1980年代後半の雑誌インタビューより
中井 写真に打ち込むことは、僕にとって非常に楽しいことだった。だけれど、きついことは相変わらずあったし、なんというか、楽しい状態にしたかったのね、すべてを。その頃ですよ。レゲエに触れたのは。
レゲエとの出逢い
MW いよいよレゲエですが、中井さんにとってレゲエは、どういうふうに入ってきて、それはいったいなんだったのか。
中井 ボブ・マーリイの『バビロン・バイ・バス』というレコードがあるんだけど、いろいろと辛いときに、まる一ヵ月くらい毎日、それを聞いていたんです。その中で彼は、まわりの人たちの苦しみを歌っているんです。それを聞いて、結局、「自分が苦しいときに、他人の苦しみを感じることで救われたというのか。自分の中で苦しんでいるのは、もうつまらない。たかだか自分の苦しみでしかないんだ」と、ボブ・マーリイは歌っているのです。やはり、彼らは奴隷の歴史を経てきているわけだしね。繰り返し繰り返し聞くうちに、レゲエが、日本語になおさず、英語のまま、彼らのメッセージとして入ってきて、”もうレゲエしかない”という時期が2年ぐらいあったんです。
写真は僕の救いだったから、それで飯が食えるとは思っていないし、当時やっていたファッションデザインスタジオも、業界そのもののめまぐるしさに疲れたこともあって、カミさんと本気でレゲエショップを作ろうということになったんです。それで、仕入れのためにジャマイカに行ったんだけども、こんなふうにのめり込むとは全く思っていなかった。ところが、むこうの人の現実をみて、いろいろな人たちのつながりができると、やはり友だちのためになんとかしてやりたいという気持ちになってしまってね。その彼らの友だちは、インンターナショナルにアフリカともつながっているし、もうなんでもいいから、僕がやれることを一手に引き受けた結果、ラスタカラーにどっぷり浸っちゃったんだね。たとえば有名なミュージシャンでも、レコード1枚作るために御飯も食べられない人たちがたくさんいるから、彼らは僕にすがるような具合だしね。
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