mixiユーザー(id:19347649)

2020年03月08日10:15

124 view

【聖書の奥義を探る】(別コミュ)

みことばに生きるコミュのテーマ【聖書の奥義を探る】についてのコメントをメモ(記録)と致します。

柱書:

【聖書の奥義を探る】

いのちのパン さん

2020年03月06日 20:05


敬虔にヤーウェに仕えるパリサイ人はなぜ、主イエスに逆らったのか
わたしはキリスト教家庭に生まれ、16歳から主に仕えています。教会の中で、わたしは合唱をリードします。25歳で神学院を卒業した後、神に仕える道を正式に歩みました。わたしは、一生主に仕えることが最も光栄なこと、最も意義のあることだと思い、また、以前神に遣わされた人を羨んでいます。特に「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」(ロマ10:15)というパウロの言葉を見た時、わたしは神に仕えるすべての人は神に油塗られ、遣わされる者、神の代弁者、神に対して最も認識がある人だと思っていました。だから、わたしは心の中でいつも一種の優越感があり、わたしが神の奉仕者として神によって選ばれ、定められた人で、わたしの理解する真理は一般の信徒より多く、神に対するわたしの認識も多いと思っていました。わたしはまた、わたしより年上の牧師、長老を崇拝し、彼らのように多く働き、多く費やし、苦しみを多く受けることを極力追い求めていました。その後、わたしの仕事の範囲がますます大きくなり、わたしの導く人がますます多くなるので、わたしは自分はすでに主を認識し、すでに聖書の中のすべての真理を理解し、自分は神に喜ばれる人になったと思ってしまいました。

全編を読む: https://www.bible-jp.org/pharisee-serve-lord.html?source=tgz&num=3017493


コメント(4)


[1] モリオバッハ

2020年03月07日 11:42


いのちのパン さん

おはようございます。

貴殿のヒストリーを開示され、聖職者のプロとしてのスタンスを診ることが出来、ありがとうございました。

私は、高校1年生(1963年)時、近所の東駒形教会(賀川豊彦牧師創立)に通いはじめ、KKS(高校生のための聖書研究会)に参加し、担当の先生と喧々囂々な観で、ディスカッションした頃を懐かしく想います。

今までに、多種多様の宗教施設で、100人余りの聖職者のプロにお会いすることが出来ました。

東駒形教会の専属牧師も、今までに、4人が変わり、聖書の内容中身について、聖書の本質・真理について、語り合って参りましたが、皆様、例外なく、誤認混同、錯綜状態の様相で、適切な回答・解答は、得られませんでした。

私がキリスト教に通いはじめた動機、以下の2つの事象について、解決することでした。

(1)「隣人を愛せよ!!」と聖書で、語られているのも関わらず、なぜ、クリスチャン同士が戦争してしまうのか。

(2)クラシック音楽(教会音楽)の神髄(真理)を探るために、その源泉は聖書にありと想って、聖書の内容中身の精査をすること。

でしたが、100人余りの聖職者のプロに、インタビュー・ヒアリングしても、誰一人として、明快な、適切な回答をして戴けたプロは、いませんでした。

この2つの事象を認識出来ない限り、人類の健全化は達成できず仕舞いです。

如何でしょうか?

貴殿が気づかれた真理とは、何かを、ご教授して戴ければ有難いです。

感謝。



[2] いのちのパン さん

2020年03月07日 20:45


>>[1] モリオバッハさん 、コメントありがとうございます。私はまだ未熟者ですので、わからないところがたくさんあります。こらからもよろしくお願いします。神様を信じるのは神様にしたがって、神様の御言葉を信じて、行うことだと思います。
神様は言われた:神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。このような形で神を信じる人は、神を信じることの意義を失っており、最後の最後まで信じ続けるかもしれないが、神の承認を得ることは決してない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。



[3] いのちのパン さん

2020年03月07日 20:50

よかったら、交わりましよう。
「聖書を信じることは神を信じることと同じでしょうか」

全編を読む: https://www.bible-jp.org/belief-in-the-bible.html?source=tgz&num=1856346



[4] モリオバッハ

2020年03月08日 09:46

>>[3] いのちのパンさん

おはようございます。

ご質問に対して、下記に回答しましたので、ご参考に供すれば幸いです。

Q1:聖書を信じることは神を信じることと同じでしょうか?

