのアピアでの弾き語りライヴに私がドラムでゲスト参加したことがきっかけ。
1991年から2003年までの話なんですが、最初はアピアに復帰してガリノイズとしての活動を1人で続けるのと並行して、アピアで知り合った友達のバンドでドラムを叩くという感じだったのですが、途中からピノキオが再結成したり、ガリノイズに直江さんが入って2人組になったりして、世紀末から新世紀の始まりあたりは忙しかったなぁという記憶。
横浜のガラス工場で3交代勤務をしながらバンドの掛け持ちをしてて、月6本とかあったよなぁ
夜勤明けでリハに行ったけど、眠くて楽屋で寝てたりとか。
2003年の春に横浜を離れて新潟に帰って、一旦リセットされた形には、なりましたが。
新潟に帰った時に、もうドラムを叩くことはないだろうと思ってたんだけど、mixiでトム・ヴァーレインのオフ会がきっかけで結成されたMr.BINGOのドラマーになったのが00年代中盤ぐらいかな。
種口さんと小倉さんとSEED MOUSEってバンドもやってたし、Room 201や麻香しえり&ガリノイズでも叩いてるし。
ドラムを叩いてるということで、いろんなバンドでプレイすることができたことは有難いと思っています。
あたしゃシンガーソングライターなんだけど、ギターやベースやキーボードは、ほぼ自分の曲しか弾けないんですわ。

4.
2000年に直江さんが入って2人編成になったガリノイズなのですが、実は、この頃に、すでに私が横浜を離れて新潟に帰るって話は決まっていました。
ただ、実際に引っ越したのは2003年で、この3年間はプライベートなことも音楽活動も、やり残したことに対して区切りをつけるために必要な期間だったのだと思います。
1999年に直江さんがアピアに私のライヴを観に来てくれたのですが、結局、直江さんと2人でアピアのステージに立つことは、ありませんでした。
ちょっと、当時の記憶を辿ってみようかな。
私の結婚生活の破綻とオフクロが具合悪くなってきたのが1999年あたりだったような。
とりあえず新潟に近いうちに帰るってことは決めたものの、離婚にまつわる様々で一緒に住んでたアパートを引き払った後に横浜に残って残務処理(言い方が生々しくて失礼!)をしてたんですね。
私はアパートの契約期間が残ってるうちに横浜の鶴見にあった、当時働いてた会社の独身寮に入って、仕事が終わったらアパートに行って引っ越し作業、みたいな。
ちなみに直江さんと私が出会ったのがその会社、つーか、会社は違ってたんだけど、現場が鶴見のガラス工場3交代で、班が一緒だったんですね。
私が新潟に帰るって決めた時、まず思ったのはアピアの伊東マスターに、今までお世話になりましたと言ってアピアを卒業(なんか、こういう言い方だとアイドルみたいうれしい顔)させてくださいと。
そしてアピアで知り合った友達のライヴに行っては、打ち上げに出て、実はこういうことになっちゃって。。。と。
それでひとつ思い出に残ってるのが、飯浜さんのライヴの打ち上げで、それを言ったら、打ち上げが終わって渋谷駅に向かって歩いてる時に南口の歩道橋の上で“佐藤さん、新潟に帰っても、また会えるよね?”って言われて。
で、顔見たら泣いてるんですよ。
その時の、飯浜さんの顔と、歩道橋の上というシチュエイションは、やたらと鮮明に憶えてるのですが、私が、どう答えたかが全く記憶に残ってなくて(いーはまちゃん、御免!)。
結局、その後2〜3年の間、私は横浜に留まることになり、私が新潟に引っ越す、ほぼ同時期に飯浜さんは大阪に引っ越すことになりました。
大阪にいた頃の飯浜さんと私はメル友でした(笑)。
うん、よくメールのやりとりしてたわ。

5.
2000年に直江さんが入って2人組になったガリノイズは、主に新宿シアターPooで、アピアつながりの沖本巡さんが主催で2ヶ月に1度の割合で開催してたイベントに出させてもらってました。
その他にも、直江さんが寺田亮平君とやってた2人組ユニット、電脳ショックボーイズと合体して、江ノ島のオッパーラや丹沢の山の中でアーヴというイベントに参加してライヴをやったのも思い出です。
直江さんが入って、実質2年ぐらい活動した後に、私が個人的な理由で長年住んだ横浜を離れて新潟の実家に帰ることになりました。
それで、2003年の5月31日にシアターPooでガリノイズのラストライヴを開催していただき、その時に寺田君のアパートでレコーディングした音源を中心に編集した『誕生と喪失』というCD-Rと、直江さんが編集した「ガリノイズ詩集」を、当日来てくれた、お客さんに無料で配布しました。
新潟の実家に帰った私は、しばらくカセットMTRで曲を作り、そのカセットを横浜に住む直江さんに郵送して手を加えてもらうということをやってました。
「母船」「火の車」「屑になった天使」「ストックホルム・シンドローム」「デリバリー・エルス」の5曲です。
年は明けて2004年に直江さんから連絡が入り、富山のノイズ王からライヴの誘いがあると。
それじゃあ、私が新潟帰ってから作った曲をガリノイズとしてライヴで演ってみますか、ということで7月に富山に2人で行って、その時に初めてSeed Mouthこと種口裕人さんに会いました。
この時に直江さんが富山行きの高速バスの中でディジュリドゥ奏者のHIDE190さんと出会い、ライヴを観に来てくれたんですね。
それでイベント終了後に、2週間後に富山まつりで城址公園前で開催されるイベントに出るから、ガリノイズで共演しないか?との誘いを受けました。
直江さんはスケジュールが合わなくて残念がっていたのを、よく憶えていて。
それで、私1人でもよかったらと言ったら、それでもいいので、ということで話がまとまり、初富山ライヴから1週間後に野外ライヴにHIDEさんとのセッションということで出演させてもらいました。
「母船」「ストックホルム・シンドローム」「砂の刃」をプレイしました。
「砂の刃」は4つ打ちテクノのオリジナルヴァージョンで、踊ってる人がいたのを憶えています。
HIDEさんは「ストックホルム・シンドローム」が、お気に入りだと言ってくれました。
その晩は2週間前と同じく、種口さん宅に泊めてもらいました。
城址公園前ライヴの話が出た時に、またウチに泊まってきなよって言われてたんですね。
その晩に、種口さんが新潟大学在学中にどういう活動をしてたかとか、いろいろ突っ込んだ話も聞けて。
翌日、新潟へ帰る途中に直江さんから電話が来た時に、種口さんと話せて、とても楽しかったし、これからも富山に呼んでもらえそうだから、またガリノイズで行きましょう!と言ったのもよく憶えてます。
2004〜2006年の3年間のガリノイズは、ほぼ富山でしかライヴをやっていません。
2005年に1回だけ中野プランBで「溶鉱炉」というイベントに参加させてもらい、この時に小川京子さん、邪外さん、きゅうさん、浦邉さん夫妻が観に来てくれたのをよく憶えています。
この時のライヴも楽しかったな。
ただ、富山でのライヴも年3回ぐらいで、そんなに本数が多かったわけではありません。
どちらかというと、種口さんとは個人的な付き合いができて、よくお互いの家を行き来してて、ライヴがあってもなくても会ってました。
ガリノイズ周辺の状況が変わってくるのは2007年以降になります。


こういうのって、最初はサラッと書こうと思っても、書いてるうちに段々がディテールが細かくなってくるんだよな。
それで過去の記憶を辿るのが面倒くさくなってきて、しかも年喰ってくると昔のことは、よく憶えてるけど最近のことは忘れてるということが多いということもあるから、後半に行くに従って、おざなりになっていくという予感も。。。
とりあえず、10まで書く予定ではあります。
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