A1:同一(同質)ではありません。

理由:

聖書は神様から発信された言葉ではなく、聖書が編集・編纂された当時の学者達のプロジェクトが創作した著作物であると解するのが相当です。

神は、全ての地球から遠方の天体まで、見守っている存在と解するよりも、あくまでも、我々一人ひとりの精神界(魂・心・気持ち)のあるべき姿に変心させようとする働き(作用効果を果たす)を表現していると診ています。

参考:

私は、サラリーマン時代、知的財産部(旧特許部)に、28年間従事し、様々な知的財産権の管理や侵害訴訟事件に対応してきました。

そのような環境で、多種多様の事件(案件)を診てきて、聖書は、種々の伝記や伝章(聖句)を編集・編纂した著作物の集まりであり、神話物語は、この世の事件記録ではなく、例え話、御伽噺として、小説のような観を呈していると解するのが相当であると判定しました。

聖書をはじめ、世界中の様々な聖典・経典に描かれている神話類は、人類の最高に値する著作物と位置づけました。

宗教は、我々一人ひとりの精神界(魂・心・気持ち)のあるべき姿に変心すべきことを、精神界としてのお話は、我々凡人には、理解困難なため、物質界に置換されて、描かれたお話で、例え話、御伽噺として、創作されたものと解しています。

従って、特許屋として、技術屋として、理系人の思考法では、聖書の創世記から、ヨハネ黙示録に至るまで、この世で起きた事件記録として、認定できるものではないと判定したのです。

我々が学生時代に学習した世界史・日本史において、恰も、聖書、日本書紀。古事記、仏陀の言葉(スッタニパータ)が、この世で起こった事件記録として、掲載されていることが、誤認混同・錯綜状態を起こしている原因なのです。

歴史上での史実として、相応しいのか、真実であるか否かを見極めることが、歴史と聖書の関係(関連)性を学ぶにあたって、必要不可欠なのです。

歴史学者や考古学者でさえも、誤認混同している様相です。

何でも、見極める力、見破れる力を備わっていなければ、真相を診ることは出来ないことを、肝に銘じてくださいね!

信じる、信仰する概念は、理系人にはありませんよ!

精神界と物質界に分解して、精査すれば、見極められるから。

教会に通い続けて、親交は出来ても、信仰は出来ませんでした。

信仰告白や使徒信条に描かれた条文面々は、自然法則(特許法第2条に規定)に鑑みて、則していないから。

聖書の様々な奇跡事件は、物質界的に診た場合、不条理なこと、理不尽なこと、と想わなければ、可笑しいですよ!

想定外な事件を奇跡との表現で、描いてしまった姿、滑稽さ観に診得ましたから。

従って、高校生時代から、教会に通い出しても、洗礼を受けることなく、常に、イエス様のスタンス(慈愛心&正義感)を生活(ライフスタイル)に活用する実践者として、様々な修練(実践・研鑽・精査・考察の繰り返し)を続け、神様、イエス様、仲間のクリスチャンから、どのような影響、作用・効果が、得られるか否かを検証してきた次第です。

まあ、イメージとして想われることを下記に記述しました。

神様、イエス様に向かって、種々のお願いをしても、祈っても、何もありませんでした。

神様、イエス様は、常に我々の行動・活動を見守っており、静観しているのですから。

我々個人のお願いではなく、他人への思いやりから、人類の平和まで、の大きな概念での発信は、聴いてくださるかもしれませんが、神様、イエス様は何も出来ないのです。

イエス様の十字架上での処刑で、サバクタニと言っているのも関わらず、天からの救済が来なかったでしょう!

クリスチャンの人も、最後の最期時になった時、気づくと想いますよ!

我々、理系人の思考法は、神仏様は、自然界の中に包含されているとのイメージです。

古代の人は、自然界との概念を持ち合わせておらず、山の神様、海の神様、ご来光の太陽に向かって、拝んでいたことに、宗教観が始まってたと解しています。

光があったとの表現は、太陽を指しているのです。

世界の様々な宗教は、例外なく、全て、太陽神です。

明るくする作用効果がありますから。

無暗にクリスチャンにならなくても、作用効果を見極める実践者として、種々のボランティア(奉仕)活動を続けて、お互いに、親交を深めていく仲間の人脈形成・構築に尽力してきたのです。

クリスチャンになっても、超利己中な姿で、「歓喜の人生」を謳歌出来ない人を多々診て参りました。

如何でしょうか?

感謝。



本件テーマ:https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=589024&id=93096120



1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年03月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031